主体・客体の脱構築から、食の哲学を試みる

山本博史

追手門学院大学社会学部教授

 

1.頭で食べる現代人――情報の過剰

 ネット上には食に関する情報が氾濫している。たとえば、Googleという検索エンジンで「グルメ」「ラーメン」「讃岐うどん」といったキーワードで検索すると1000万件以上ヒットする。食に関する情報の氾濫は、ネット上だけのことではない。テレビのなかでは、レシピを紹介する古典的な料理番組や旅行記仕立ての料理紹介番組から、『あるある大事典』『ためしてガッテン』などの情報提供番組や『ゴチになります!』『どっちの料理ショー』『愛のエプロン』などのバラエティ番組にいたるまで、食に関する情報が氾濫している。もちろん紙媒体も健在である。書店に行けば「料理本」「グルメ本」のコーナーはあるし、週刊誌や新聞の中にも、食に関する情報が満ち溢れている。『包丁人味平』『中華一番!』『美味しんぼ』『クッキングパパ』に代表される少年マンガ・青年マンガもまた、それらのテレビアニメ化とともに、情報氾濫に一役買っている。

 巷に氾濫している情報は、一見したところ一過性の情報という性格をもっているように見えるが、実は、食に関する強力な言説圏を形成している。この言説圏は、ダイエットに関する言説群・栄養学的もしくはヘルスプロモーション的言説群・自然志向言説群・安全性志向言説群・グルメ志向言説群など、さまざまな言説群から成り立っているのであるが、この言説圏の形成には共犯関係が見られる。食品・食材を商品として供給する生産者・企業、食品・食材の有効性や美味しさなどに関する情報を消費者に提供する「専門家」、商品や情報を媒介するメディア、これらが「上から」一方的に言説圏を作り上げているわけではない。実は消費者もまた、「専門家」の権威や情報を丸呑みして商品を購入するだけでなく、私的体験言説(体験談)を提供することによって、この言説圏の形成に「下から」加担しているのである。

 私たち消費者は、このような言説圏のまっただ中で、食に関するさまざまな情報の流れに翻弄されながら、食を営んでいる。情報の氾濫のおかげで、私たちは食に関してずいぶん「物知り」になったが、情報や知識に依拠して「ものを食べる」という現代人の食のあり方は、はたして健全な食のあり方なのだろうか。北大路魯山人は、「美食は物知りになることではない」、「味の分かる舌を持たなくては、よい料理は出来ない」と述べているが、魯山人の言葉を借りて言えば、「物知り」になった現代人は、どうやら味の分かる舌で食べずに、頭で食べるようになったようである。

2.記号を食べる現代人――情報の不足

 1948年に中交総社(翌年サンシー殖産に商号変更、1958年12月に日清食品に商号変更)を設立した安藤百福が、大阪府池田市で世界初の即席めんを開発し(1958年8月25日)、大阪市東淀川区の田川工場でチキンラーメンを量産し始めた頃、私は4歳であった。それほど時間を経ることもなく、我が家にもインスタントラーメンが登場したのを覚えている。その後、「インスタントぜんざい」とかも我が家に登場したが、私は「インスタント」時代とともに成長してきたのかもしれない。藤子不二雄の『おばけのQ太朗』に登場する小池さんほどではないにしても、インスタントラーメンをずいぶんたくさん食べてきたと思う。

 最近、コンビニに行って「またやられてしまった」と思うことがよくある。足がついついインスタントラーメンのコーナーに向いてしまい、ポップに「新発売」「新商品」「店長おすすめ」といった文字があると思わず手を伸ばしてしまう。当初は乱立状態であったインスタントラーメン会社は1970年前後に淘汰され、その後、単品大量生産の時代から多品種少量生産の時代へと時代が変化し、商品サイクルが極端に短期化するのに呼応する形で、こうしたポップが登場してきたように思う。しかし、そこにはどれほどの情報が存在するというのだろうか。「新発売」「新商品」には、読み取るべき情報としては「新」しかない。「店長おすすめ」にしても、店長の舌がどの程度のものであるのか、どのような点がおすすめなのか、誰に対するおすすめなのかといった情報が欠落している。こうした情報の極端な欠落にもかかわらず、そうしたポップが有効なのは(J・ボードリヤール風に言えば)、私たちが、相互に差異化されている物/記号を消費しているからである。「新商品」は「新」というだけで従来の商品から差異化されており、「店長おすすめ」はおすすめでない商品から差異化されている。もちろん、こうした差異化は、ポップにだけ見られるのではなく、「季節限定」「地区限定」「○○増量」といった形で商品のラベルにも見られるし、こうした状況は何もインスタントラーメンに限ったことではなく、身のまわりの多くの食品・食材が、今や、物/記号と化している。私たちは、どうやら記号を食べているようである。

3.主体性なき食生活――主体性の記号論的解体

高橋久仁子は、『「食べもの神話」の落とし穴』の中で、「フードファディズム(Food faddism)」を「食べものが健康や病気に与える影響を誇大に評価したり信奉する」ことであると説明し、氾濫する「食べもの神話」を解体するという、非常に重要ではあるが、同時に非常に困難なことを試みている。ファディズム(faddism)に含まれているファド(fad)とは一時的な流行のことであるが、食に関するファドは、何も健康や病気やダイエットに関係するものに限らないであろう。それらと比較すればほとんど問題にすらならないかもしれないが、グルメに関するファドといったものも当然ある(少し古いが、タピオカとかティラミスの一時的大流行を思い出していただきたい)。先に述べた食に関する言説圏の中では、新しいファドが絶えず発生し、新しい神話が絶えず生み出されているのである。だが、そのようなファドに翻弄され、食の神話を生かされている私たちとは、いったい何者なのであろうか。「頭で食べる」私たちとは、食に関する情報を自ら収集する主体であるようにも見えるが、実は、ファドや神話に支配された没主体的な食生活者なのではないだろうか。

 同じことは「記号を食べる」私たちにも言える。「新商品」「新発売」「店長おすすめ」は、もちろん文字どおりの意味ももっているが、同時に、<試食すべきもの><売れ筋>とでもいった意味ももっており、そのようなポップを付された商品は、そうした意味を担った物/記号として、それだけ強く私たちに差し迫ってくるのである。もっとも、ポップを付された商品だけが物/記号だというのではない。ポップを付されていない商品も、たとえば<○○味の定番>といった、それなりの記号性を担った物/記号であり、桜や梅や桃といった個々の言葉が差異の網目(示差的な関係)の中に置かれているように、ポップを付された商品だけでなく、実は、どの商品も差異の網目の中に置かれているのである。あらゆる商品を差異の網目の中に置く、差異化の論理が消費の文法として社会の中に暗黙裡に成立していることによって、物/記号の消費は成り立つ。日常的な意識としては、インスタントラーメンのコーナーで主体的に商品を選択して消費しているようにも見えるが、その消費活動は、実は、差異化の論理に支配された没主体的な活動であり、消費をすることによって、逆に、この文法を再生産しているのである。「記号を食べる」私たちとは、「頭で食べる」私たちと同様に、没主体的な食生活者なのである。

 ところで、主体性なき食生活者は、主体性がないという理由で非難されるべきだろうか。「主体性がない」という表現が通常は否定的な意味で用いられることからすれば、この問いに対する答えは明白であるようにも思える。しかし、そうした答えは、西洋近代の科学(=学問[Wissenschaft])の根底にある「主体-客体」図式が何か絶対的なものであると前提するときに出てくる答えである。西洋近代は、理性的自己意識的な存在である人間の主体性を第一原理としている。しかし、それは一つの可能的な立場でしかないのではないだろうか。近代科学(現代科学)が食をどのような仕方で取り扱っているかを考察することによって、このことを考えてみたい。

4.食の科学――西洋近代と「主体-客体」という分裂関係

 食は、どのような仕方で科学の問題となりうるのであろうか。少なくとも、口の中に入ってきた食べものが咀嚼され、嚥下され、消化・吸収され、排泄物として外に出されるまでのすべてのプロセスが(さらにはその記憶が)研究の対象となりうるであろう。しかも、関係する学問領域は非常に多岐にわたるであろうし、目的や方法もまた多様であろう。しかし、基本的な図式は一つである。それは、観察や測定や分析をする研究者〈主体〉が、食べものを食べる人間(主体)と食べもの(客体)との関係を、研究の対象〈客体〉としているという図式である。それは二重の「主体-客体」関係である。

 先にあげたテレビ番組『愛のエプロン』では、マズい料理のバロメーターとして、武内絵美アナウンサーの「しわレベル」が10段階指数で表示されるが、食べものの味刺激が、顔面表情筋にどのように影響するか筋電図をとって研究している研究者がいる。こうした研究も、摂取された食べものからの刺激が味蕾の中の味細胞で味覚情報として受容され、どのような神経経路を経て脳に到達し、さらに脳内でどのように情報が伝達されるかといったことを研究する脳神経学者の研究も、食品の成分や栄養素が人間の体の中でどのように利用され、人間の体にどのような影響を及ぼしているかを研究する栄養学者の研究も、食品の物質的性質(物理的性質、化学的性質、熱的性質など)を測定・分析することによって、食品が、味・香り・食感(舌ざわり・歯ごたえ・のどごしetc.)といった点で人間にどのように知覚されるかを研究する「おいしさの科学研究所」がやっているような研究も、同一の図式の上で動いている。もちろん、研究の中心が、前二者では人間の側に置かれており、後二者では食べものの側に置かれているという違いはあるのだが。

 あらゆる存在者に関わる中心点という意味で、人間が、あらゆる存在者の基底に置かれたもの(sub-jectum)[=主体(subject)]になること、それゆえ、あらゆる存在者が、中心に位置する主体から離れたところに置かれたもの(ob-jectum)[=客体(object)]となることに、M・ハイデガーというドイツの哲学者は西洋近代の本質を見いだしている。西洋近代は、このような「主体-客体」図式という知の枠組みをもとに、天体の運行を予測する(=あらかじめ計算する)近代天文学と、歴史的な出来事を検算する(=あとから計算し直す)近代歴史学を生み出したが、そこに見られるのは計算的思考である。食に関する科学も、もちろん、この延長線上にある。そのような計算的思考によって、食品に含まれるどのような成分が、どのようなメカニズムで、どのような影響を人間の身体に与えるかを予測することができるようになるであろうし、味・香り・食感(舌ざわり・歯ごたえ・のどごしetc.)といった、かつては数量化困難と考えられていた感覚でさえ、そうした感覚を引き起こす物質の問題として数量化すれば、何をどのようにすれば、どのような味覚が結果として生じるかを予測することができるようになるであろう(あるビール会社は、ビールのコクとキレを舌における味成分の吸着具合と考え、それを計測する装置や、さらには、のどごしを甲状軟骨[のど仏]の上下運動に要する時間から計測する装置を開発している)。

 こうした食の科学はきわめて有効であり、食品業界では研究・応用が著しく進んでいる。JAS規格では、植物油、卵、醸造酢を主原料とするものだけがマヨネーズとされているが、脂質含量やカロリーを抑えながらも、増粘剤などを使ったテクスチャー・コントロールでマヨネーズそっくりの味を出す製品が、すでに流通している。味覚成分をほとんど変えずに、プリン体をほとんどカットし、糖質も同時にカットした発泡酒も流通している。咀嚼機能が低下した高齢者が豊かな食生活を送るために、まだよく分かっていない咀嚼のメカニズムを解明すると同時に、咀嚼性・嚥下性に優れた物性の食品を開発しようという研究もある。確かに、カニ蒲鉾・人工イクラ・人工キャビアに代表されるコピー食品は、あくまでもコピーであり、魯山人が述べているように「原料の原味」は「科学や人為では出来ない」であろう。しかし、食の安全性や健康や高齢化がキーワードとなる現代においては、食の科学に寄せる期待は今後ますます大きくなるであろう。

 しかし、食の科学の立場は、その優れた有効性にもかかわらず、場合によっては無力である。先に、「食べもの神話」の解体の試みは非常に重要ではあるが、同時に非常に困難であると述べた。神話の解体を試みる側が、人間を中心に据え置いた「主体-客体」図式という知の枠組みのもとで食を捉える食の科学(栄養学)の立場に立っているのに対して、神話を生かされている側の主体性は、実は、すでに記号論的に解体されている。「食べもの神話」の解体の試みが困難であるのは、このように両者の境地(エレメント)がそもそも決定的に異なっているからである。

 没主体的に食の神話を生かされるのでもなく、また「主体-客体」図式でもって食を科学するのでもない、食に関する第三の立場がありうるのではないだろうか。

5.食の哲学――主体-客体の脱構築

 食という営みは、私の「外」にある無数の<生命ある他者>を私の「内」に取り込み、その無数の他者の生命を否定し続ける(=食いつぶし続ける)ことによって、私が私の生命を維持するという、自己保存の営みである。この局面から見れば、私は生命ある他者を否定する<主体>であり、生命ある他者は私によって否定される<客体>である。しかし、私が他者の生命を否定し続け、私の生命を維持することが可能であるためには、生命ある他者が完全に否定されてしまうのではなくて、現実に存在し続けているのでなければならない。否定されてしまう生命ある他者が存在するからこそ、私の生命は維持できるのである。この局面から見れば、生命ある他者が私の生命を保存する<主体>であり、私は生命ある他者によって保存される<客体>である。私たち人間の――それだけでなくすべての生き物の――、他の生命および自然に対する関係は、このような<主体>と<客体>とが常に転倒する関係である(食物連鎖とは、この関係の重層的かつ循環的な構造全体のことである)。食の科学は、人間を中心に据え置いた、一方向的な「主体-客体」図式という知の枠組みのもとでのみ食を捉えるために、このような<主体>と<客体>との転倒関係は、食の科学では問題にすらなりえないであろう。

宮沢賢治の『よだかの星』の中で、よだかは「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。」と泣く。私たち現代人は、他者の生命を大量に食いつぶしていることをほとんど忘却してしまっているが、よだかは、食の営みの真っ只中で、食とは自他の生死が交叉する場にほかならないことを自覚し、そのような交叉(キアスム)の中に自分が置かれていることを不条理だと嘆き悲しんでいる。実存の哲学者の嘆きを思わせる、よだかの嘆きは、よだかが「ただ一つの」自分の生命(個体の生命)にこだわっていることに由来する。一回性を生きる、代替不可能な「ただ一つの」私の重みは、一人称的な次元で捉えれば十分理解できる。しかし、生命というものは、無数の個体の生死が交叉することを通じて延々と連続していくものである。そのような普遍的な生命もしくは生命そのものの連続性という観点からすれば、個体において経験される生死の交叉は、生命そのものが連続していく運動の断片的な微小な契機でしかないであろう。では、普遍的な生命もしくは生命の連続性という観点からすると、食はどのような営みとして捉えられるのだろうか。

私は、普遍的な生命としてはそれと同一の生命でありながら、生命あるものを私の「外」にある他者として私から区別し、その他者を私の「内」に取り込み否定する(=食いつぶす)。このことによって、私の生命を保存しようとするが、他者が自己と同じ生命であるかぎり、他者の否定は同時に自己否定でもあるのだから、「外」にあるものが私の「内」に取り込まれることによって、私と他者との区別、「内」と「外」との区別は溶解してしまう。もちろん、そこには「主体-客体」という分裂した関係は成立しない。そのような境地に関して、西田幾多郎は「斯の如き世に何を楽んで生るか。呼吸するも一の快楽なり」という断想を残しているが、実は、食とは実体としての普遍的な生命を享受する営みなのである。

普遍的な生命の享受としての食。食の科学のように「主体-客体」という分裂関係を生きるのでもなければ、消費社会の中で食の神話を没主体的に生きるのでもない。そうした境地が第三の立場として可能であることに、どれほどの人が気づいているだろうか。過剰な情報に翻弄されている時代であるからこそ、この境地から、食の神話と食の科学を照らし返してみることも必要であると思う。

 

 

参考文献

高橋久仁子著『「食べもの神話」の落とし穴』、講談社、2003年

野村一夫「メディア仕掛けの民間医療――プロポリス言説圏の知識社会学」(佐藤純一編『文化現象としての癒し――民間医療の現在』所収)、メディカ出版、2000年

北大路魯山人著『魯山人の食卓』、角川春樹事務所、2004年

ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』、紀伊國屋書店、1979年

矢谷慈國・山本博史編『「食」の人間学』、ナカニシヤ出版、2002年

宮沢賢治『宮沢賢治全集 5』、ちくま文庫、2001年