『「特色ある教育」平成15年度報告集――体験型学習の多様な展開――』に寄せた原稿です。


     体験の教育的意味

旅行に出る前に、旅行先の情報が記載されているガイドブックを熟読して、現地で「ああ、ガイドブックで見たとおりだ」と単純に再確認する。ガイドブックのおかげで、このような旅行をする人が多くなっているように思う。それも旅行であると言うことができるかもしれないが、何か変ではないだろうか。以下で述べることは――実は、西洋の近代美学における「美の自律性」をめぐる議論とも通底する問題であるが――、基本的にはこれと類似した問題である。

1.媒介としての表象(representation)

K・モレンハウアーは、『忘れられた連関』(みすず書房)の中で、「素材の加工、形成、変形」というモデル(=machenの教育)と「発達していく力の援助」というモデル(=belebenの教育)とをヨーロッパの二つの教育モデルとして提示しているが、いずれのモデルに従って教育するにしても、その営みは、通常、表象(representation)を介して行なわれている。「教育」という語には、上記のいずれのモデルに従うにせよ、教育者が非教育者に対して「上から」働きかけるというイメージがつきまとうが、これに対して、「学習」という語には、自発的もしくは内発的な営みというイメージがつきまとっているように思われる。しかし、その「学習」もまた、通常は表象(representation)を介して行なわれている。

具体的に言えば、学校「教育」という制度においても、制度とは無関係に行なわれる「学習」においても、物理的に感知可能な教科書・参考図書・視聴覚教材などが使用されているが、それらは、ことごとく表象である。いや、「教育」や「学習」という営みは、そうした教材だけでなく、それ自体が表象である言語を介してなされるのであるから、それは表象の集合体を介する営みである。だが、それらが表象であるとは、一体どのようなことを意味しているのであろうか。

 表象(representation)という単語は、「再び」を意味すると同時に「代表的」を意味する〈 re 〉と、「現在」もしくは「現前」を意味する〈 presense 〉という二つの構成要素から成り立っている。これらの構成要素の意味を踏まえるならば、表象とは、「代表的な仕方で」「再び」現前化されたもののことである。つまり、大げさに言えば、講義や教材などを通じて学習者に提示される世界(および世界解釈)は、現前する世界そのものでは決してなく、特定の立場や位置・方法論・言語体系・概念枠などといった既存の枠組でもって「代表的な仕方」で切り取られ解釈された「もう一度の」世界(もしくは断片的世界)なのである。とはいえ、学習者に対して、「代表的な仕方で」「再び」現前化された世界(もしくは断片的世界)が提示されること自体は、決して無意味ではないし、致命的な問題を孕んでいるわけでもない。むしろ、それはそれで必要であると言わざるをえないであろう。というのは、「教育」や「学習」といった営みは、身体的次元の「学習」は別にすれば、「代表的」「再」現前化としての表象を介することなしには、ほとんど成り立ちえないからである。

   2.「代表的」「再」現前化の限界と体験の必要性

 しかし、表象を媒介とする「教育」や「学習」の営みは万能であるわけではなく、当然のことであるが、そのような営みには、現前するものとの直接対峙という点で限界がある。「代表的」「再」現前化としての表象を介しているかぎり、学習者は、現前するものそのものに自ら(=直接的に)対峙することがない。また、現前するものに生身で(=既存の解釈枠組みなしで)対峙することもない。というのは、学習者に提示されるのは、「代表的な仕方で」もって、すなわち他者が作成した既存の解釈枠組みでもって、再現前化された世界だからである。現前するものそのものとの直接的対峙の通路が原理的に塞がれていることが、表象を媒介とする「教育」や「学習」の営みの限界である。そして、このように「代表的」「再」現前化(=表象)を介した「教育」や「学習」の営みには限界があるということが、まさに、現前するものそのものとの直接対峙の必要性(=体験型学習の必要性)の根拠なのである。

 このような観点からすれば、体験型学習においては、体験の目的や体験して欲しい内容を学習者に事前に教示したり、学習者が「調べ学習」的な事前準備をしたりすることは、解釈枠組の事前作成につながり、現前するものそのものとの直接対峙への通路を塞ぎ、体験や解釈を事前にある特定の方向へと規定する可能性があるのだから、避けるべきであろう。

少し具体的に議論を進めるために、村井吉敬の『エビと日本人』(岩波新書)を引き合いに出してみよう。われわれ日本人はエビを大量に消費するが、たいていは、エビの背後にどのような問題が潜んでいるかなどとは考えたりはせずに、ただただ消費するだけ(=食べるだけ)である。このことは、「食」の営みは「教育」や「学習」の営みと必ずしも直結しているわけではないことを意味している。しかし、エビの背後にどのような問題が潜んでいるのだろうかなどという疑問が少しでも生じると、「教育」や「学習」の営みが始まる可能性が出てくる。学習者は、たとえば『エビと日本人』のような書物から、それまでは決して見えてこなかった、アジアの零細漁民の悲惨な労働状況・経済状況や、マングローブの伐採に代表される環境破壊などといった問題(=南北問題)が日本人のエビ大量消費の背後に潜んでいることを「学習」する。そのような「学習」によって、以前には不可視であったものが可視化する(=分からなかったことが分かる)のであるから、もちろん、それはそれで有意義なことではあろう。しかし、表象を介したそのような知(=情報)の獲得によって、たとえば零細漁民の苦悩や苦痛が「本当に分かる」のだろうか。答えは否である。というのは、表象された(=「代表的な仕方で」「再び」現前化された)苦悩や苦痛は、現前する苦悩や苦痛そのものではないからである。「本当に分かる」ためには、再現前化された世界ではなく、零細漁民が置かれている現実世界と自ら直接対峙して、表象を介することなく、表象を超えたところで秘私的に「感得」する必要がある。

   3.体験の教育的意味

 とはいえ、学習者は、自らの体験が一体何であったのかを自ら捉え直そうとするかぎり、さらにはまた、それを他者に公的に伝えようとするかぎり、自らの体験内容を言語化(もしくは表象化)せざるをえない。しかし、自らが「代表的な仕方で」「再び」現前化したものは、現前するものそのものではないのだから、学習者は、両者の乖離に気づく可能性がある。この乖離に気づくことは重要である。というのは、現前するものそのものは、原理的に表象もしくは言語(ロゴス)によっては理解不可能なアロゴスなものであり、そのようなアロゴスなものはアロゴスな理解の仕方をするよりほかはないが、表象もしくは言語(ロゴス)を介した理解とは異なったアロゴスな理解というものが存在することに気づく可能性があるからである。簡単な例を挙げてみよう。『美味しんぼ』(雁屋哲作・花咲アキラ画)というマンガには、「タケノコ自体の甘み」「柔らかいけど歯ごたえがある」「青々とした香り」などといった言葉が無数登場するが、そうした言葉でもって、本当の甘みや歯ごたえや香りが果たして理解できるのであろうか。あまりにも当たり前のことだが、現前するものそのもの(=食べ物の味)は、言葉ではなく、自ら直接対峙する(=食する)ことによってのみ理解できるのではないか。

このことはまた、「教育」や「学習」の営みの中で学習者に提示されるものが、既存の枠組みによって「代表的な仕方で」提示され解釈された「もう一度の」世界(もしくは断片的世界)でしかないことに気づく可能性があることを同時に意味している。すなわち、講義の中で教員によって提示される「学問的に解釈された世界や事象」は、世界そのものや事象そのものではなく、再現前化されたものでしかないという点では、学習者が自己の体験内容を再現前化したものと同次元のものであることに気づく可能性がある(もちろん、妥当性の問題は別であろうが)。このことは、いずれの「代表的」「再」現前化も唯一絶対的なものではないとして(さらにはまた、いずれも部分的もしくは断片的な世界の「代表的」「再」現前化でしかないとして)、両者を相対化する必要があることに気づく可能性があることを意味している。おそらく、体験すること(=体験型学習)の教育的意味は、このような「気づき(=発見)」の可能性が存在することに見出すことができるのであろう。

   結びにかえて

 代表的な仕方で再現前化された世界を提示することと、現前する世界そのものに生身で直接対峙することとは、「学び」という問題圏においては、二者択一的な関係ではなくて相互補完的な関係にある。教育的世界の住人(教師および学生)一人ひとりは、はたして、このことを十分自覚しながら教育的世界に住まっているのだろうか。教師も学生も、「もう一度の」世界を提示したり提示されたりするだけで満足しているのが現状だとすると、それは、「気づき(=発見)」の可能性が塞がれることを意味するのだから、大きな問題だと言わざるをえないであろう。


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