雑誌『人間会議』(2003年6月号)に寄せた原稿。『「食」の人間学』(ナカニシヤ出版)の反響なのか、編集担当者からメールで原稿依頼が来た。
別の所(財団法人塩事業センターのWebマガジン『en』)からも原稿依頼が来ていたが、返事を書きそびれているうちに音沙汰がなくなってしまった(笑)。
教訓!無理をしてでも原稿依頼には応ずるべし!

現代人の食意識

現代はITの時代だとか情報化の時代だとか言われている。ではその情報化の時代において、私たちはいったい何を食べているのだろうか。私たちの「食」の営みは、どのようなものに成り下がっているのだろうか。このことを明らかにするために、一見したところ「食」とは何の関係もないように見える「情報」というタームを手がかりにして、現代日本の「食」の状況を確認するところから始めてみよう。

情報の過剰

 グルメブームだと言われる。グルメ関係の番組をテレビで見ない日はない。「今日もコロッケ、明日もコロッケ」なーんて、五月みどりの「コロッケの唄」(昭和37年)を口ずさんでいた時代もあったのに、いつから私たちはこんなにグルメになったのだろうか。健康ブームだとも言われる。天然ルチンやカテキンといったカタカナ語がペットボトルのラベルにまで書かれている時代である。「食道楽」にしても、栄養学や医学に支えられた「食育」にしても、村井玄斎の時代から存在していたのだから、ブームは今に始まったことではないのかもしれない。しかし、この情報の過剰は何なのだろうか。

いつの間にか世間では、行列ができることが美味を意味する記号になっているらしいが、どうやら、私たちは(美味・高級・珍味・本格派・自然・健康といった)「記号と化したもの」を食べるようになっているらしい。『美味しんぼ』や『クッキング・パパ』に代表される薀蓄漫画も、『ためしてガッテン』や『発掘!あるある大事典』に代表されるテレビ番組も、このような世間の動きと共犯関係にある。テレビ番組で紹介された食材がすぐにスーパーなどで飛ぶように売れるのを見ていると、もしかしたら私たちは、「食べもの」というよりは「情報」を食べているのではないかなどと思ってしまう。過剰な情報が、私たちの食を規制し、私たちの食欲(や購買欲)を生産しているのかもしれない。

情報の欠乏

 しかし、自分自身の「食」を振り返ってみると、必ずしもそうとは言えないことも分かる。身体に良くないと思いながらも、また忌々しいと思いながらも、わずか三文字からなる情報に私は日々振り回されているからである。そこには、「新商品」「新発売」という情報に魅せられてインスタント・ラーメンを買ってしまっている愚かな私がいる。これは一体何なのだろうか。確たる根拠があるわけでもないのに、情報の不足が期待感となって、私の食欲・購買欲を駆り立てている。企業がこのような形で需要を創造していることは分かりきっているのに、いつしかそのような戦略に絡めとられてしまっている。

情報が過剰であるがゆえに食べ、情報が不足しているがゆえに食べる。私たちの「食」の営みは、「もの」を食べずに「情報」を食べているだけなのかもしれない。

頭と身体(舌)

私たちの「食」がもしそのようなものだとしたら、私たちは本当に身体で食べていると言えるのだろうか。私たちの「食」は、「情報を頭で食べる」という営みにすっかり変質してしまっているのではないだろうか。食品添加物やファースト・フードに馴致された私たちの舌は、はたして、グルメと自称することができるほど繊細なのだろうか。グルメがブームになる時代とは、もしかしたら、自分の「舌」が信頼されなくなり「頭」が「舌」に取って代わる時代のことなのかもしれない。

昨年は食品表示偽装事件が相次いで起きた。食に対する信頼を破壊した企業の責任は、たしかに重い。しかし、食品表示の偽装がこれほど容易に成り立ってしまうのは、流通経路・生産地・生産者・生産体制などといった食べものの背後にある様々な「つながり」が消費者には見えてこない仕組みになっていることにもよるが、それを見ようとすることもなく、自分の「舌」よりも表示された情報を信頼する無邪気な「頭」が食の主役を担っているからではないだろうか。

問題は、その「頭」が二重の意味で破廉恥な頭であることである。「情報」を頭で食べるという状況は、実は「情報」のみならず「もの」が過剰であることによって成立しているが、そうした過剰が地球上の限られた部分においてしか成立していないという事実を、この「頭」は無視もしくは忘却している。記号と化した食べものの背後に存在するもの(貧困・飢餓・無知)を忘却して、自分にとって都合の良い目の前の情報だけを喜々として食べる「頭」は、破廉恥な頭と表現するしかないのではないだろうか。

生命を食べること

それ以上に、この「頭」が破廉恥であるのは、「食」という営みの本質をまったくと言っていいほど意識していない点にある。少し考えてみればすぐに分かることであるが、「食」とは、自他の生死が交錯する場で営まれる実に生々しい営みなのである。パッケージ化された「食材」という形でこの生々しさを幾分「脱色」してはいるが、私たちは、単なる「もの」を食べているのではなく、「生命」を食いつぶして生きているのである。ベジタリアンの道を選んだところで、このことから決して逃れることはできない。

近藤薫美子の絵本『のにっき』は、自己の生命を維持するために他者の生命を食いつぶしている生き物は、いずれは他者の生命を維持するために食いつぶされることになるが、この他者の生命もまた、いずれは(この他者の)他者の生命を維持するために食いつぶされることになるという形で、生命が脈々と連続していくことを生々しく描いている。個体としての生き物が営む「食」は、断片的に捉えれば自他の生死が交錯する場であるには違いないが、生命の連続性という大きな流れから見れば、実は非常に小さな契機でしかないのである。

 生死の交錯という生々しさを実感することも、生命の連続性という大きな流れから「食」を捉えることもなく日々精力的に記号や情報を食べ続ける「頭」は、肝心なことを忘れている破廉恥な「頭」である。

 現代人の「食」に関する意識は、グルメや安全や健康といった表層的なものが支配的であり、本質的な事柄が意識されることはきわめて稀である。私たちは「舌」も「頭」も鍛え直さないといけないところまで来ているのかもしれない。なんでも簡単に信頼してしまう無邪気な「頭」よりも信頼できる、しっかりとした「舌」をまずは取り戻さなくてはいけない。普段は食べものの背後に潜んでいてなかなか見えてこないものを見ようとする想像力豊かな「頭」や、他者の生命を食いつぶしていることが実感できる鋭敏な「頭」を取り戻さなくてはいけない。そして、できることならば、「食」という営みは生命の連続性という大きな流れに参与するのであるから、食するものが何であれ、その営みそのものが快であるという深みのある境地に近づきたいものである。

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