看護について

夏休みに書斎の片づけをしていたら、こんなものが出てきました。30歳になるかならない頃の文章です。「バカなことを書いとるなぁ」という感じ。


大阪府立千里看護学院『創立五周年記念誌』
5周年記念誌発刊を祝して
講師 山 本 博 史

 先ず最初に、千里看護学院が開校以来5年の歳月を経たことに対して、心からお慶び申し上げます。この5年間を振り返ってみますと、うら若き乙女達の視線が熱く(?)感じられてとうとう最後まで顔を上げられなかった、第一期生の最初の講義時間のことなどが、今では懐かしく思い出されます。さて、今回は「看」と「護」とをテーマに思いつくままに筆をとってみたいと思います。
 F.ナイチンゲールは「看護覚え書き」の中で、迅速で正確な観察を欠けば、私達は、どれほど献身的であろうとも役に立たないでしょう」と言って、観察の重要性を説いています。「看」という漢字は、手を目の上にかざし太陽をさえぎって見ることを意味していますが、差し当たってそこで強調されているのは、患者の身体的状況を対象的に看(観)ることの重要性です。その際、全ての患者に妥当する
一般的な事柄とともに、患者の個別性が観察されるべきことは言うまでもありません。しかし、観られているのは単なる対象物ではなく人間ですから、患者が何を考え、欲し、欲していないかを/ 例えば言葉を介して(或いは先の対象的観察を介して)覗き見ることも同時に必要です。これら両者は、患者の症状をねんごろに尋ね診るためには不可欠です。
 しかし、この両者だけではまだ足りないのです。「……これらの人々は、自分たちが観察をしていなかったということさえ観察していない」というナイチンゲールの言葉から分かるように、両者は自己自身に関する観察、即ち反省を伴っていなければならないのです。つまり「看」とは、患者を対象的に観ることにおいて、また患者の心中を覗き見ることにおいて、同時に自己を省みることを意味しているのです。これら三様のみることのどれ一つを欠いても、診ることは成り立たなくなります。
 看ることは、患者の病状が悪化するのを防護し、患者の生命を救護するために、更には健康状態を保護するために必要です。つまり護ることを目的として看るのです。しかし護るということは、果たしてそれだけを意味しているのでしょうか。これとは別の意味もあるのではないでしょうか。
 哲学者ハイデガーは、「死は、それが存在する限り、そのつど私の死である」と言い、我々が日常経験する他者の「死亡事例」は、私の死を考える際の代用主題とはなりえないと言います。そして、そのつど私のものである私の死へと私が本来的に態度をとることにおいて、私は「単独化する」と言います。ここで「単独化する」とは、他者の私に対する顧慮的な気遣いが――看護はその一つの在り方なのですが――「役に立たなくなる」ことを意味します。死が差し迫っていようといまいと、私にとっては私の死へと本来的に、或いな非本来的に関わることが問題なのですが、そのようなもともと私的な問題に関しては、他者(医療従事者を含めて)は役に立たないのです。そうであるならば、死につつある者が自己の死へと本来的に関わりつつ死にゆく(生きる)場合には、例えば末期癌患者が癌(=死)と格闘しつつ生きる(死ぬ)場合には、看護(医療)は、それをただただ見守るという形をとらざるえないでしょう。
 この限界を看過すれば、S・ソンタグの言う医療の父親主義(medical paternalism)が頭をもたげてくることになります。これは、医療従事者と患者との関係を父子関係としてのみ捉えるものですが、医療従事者はあらゆる患者あらゆる気遣いを患者から奪取しうるという錯誤に基づいており、死につつある者から自己の死へと関わることを奪うことによって、死ぬことを知らずに死ぬのが常に一番幸福であるとでも言いたげに、死につつある者に対してその死を隠蔽する秘密主義を招くことになります。

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