「水の都」は復活するか?

 高校卒業と同時に故郷高知を離れ、大阪に住んで30年近くなろうとしている。巨大都市に初めて足を踏み入れた者は、たいてい、モノの洪水(充溢)や大都市特有の喧噪(人と音の充溢)や利便性(手段の充溢)に圧倒され、驚きや戸惑いを感じるであろう。だが、大阪に初めて足を踏み入れた30年近く前の私は、そのような驚きや戸惑いとは無縁であった。驚きや戸惑いを感じる以前に、感覚的な歪みや不気味さを大阪に感じ取っていたからである。遠くを見通すことができないほど汚染された薄黄色の大気、海や川の、何色とも絶対に表現できない汚濁色と卒倒しそうになるほどの汚臭、吐き気を催すほどの水道水のまずさ。これが、かつては「水の都」と称されたこともある大阪に対する、私の第一印象であった。
 こどものときに毎日のように遊んだ故郷の川が、安価なコンクリート護岸によって単なる排水路や放水路や用水路と化していくさまを帰省のたびに見せつけられると、自分の過去を消し去られているような思いがして悲しい気持ちになる。しかし、高知には「川」がまだまだたくさん残っているから、まだマシなのであろう。私は、「川」と呼ぶにふさわしい「川」を、大阪ではほとんど目にしたことがない。私が見た川は、どれもこれもコンクリートで塗り固められた水路であり、「川」と呼べる代物ではなかった。水と気軽に戯れることができ、水辺の満ち溢れる動植物と戯れることができる、日々の生活と密着した「川」が、大阪にはあるのだろうか。
 大阪市のあるパンフレットでは、「にぎわいのあるアメニティ豊かなウォーターフロント」という言葉が使われているが、コンクリートで塗り固められた「水路」に、コンクリートやアスファルトの遊歩道をつければ、アメニティが豊かになるのであろうか。人間を中心に考えれば、アメニティが豊かになるようにも思える。しかし、そのようなアメニティ概念は、人間中心主義的な狭量なアメニティ概念である。アメニティという概念は、もっと拡大して考えるべきだと私は思う。
21世紀の大阪のウォーターフロント構想は、「人間だけでなく多様な動植物もにぎわう、多様な動植物にとってもアメニティ豊かなウォーターフロント」ではないだろうか。そのようなウォーターフロントを実現することができれば、大阪は「水の都」として復活することができる。だが、それは果たして可能なのであろうか。
大阪人は反権威主義的だとしばしば言われる。たしかに、御上の権威を無視したり茶化したりするという側面が大阪人にはある。しかし、大阪人の反権威主義には、貨幣のもつ力(=権威)には盲従するという、反権威主義とは正反対の権威主義的な側面が常に見え隠れしている。大阪人はすぐにカネの話をするが、それは、大阪人が貨幣のもつ力(=権威)に盲従していることの現れであるのかもしれない。貨幣のもつ力に盲従し、その力を増大させようとする姿勢が従来の「大阪流」であるとすれば、万博や花博に代表される巨大イベントや、ATCやWTCに代表される鉄筋コンクリート製の巨大な箱モノは、まさしく「大都市の流儀」であり「大阪流」であった。しかし、この「大阪流」のおかげで、大阪はコンクリートだらけ、アスファルトだらけになってしまったのではないか。もしそうだとすれば、大阪が「水の都」として復活するためには、そのような従来の「大阪流」は否定されなければならないであろう。
 経済的な価値よりも生物の多様性の価値を優先するような新しい「大阪流」、つまり、金儲けよりも多様な動植物と共生することに価値を見いだす新しい「大阪流」が生まれるかどうかに、大阪の「水の都」としての復活がかかっているように思う。

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