〔書評〕 山本 博史著『カント哲学の思惟構造 理性批判と批判理性』ナカニシヤ出版、二〇〇二年

 檜垣 良成

 本書は、相互に絡み合った四つの問題意識に基づいて書かれている。@批判する理性と批判される理性はいかにして同一性を獲得するか。A個別的な理性はいかなる根拠で人間理性一般を批判することができるか。B理性の自己認識の諸相を逐一解明すべきではないか。C有限的人間理性と無限的神的理性とは相属的な関係にあるのではないか。鍵となる概念は、ロゴスの働きの基底に置かれたアロゴスなものとしてのIntelligenzであり、これを著者は、「フィヒテ的な知的直観に基づく、思惟する我の叡智的な事実的な存在」を主張される「自己に注視し自己を観察する哲学者」と解して、「純粋理性批判」と「実践理性批判」の主要問題を統一的に読み解いてゆく。

 第一章では、時間の優位性の根拠として、(感性の働きを自己の働きとして自覚することを通じて、あらゆる表象が心性の変様として自己の内的状態に属すると自覚し、時間をあらゆる表象の総括として定立する超越論的統覚)を見定め、他方、空間の優位性の根拠として、(時間限定の基体である超越論的対象を自己の相関者として措定し、それが根拠づけるものが直接的には空間において表象されねばならないことを自覚する超越論的統覚)を見定める。これらの「超越論的統覚の内へと向かう自覚」と「外へと向かう自覚」を根拠としての時間および空間の相互的な優位性の定立は、<批判理性が、人間理性を批判するという自らの権限において、また人間理性としては批判する理性と批判される理性が同一であるという保証のもとに、直覚的に定立すること>にほかならない。

 第二章では、個別的な哲学的理性が、(自発的に働き自己を観察しつつ、その働きに即して、またその働きを直接的に意識しつつ、自己の現存在を直接的に意識する)Intelligenzとして働きつつ「純粋統覚」をこの意味の知的直観によって直覚的に定立することが明らかにされる。この定立それ自体はindividuellであるが、哲学的理性は、individuellなこの「私の現存在」の意識を他の物に「すり換える」ことによって、論理的に一般化したueberindividuellな規範的意識すなわち「意識一般」ないし「統覚一般」を要請するのである。同時に、哲学的理性は、やはりIntelligenzとしての自らの存在の確実性を根拠として、現象の客観的実在性を保証するものとして「超越論的対象」を要請し、それを「純粋統覚」の相関者として措定する。思惟内容を感性的表象に制限されることによって実現する具体的自覚に到達した統覚は、「叡智体」という「限界概念」を措定することを通じて哲学的理性と合一し、哲学的理性は「超越論的場所」の限定を通じて自らを、認識可能なものと認識不可能なものとを分かつ 「批判理性」として自覚する。すなわち、「理性の自己認識」が部分的に成立し、批判する理性と批判される理性とに分裂していた哲学的理性は一者性を回復する。

 第三章では、この哲学的批判理性が、またもやIntelligenzであるという自覚を根拠として、「超越論的弁証論」に見いだされる狭義の批判される理性の分裂を、「現象」と「物自体」を分かつことで解消し、実践理性の領域へと移行すべきことを自覚することが明らかにされる。理論理性の領域における「理性の自己認識」は、現象界の限界の自覚と、理念が統制的に使用されるべきことの自覚と、この移行の必然性の自覚でもって終わりを告げるのである。

 第四章では、哲学的理性が、意志に関する反省を通じて、実践理性として自己の感性および理論理性を顧慮することなく自体的に普遍的に自己限定する(意志の自律)に至って、「道徳律」を措定し、純粋実践理性が純粋意志と同一であることを自覚することが明らかにされる。遺徳律および実践的自由の現実性の根拠は、やはりIntelligenzの自覚にあり、哲学的理性は今や自己の叡智的存在を「道徳的絶対的価値を現実に有する存在」であると自覚し(この自覚こそが「理性の事実」である)、現実性を有する道徳律が自由の現実性の「認識根拠」であり、逆に、現実性を有する自由が道徳律の実在的「存在根拠」であることを自覚する。

 第五章では、実践的判断の反省によって「善悪の概念」を導出し限定する哲学的理性の自覚が綿密に吟味され、感性界から叡智界への独断的移行が、反省的行為主体が自己をIntelligenzであると自覚していることと、神(無限的理性的存在者)のrealな現実性を要請することによって成立すること、そして、「純粋意志」が「善意志」であることの自覚(Autognosie)と道徳律に従う行為が「善行為」であることの自覚が成立することが明らかにされる。

 第六章では、道徳律と現象としての善行為との包摂関係がいかにして可能かに関する自覚が獲得され、感性界と叡智界とを実践において架橋する根拠を示す「純粋実践的判断力の範型論」の意義が明らかにされ、自らが実践理性であると同時に理論理性でもあるという哲学的批判理性の自覚が成立する。

 第七章では、純粋実践理性と感性との関係に関する哲学的理性の同一の反省過程において、感性の個を注視するか純粋実践理性の側を注視するかに応じて、パトローギッシユな感性が制限され克服されるべきことを「自己認識」して「謙抑の感情」が生じるか、それとも、そのような制限と克服を遂行する純粋実践理性の働きを「自己是認」して「尊敬の感情」が生じるかであることに即して、(Intelligenzの絶対的自発性の働きによって感性が内的に触発(制限)された結果)としての前者を介して、(Intelligenzの絶対的自発性の働きが、直接的に、「人間性」という具体性を獲得して発現した結果)が尊敬の感情であることが明らかにされ、Intelligenzのドグマ性の問題も提起される。

 第八草では、「純粋実践理性の弁証論」で問題になっている純粋実践理性は、<自らが経験的実践理性であり、理論理性であることも自覚している哲学的批判理性>であることを明らかにした上で、「最高善」、「二律背反」、「要請論」の論理構造が明確にされ、神の現存在の要請も魂の不死の要請も、(哲学的批判理性の、狭義の純粋実践理性の叡智的事実牲の自覚、すなわち、自らがIntelligenzであることの自覚)を根拠にしていることが明らかになる。Intelligenzであることに対する哲学的批判理性(有限的理性的存在者)の絶対的な信は、「理性宗教」(無限的理性的存在者に対する信) への移行の根拠であり、かくして、批判哲学全体を支えるアルキメデスの挺子の支点であることが主張される。

 単なる論文集ではなく、それぞれの章にテクストと四つに組んだ独創的な解釈を含みつつカントの理論哲学と実践哲学をIntelligenzという統一的な視点から論じきった本書に対しては、歴史的文献学的な揚げ足取りはふさわしくないであろう。Intelligenzのオールマイティな評価は異論を呼ぶかもしれないが、後のドイツ観念論の展開を思うなら「哲学」的に十分に首肯されうる視点を確保しており、カントの主要テクストを残らず自家薬籠中のものとするまで読み込む姿は、まさに著者が冒頭で奨励する「哲学すること」の実践にほかならない。「判断力批判」に関する第三部の上梓が待たれるところである。

『日本カント5 研究カントと責任論』

(日本カント協会編、理想社、20047月、185-187頁)

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