学と遊    

                    山本 博史

          Wissen und Spielen

                    Hiroshi YAMAMOTO

   要約

 
教育は世界的な危機の状態にある。様々な具体的な対策が論じられ講じられているが,状況は好転するどころか,悪化さえしている。こうした危機の中で,教育は改めて問い直されなければならないだけでなく,問い始められなければならない。小論の第一節では,カントの教育論を手がかりにしながら,教育学的アンチノミーの問題と権力支配の関係という従来不問に付されてきた問題が析出されている。西洋近代のもつ危険性と教育における自由回復のアポリアが,そこでは論じられている。第二節では,西洋近代の学のオントロギーに対して,老荘の遊のオントロギーを対置し,それが真理および自由とつながるものであることを論じた。第三節では,西洋近代の学のオントロギーの枠組みの中で不問に付されてきた問いを問い直すこと以上に,西洋近代の学のオントロギーと老荘的な遊のオントロギーとを架橋するという問いを問い始めることが重要であることを論じた。

キーワード:カントの教育論,教育学的アンチノミー,西洋近代,権力支配,老荘思想


   はじめに
  かつて,十八世紀の啓蒙の哲学者カントは,『教育学について』の中で,「人間は教育によってのみ人間になることができる。人間は,教育が人間から作り出したものにほかならない。注意すべきことは,人間は人間によってだけ教育されるということ,しかも,同じように教育された人間によってだけ教育されるということである」(S. 443)(1)と述べたが,この一文には,教育に関するいくつかの重要な問題が凝縮されている。そうした問題の中から,教育学的アンチノミーと権力支配関係という二つの問題系を取り出し,それらを考察することによって,まず第一に,西洋の教育学的な問題領域に潜む原理的な問題を明確にしてみようと思う。そのうえで,人間存在に関する西洋近代の問題を孕んだ考え方に対して,古代東洋の対極的な考え方を対置することによって,《学び》に対するどのような問いが現代において発せられなければならないかを考察してみようと思う。


   第一節,「学」のオントロギー


   「理性化可能な動物」から「理性的な動物」へ
カントの一文には,人間が人間になる( Mensch werden )という生成の問題が語られている。この一文は,被教育者の心身が時間的な経過の中で発達することを,したがってまた教育の営みも時間的な経過の中でなされることを意味しているのだと,常識的に解釈することができる。そこからさらに,教育されるべき事柄には一定の順序や適切な「時期」(S. 452)というものがあり,「子供はその年令にふさわしい事だけを教授されなければならない」(S. 485)のだという,常識的な主張を導き出すこともできる。しかし,カントのこの一文には,実は,以下のような重層的かつ壮大な道徳的教育論が凝縮されているのである。カントは,人間には動物性(Tierheit)・人間性(Menschheit)・人格性(Personlichkeit)へと向かう「自然的素質」(S. 445)があると考え(2),それらの素質に対応する形で教育的行為を重層的に構想している。すなわち,教育的行為そのものは,(一)人間の動物性が個体的かつ社会的な存在としての人間の人間性を損なう限りにおいて人間の動物的素質を制御する,「訓練( Disziplinierung )」という教育的行為と,(二)自己保存という個体的価値と公民( Burger )という公共的価値とを実現すべく,人間の技巧的・実践的な素質を発展させる「教化( Kultivieren )」あるいは「開化( Zivilisieren )」という教育的行為と,(三)普遍的道徳的価値を実現すべく,人格性への素質あるいは道徳的素質を発展させる「徳化(Moralisierung)」という教育的行為との,三層から成立するとカントは考えている(Vgl. S. 449f.)。しかも,これらの三層は相互に無関係な独立した層ではなく,後のものは先のものを前提にするという形で,それぞれが過不足なく調和しつつ発展しなければならないと考えている(Vgl. S.445)。カントは,こうした教育的行為そのものの重層性に加えて,個体としての人間と類としての人間という人間のもつ二面性をも視野に入れながら,その教育論を展開している。生成とは歴史(Geschichte > geschehen)の問題なのであるから,人間のもつ二面性を視野に入れて教育論を展開することは,教育論を個人史および人類史の問題として展開することを意味している。すなわち,カントは,個々人だけでなく人類全体が漸近的に道徳的完全性へと向かって合目的的に生成・発展するという,個人史的かつ人類史的な道徳的教育論を展開しているのである。
  ところで,上述の三重の教育的行為は,それぞれ(一)感性的欲求の制限,(二)技巧的-実践的な理性化(理論理性のもたらす認識を前提にしながら,有用性という意味の善を実現すべく,理性を技巧的に使用できるようにすること),(三)道徳的-実践的な理性化(普遍性を有する道徳的善を実現すべく,理性を道徳的に使用できるようにすること)と言い換えることもできるであろう。カントのこのような教育論は,人間は現象的存在( Sein )の次元においては,技巧的-実践的な意味においても道徳的-実践的な意味においても,あくまでも「理性化可能な動物( animal rationabilis )」にとどまるのであり,道徳的-実践的な「理性的動物( animal rationale )」という理念(=究極目的)へと漸近的に生成・接近していくことが,「理性化可能な動物」にとどまる人間の使命であり当為( Sollen )であるという,彼の道徳的-目的論的な人間観に基礎を置いている(3)。
  以上のことを考慮するならば,「人間は教育によってのみ人間になることができる」という先の一文は,引用文中の後者の「人間」を,(イ)道徳的-実践的な「理性的動物」としての人間という意味と(ロ)技巧的あるいは道徳的な意味における「理性化可能な動物」としての人間という二重の意味に解釈することによって,以下のような二重の意味に解釈することができる。すなわち,この一文は,(イ)技巧的あるいは道徳的な意味における「理性化可能な動物」としての人間は,教育によって道徳的-実践的な「理性的動物」としての人間へと生成していく実践的可能性をもっている,という意味に解釈することができる(こうした実践的可能性の根拠は,現象界を超えた,人間の叡智的本質に,すなわち「理性の事実」に根ざしている,とカントは考えている)。しかし,道徳的-実践的な「理性的動物」としての人間という理念は,現象界においては決して実現されえないのであるから,この一文は,(ロ)技巧的あるいは道徳的な意味における「理性化可能な動物」としての人間は,教育によって,道徳的-実践的な「理性的動物としての人間」へと多少接近した「理性化可能な動物」としての人間になる現実的な可能性を現象界においてもっている,という意味にも解釈することができる。もちろん,カントはこの引用文に続けて,「人間は人間によってだけ教育されるということ,しかも,同じように教育された人間によってだけ教育されるということ」に注意すべきであると主張しているのだから,先の引用文は,文脈からすれば後者の意味に解釈されるべきであろう。しかし,この引用文を分脈から切り離して,カントの教育論の根底にある道徳的-目的論的な人間観と結びつければ,前者の意味にも解釈することができる。このように解釈すれば,この一文は,個々人ならびに人類全体が道徳的に完全な理性的存在者へと生成し,道徳的共同体である「諸目的の国」を実現していくという,カントの啓蒙的教育観を凝縮して表現したものであると言えよう。


アポリアとしての教育学的アンチノミー
  全人類の道徳的完全性を志向するゆえに極めて壮大であると形容することができる,カントの教育論は,啓蒙の哲学というその名にふさわしく,徹頭徹尾,人間理性(とりわけ道徳的理性)に定位している。すなわち,自律的な道徳的理性の主体へと生成していくことを教育の究極目標としている。しかし,理性の主体を志向するこのような教育論には,実は,《学ぶ私》と《教えられる私》との教育学的アンチノミーとでも名づけることができるようなアポリアが潜んでいる。
  カントは,「教育は一部は人間に何かを教えるのであり,また一部は人間の中から何かを発展させることにすぎない」(S. 443)と述べることによって,教育的行為の二面性を主張している。第一の側面に関して,カントは,学課的教化は「機械的強制」(S. 452)を伴う「労働」(S. 470)なのであって,被教育者(=《教えられる私》)は,教化される事柄の有用性や強制の意義を理性的に洞察する必要はなく,「受動的」あるいは「従順」(S. 475 Vgl. S. 475)でありさえすればいいと主張している。つまり,教育目標とそれを達成するための有効な手段の連鎖――この目的連関は転倒した因果連関であり,カリキュラムやそれを実現するのに有効な一連の技術や教材は,こうした連鎖の具体例である――に関して反省を遂行するのは,教育者の役割であるとされる(カントのこうした主張は,教育におけるパターナリズムの主張につながるものである)。ここで問題となっているのは,「自然に従う原因性」(4)(すなわち因果律あるいは自然必然性)に従って,教育者が,受動的素材である被教育者を技巧的-実践的理性的存在者へと加工・変換あるいは形成( machen )するという,コメニウス的な教育観である(一九八〇年代に向山洋一が提唱した「教育技術の法則化運動」の根底にあるのも,このような教育観である)。理性能力を自ら一度も行使せずして(技巧的-実践的な意味における)理性的存在者になるという,この奇妙な立場は,カントの『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」のアンチノミー論になぞらえて言えば,《教育的世界には自由はなく,すべては自然法則に従う》とでも表現することができよう。
  これに対して,カントは,初期の消極的な自然的教育(つまり保育)および理性の陶冶に関して,第二の側面を中心に論じている。カントは,保育に関しては,保育者は幼児に「自ら学ばせておく( von selbst lernen lassen )」(S. 462)のでなければならないと一種の放任主義を主張し,理性の陶冶に関しては,教育者は理性的認識を被教育者の理性から「取り出す」「産婆」(S. 477)にすぎず,理性的認識の獲得は,被教育者自身の自発的・能動的な理性活動によると主張している。つまり,ここでは,教育とは自己教育(あるいは自己学習)であり,《学ぶ私》が自ら学ぶことであると主張している(カントの念頭にあるのは,もちろん,保育に関してはルソーの『エミール』,理性の陶冶に関してはプラトンの対話編『テアイテトス』におけるソクラテスの問答法であるが,後者に関してはまた,ペスタロッチの『シュタンツだより』における「鼓舞する( beleben )」こととしての教育をも想起させる)。アウグスティヌスは『告白』の中で,「どのようにして私が話すことを学んだのかを知るようになったのは,後になってのことである。おとなたちが,その後間もなく文字を教えたときのように,決められた教育の道筋に従って,私に言葉をあてがって私を教えたのではなく,私が自ら学んだのである」(5)(傍点は筆者による付加)と述べているが,こうした教育観においては,《学ぶ私》の自発的な理性の働きが問題になる。ところで,カント的な超越論哲学の発想に従う限り,経験的な《学ぶ私》の自発的な働きの根底には,超越論的な《学ぶ私》の存在とその絶対的に自発的な働きとが,経験的な《学ぶ私》の超越論的根拠として存在しているのでなければならない。それゆえ,超越論的な《学ぶ私》の絶対的自発的働きを主張するこの立場は,「超越論的弁証論」のアンチノミー論になぞらえて言えば,《教育的世界には自由に基づく原因性あり》を根拠にしていると言えよう。
  このような西洋の伝統的な二つの教育モデルの根底には,《教育的世界には自由に基づく原因性あり》を正当であると主張する定立の立場と,《教育的世界には自由はなく,すべては自然法則に従う》を正当であると主張する反定立の立場との,アンチノミーの問題がアポリアとして潜んでいる。(6)もっともカント自身は,正当にも,「必然的な」法則的「強制において,自由を教化する」ことが「教育の最大の問題の一つである」(S. 453)と述べることによって,教育における自由と必然との問題を一応は指摘しているが,超越論的な《学ぶ私》という次元の問題や教育学的アンチノミーの問題に関しては,無自覚であった。そのためにカントは,この問題を経験的な《教えられる私》の受動性と経験的な《学ぶ私》の能動性(あるいは自発性)との二面性の問題としてのみ捉え,教育過程の適切な「時期」に何れか一方の側面だけを布置するにとどまっている(7)。しかし,この二面性は教育過程のほとんどすべての時期に――たとえば,受動性のみから成り立つとカントが考えている学課的教化の時期においても――成立するのではないだろうか。もしそうであるとするならば,教育学的アンチノミーの問題は,それぞれの時期に適した教育モデルの間の対立という問題ではなく,教育過程のほとんどすべての時期に成立している根源的な原理的な問題であると言えよう。教育学的な問題領域において改めて問い直す必要があるのは,まず第一に,アウグスティヌスの示唆があったにもかかわらず,これまで忘れ去られ,不問に付されてきた,この教育学的アンチノミーの問題ではないだろうか。現象界と叡智界とを分かち,現象界(としての教育的世界)においては反定立の立場が絶対的に真であり,叡智界(としての教育的世界)においては定立の立場が絶対的に真であるとする,カント的なアンチノミーの解決法は,教育的世界を自然必然性の世界と自由の世界とに分断し,両世界の架橋の抽象的な思惟可能性を主張するだけで,両世界の具体的な架橋を不問に付しているのであるから,カントは「教育の最大の問題の一つ」を自覚してはいるものの,具体的には何一つ解決できていないと言わざるをえないであろう。こうしたカント的なアンチノミーの解決法の妥当性はもちろん,場合によっては,西洋の超越論哲学的な問題設定そのものの妥当性も改めて問い直す必要があるのかもしれない。

権力支配
  ところで,理性の主体を志向するカントの教育論は,原理的には,いくつかの権力支配の関係を胚胎している。カントは「人間は人間によってだけ教育される」と主張することによって,教育が世代間の問題であり,人類史に関係する問題であることを主張している。しかし,この一文を機械的強制を伴う学課的教化(machenの教育)の問題と関係させて解釈すれば,教育する主体(教育者)の,教育される客体(被教育者)に対する権力支配の関係が,またそれとともに,この権力支配関係に基礎を置く教育的パターナリズムが現れてくる。教育する主体(教育者)は,完全ではありえないにしても――「理性的動物」としての人間が理念である以上,完全な教育者などというものは理念でしかなく,現実には存在しえない――ある程度すでに訓練・教化・徳化された権力者として,すなわち,技巧的・実践的な理性化および道徳的・理性的な理性化をある程度すでに経験した権力者として,教育される客体としての被教育者を理論的かつ技巧的に支配する。すなわち,教育活動の主体である教育者(権力者)にとって,被教育者とは,観察(あるいは,M・フーコーを意識して監視と言い換えることもできよう)や分析の客体であり,教育に関する様々な技術や法則なるものが適用される客体であり,数量化や数量化による選別が可能な客体にすぎない。かつてエンゲルスは工場の門を地獄の門にたとえたが,それにならって言えば,機械的強制労働としてのカント的学課的教化は,それが「奴隷的」(S. 472)である場合には,地獄そのものであると言えよう(単純なものから複雑なものへと,具体的なものから抽象的なものへと,初等教育から高等教育へと段階を踏むとはいえ,空虚で無意味な,しかも永遠的とも感じられる反復が,今日の制度化された教育機構では日常的に見られる)。交換価値(学歴や就職や社会的地位と交換される教育成果の価値)を除けば,何のために学んでいるのか全く分からないことが,強制的に永遠に繰り返される。段階的であるとはいえ,新しい段階に進むたびに被教育者全員が再びスタートラインに立つという,こうした永遠の《ゼロからの出発》は,《学び》の意味が不在である限り,子どもたちにはシシフォス的あるいはタンタロス的な地獄のように感じられているであろう。
  さて,しばしばマスコミや《知識人》という人種によって焦点が当てられる,このような,被教育者に対する教育者の具体的な権力支配の関係の背後には,より根源的な権力支配の関係が潜んでいる。教化あるいは開化の目指すところは,技巧的・実践的な理性化であるが,技巧的・実践的理性は経験的理論理性を根拠にして成立するのであるから,それは理論的な理性化でもある。しかしこのことは,以下の二つのことを意味している。すなわち,経験的理論理性による自然(および人間)の知的支配と技巧的・実践的理性による自然(および人間)の技術的支配である。理性の主体は,経験的理論理性として,客体としての自然(および人間)を理論的に支配すると同時に,その経験的理論知に裏打ちされた実践理性として,客体としての自然(および人間)を技巧的・実践的に支配する。理性による自然(および人間)の知的・技術的支配という権力支配関係の問題が,教育する主体(教育者)の,教育される客体(被教育者)に対する具体的な権力支配関係の問題の背後に,より根源的な問題として潜んでいるのである。
  第一の具体的な権力支配関係も第二の根源的な権力支配関係も,理性による自然(および人間)の知的・技術的支配なのであるから,その内実は同一である。しかし,両者の関係は単純ではない。第一の具体的な権力支配関係は,第二の根源的な権力支配関係を被教育者において再生産する機能をもっているが,それ自身は第二の権力支配関係を根拠にして成立している。つまり,第一の権力関係と第二の権力関係とは,内実という点では同一であるが,基礎づけという点では循環的な関係にある。カントは「同じように教育された人間によってだけ教育される」という言い方で,この問題が世代間の問題であることを指摘するにとどまっているが,この問題は,原理的には,二つの権力支配関係の循環的な基礎づけ関係の問題である。第一の具体的な権力支配関係には,これまでしばしば焦点が当てられてきたし,今日でもしばしば焦点が当てられているが,第一の具体的な権力支配関係が第二の根源的な権力支配関係との関係において,しかも循環的な基礎づけ関係という観点から論じられたことが,どれほどあるだろうか。このこともまた問い直す必要があろう。
  ところで,徳化もまた権力支配関係を含意している。道徳的-実践的な理性の主体は,自己自身が措定した普遍的道徳法則によって自己自身を限定する,自律(Autonomie)という仕方で自己自身を純粋に支配するのであるから,徳化とは,自己自身を支配する再帰的な権力関係を目指すものであると言っても差し支えはないであろう。道徳的-実践的な理性は,純粋意志あるいは道徳法則の主体として,尊厳という「我々自身の超感性的な現実存在の崇高性」を「感知している」(8)が,この直覚的な自己知と,自らが措定した道徳法則に自らを強制的に服従させるという,道徳的な自己支配とは表裏一体のものである(直覚的な自己知と道徳的自己支配とのこの一体性は,西洋の哲学史においては,プラトンにおける徳と知の一致を想起させる)。もちろん,定言的命法を措定する道徳的-実践的な理性は,仮言的命法を措定する技巧的-実践的な理性の相対性の自覚を根拠にして成立するのであるから,この再帰的な第三の権力支配関係は,第二の権力支配関係を前提にしている。それだけではなく,この第三の再帰的な権力支配関係は,感性的欲求に対する理性の制限的支配(訓練)という第四の権力支配関係をその大前提にしているのである(プラトンもまた,情欲(το επιθυμητικον)に関する徳である節制(σωφροσυνη)を自己知であるとしているが,知(σοφια)とは理性(το λογιστικον)の徳であった。すなわちプラトンも,理性と情欲との間の権力支配関係を主張している)。先に,カントは教育的行為を重層的に構想していると述べたが,教育的行為の重層性とは,実は,権力支配関係のこのような重層性にほかならないのである。
  さて,このように重層化した権力支配関係が意味しているのは,理性中心主義の,特に道徳的・実践的理性中心主義の人間観である。このような(プラトン以来の西洋哲学の)人間観に根ざすカントの教育論は,理性が感性や自然や人間や自己自身を支配するという,理性中心主義を徹底的に志向する教育論なのである。


西洋近代の主体性の形而上学
  ところで,ハイデガーは『世界像の時代』の中で,「人間がSubjekt[=基底に投げおかれたもの,基体的主体]になること」,すなわち,人間が,「あらゆる存在者が,その存在や真理のあり方という点でそこに基礎を置いているような」,したがって「存在者そのものの関わりの中心」(9)となるような存在者になることが,西洋近代の本質に関して決定的なことであると言う。存在者の総体としての世界(自然)は,その自然性を剥奪され,この基体的主体から離れたところに投げ置かれたもの(=客体[Objekt]),あるいはそれに対抗-存立するもの(=対象[Gegenstand])へと仕立て直されて,この主体の前に立たされた(=表象された)像(Bild)となる。しかし,このことは同時に,世界を全体として表象する(=自己の前に立てる)自我,思惟する自我へと,人間が仕立て直され,人間の現存在が意識存在へと狭隘化されることを意味している。西洋近代とは,このような《主体―客体》図式が成立する時代のことなのであるが,思惟あるいは意識(conscientia=con-scientia)の主体は,自らの絶対的確実性を根拠にして,その名のとおり,自らの前に立てた客体としての世界についての知(scientia)を収集するのである。このような知の収集によって,意識の主体は,世界における様々な事象をあらかじめ計算したり(西洋近代の自然科学,典型は天文学),後から計算したり(たとえば歴史学)しながら,世界を知的に,学的[=科学的]に支配する。このような「学」あるいは「知」のオントロギーが,西洋近代を,否そればかりか,洋の東西を問わず現代を貫通しているのである。
  ハイデガーは,西洋近代の「学」と「技術」とは,仕立て直しという作成的性格を有する点で,したがって自然の自然性を剥奪する点で,その本質が同一であると言う。というのは,近代技術もまた,自然が自ずから顕現するのを塞ぎ,自然を,関わりの中心としての主体にとって役立つ有用なものに「挑発」的に仕立て直し,「自然を我が意に従えようと追いつめる」(10)ものだからである。世界(人間をも含めた自然)を,一方では確実性を原理として知的に支配し,他方では有用性を原理として技術的に支配し,世界を徹底的に利用し尽くすという権力支配関係が,西洋近代の本質なのである。そもそも,西洋近代の思惟と技術とが仕立て直しという作成的性格を有するということは,基体的主体(Subjekt)としての人間による権力行使の異形表現なのである。ハイデガーは,このような近代性の明示的な端緒を,「確固不動の基礎(fundamentum absolutum inconcussum)」をコギト(我思う)に求めたデカルトに見いだしているが(11),そのデカルトは『方法序説』の中で次のように述べている。「火や水や風や星や天空や,その他我々を取り巻くすべての物体がもっている力とその働きとを,……判明に知ることによって,……それらをそれぞれの適当な用途にあてることができ,こうして我々を自然の主人かつ所有者たらしめることができるような実践哲学を見いだすことができる」(12)(傍点は筆者),と。しかし,このような近代性の淵源は,ハイデガー自身が「プラトンにとって,存在者の存在者性がエイドス(外見,眺め)として規定されていることは,世界が像とならねばならないということの,ずっと以前に起きていたが,長い間隠されたままで間接的に支配している前提である」(13)と述べているように,プラトンにまで遡ることができるのである。このことは,西洋哲学はプラトン以来,明示的にではないにしても,人間や理性や自己意識を中心にして,その尺度でもって,像としての世界(人間をも含めた自然)を知的かつ技術的に支配するという権力支配関係を秘蔵していることを意味している。現代世界がこのような権力支配関係に一元的に普遍的に支配されているという事態に,ハイデガーは「危険」(14)を見いだし,警告を発している(こうした権力支配関係は,今や日常茶飯に見られる。たとえば,大学等の建学の理念に常套句として書かれる,見た目は麗しそうだが陳腐な《有為な人材(Menschenmaterial)の育成》とは,《未加工の素材としての人間を,何らかの目的にとって有用な人的資源(Menschenmaterial)へと形成すること》にほかならないし,中絶胎児や《脳死》体の,医療資源あるいは医療資源作成工場としての徹底的有効利用といったスキャンダラスな事例を挙げることもできよう)。


  普遍的道徳的理性?
  ところで,カントの教育論もまた,教化あるいは開化に関しては,西洋近代あるいはプラトン以来の西洋を貫通するこのような「危険」な権力支配関係に徹底的に毒されている。確かに,徳化に関しては事情が違っているかもしれないが,アウシュヴィッツとヒロシマを知ってしまった我々は,もはや,カントのように楽観的に,普遍的な道徳的-実践的理性や普遍的道徳法則を信ずることができない(徳化とは,所詮,共同体の特殊な道徳的価値観の再生産の営みでしかないのではないか,という疑念を振り払うことができない)。そればかりか,どのような形であるにせよ,人間の理性を中心に据え置くことにさえ疑念が生じてしまう。
  しかしながら,普遍的な道徳的-実践的理性を否定することは,自律としての自由を否定することを意味する。それはまた,上述の教育学的アンチノミーに関して言えば,《教育的世界には自由はなく,すべては自然法則に従う》という反定立の立場のみが真であるという主張(アンチノミーの不成立の主張)につながる可能性がある。つまり,普遍的な道徳的-実践的理性に疑念を抱き,それを否定すればするほど,技巧的-実践的理性(および理論理性)を中心に据え置く危険な権力支配関係の一元化が先鋭化するという,アポリアあるいは「危険」が生ずる可能性がある。このアポリアあるいは「危険」を避けるには,教育的世界における自由を何としても復権させなければならない。しかし,自律としての自由に対する疑念が消え去らないとすれば,教育的世界において復権されるべき自由とは,一体どのような自由なのであろうか。この問いは,「危険」が我々の身近にまで差し迫っているだけに,解決を迫られているのではないだろうか。
  また,このアポリアを避けようとして普遍的道徳的理性を再び持ち出すにしても,それは,もはやカント的な普遍的人間理性ではありえないであろう。というのは,生命や環境といった現代の問題は,人間理性を中心に据え置くことに疑義を唱えているからである。それゆえ,理性を再び持ち出そうとするのであれば,それは,「人間とはロゴスをもった動物である」というアリストテレスの主張に見られるような,人間の道具的なロゴスではなく,「ロゴスが人間をもつ」(15)という後期ハイデガーの主張に見られるような,人間中心主義を超えたロゴスでなければならないであろう。


  第二節,「遊」のオントロギー


   
  西洋近代の「学」あるいは「知」のオントロギーが,唯一可能な立場なのではない。我々は,中心の絶対的不在性・浮遊性・自在性(あるいは自然性)・混沌(あるいは絶対的無差別・無対立)といったことを特徴とする,古代東洋の「遊」あるいは「道」のオントロギーを,コギトを「確固不動の基礎」あるいは「関わりの中心」とする「学」あるいは「知」のオントロギーの対極にあるものとして,すなわち西洋近代の対極にあるものとして対置することができるであろう。
  『荘子(南華真経)』の大宗師篇の中には,「夫れ知は待つ所ありて而る後に当たる。其の待つ所の者,特り未だ定まらざるなり(いったい認識は,その標準があってはじめて確かなものになる。ところがその標準がそもそも確定しないのだ)」(16)という一文がある。また,逍遙遊篇の中には,「無窮に遊ぶ者は,彼れ且た悪をか待たんや。故に曰わく,至人は己れなく,神人は功なく,聖人は名なしと(終極のない絶対無限の世界に遊ぶ者ともなると,彼はいったい何を頼みとすることがあろうか。そこで,『最高の人には私心がなく,神的な人には功績がなく,聖人には名誉がない』と言われている)」(17)という一文がある。荘子は,これらの一文によって,知あるいは学の立場を徹底的に否定し,中心の絶対的不在を主張している。コギトを絶対的な中心とし,その確実性(あるいは明証性)や有用性を尺度とするデカルト的な立場は,荘子からすれば,主-客・真-偽・善-悪・美-醜・有用-無用などといった様々な対立に捕らわれた,「蓬の心(蓬草で蔽われ塞がれた心)」(18)の所産にすぎないのである。荘子が主張しているのは,忘我あるいは無我の境地に住まい,あらゆる対立や差別から自由となり,それゆえに万物を斉同と捉える「遊心」(19)という在り方である(それは,「我れを喪る」,「彼と是れと其の偶を得るなき,これを道枢と謂う」,「道は通じて一たり」,「心を徳の和に遊ばしむ」(20)という荘子の言葉に表現されている)。老子も同様の主張をしている。たとえば,『老子(道徳経)』第四十八章の「学を為すは日に増す。道を為すは日に損ず。之を損じて又損じ,以て為す無きに至る」(21)という一文は,知を収集し博を目指す「学」の立場に対して,知を捨て去り寡を目指し,無為自然の境地を目指す「道」の立場を述べたものである。このような立場において,なお「学」が成立するとすれば,それは,『老子(道徳経)』第六十四章に示されているように,「学ばざるを学ぶ」(22)という,西洋近代の「学」の立場とは対極にあるような「学」である。
  ところで,上古の日本にも,老荘の「遊」あるいは「道」のような無の哲学へと純粋化されているわけではないが,忘我あるいは無我や絶対的無差別を「遊」と捉える同様の発想が,かつて存在していたように思われる(23)。たとえば,『古事記』の中には,(一)「鳥の遊び」や「出で遊行びき」という,いわゆる遊びに通じる用例のほかに,(二)「喪屋を作りて……日八日夜八夜を遊びき」という用例,(三)天の石屋戸の前で天宇受賣が「神懸り為て」「楽を為」という用例,(四)「八田若郎女と婚ひしたまひて,晝夜戯れ遊びますを」という用例がある。(二)の用例における《遊び》は,殯における鎮魂の歌舞を意味するのであるが,「養老律令」において遊離魂を呼び戻す呪術者の職業部が「遊部」と称されているのと同様に,《遊び》は,身体から自由になって浮遊する彼岸の魂に対して此岸の側から関わる営みであり,その限りにおいて此岸と彼岸とは対立することなく渾然一体となっている。神楽と称されることになる「神遊」は,これとは逆に,本来彼岸にある神が此岸においてする「御遊」のことであるのだが,この場合にも,彼岸と此岸とは対立することなく渾然一体となっている。(三)の用例は「楽を為」とも訓めるが,その直前にある「神懸り」という語句は,此岸と彼岸との渾然とした一体性,すなわち荘子の言う荘周と胡蝶との絶対的な同一性を意味しており,したがって自我の絶対的な消失を意味している。(四)の用例における《遊び》は性交を意味しているが,ここで述べられているのは,動物的な盲目的かつ本能的な性的活動でもなければ,生殖の計算された効用主義的な性的活動でもない。G・バタイユは,エロチスムは「理性の児戯の忘却へと我々を導いていく」「小さな死」(24)であると述べているが,ここで述べられているのも,自我あるいは理性の死,すなわち忘我(25)をもたらしうるような性的活動である(25)。こうした無我・無差別・自在性を「遊」と捉える発想は,上古の日本においては主題化され先鋭化することはなかったが,『正法眼蔵』における「諸佛はこの神通のみに遊戯するなり」(26)という用例に見られるように,禅仏教においては,遊のオントロギーが前面的に主題化されている。

  遊と非隠蔽性としての真理

  ところで,ハイデガーは『存在と時間』の中で,真理(αληθεια)とは存在者の「非隠蔽性(Unverborgenheit)」あるいは「覆われのなさ(Entdecktheit)」であるというギリシャ的真理観について語っている(27)が,老荘思想に典型的に見られる,人間の現存在の遊という存在様式もまた,この非隠蔽性という意味において真理と関わっている。荘子の「蓬心」は,蓬草で覆われ塞がれた心であると文字どおりに解釈することもできるが,蓬は覆あるいは蔽の意であると解釈することもできる。すなわち,「蓬心」とは,自我という中心や善-悪・美-醜などの対立的尺度に囚われ覆われた現存在の存在様式であり,現存在のそうした存在様式のもとでは,存在者の自然性あるいは自在性は塞がれ隠蔽されている。このような「蓬心」から解放され自由になった「遊心」に対してのみ,存在者は隠蔽されることなく自ずから在るがままに顕現してくるのであるから,現存在の「遊」という存在様式は,囚われのなさとしての自由と,覆われのなさとしての真理とに直接関わっているのである。
  ところで,ハイデガーが老子の思想に関心をもっていたことは,現在では比較的よく知られているし,両者の思想の類似性をテクストを比較しながら具体的に指摘することも可能である。だが,それらを具体的に一つ一つ指摘しなくても,『形而上学とは何か』の中の次の一節は,ハイデガーが意外にも早くから老荘的な「遊」の立場に近いところで思索をしていたことを示唆していると,解釈することができるのではないだろうか。その一節とは,「不安は無を露わにする。我々は,不安のうちに《浮遊する(schweben)》。より明確に言えば,不安は存在者全体を滑落させるのであるから,不安が我々を浮遊させるのである。このことの中には,我々自身――この存在する人間――が存在者のまっただ中で共に滑落するということが含まれている。それゆえ,結局のところ,《汝にとって》また《我にとって》気味が悪いのではなくて,《ある者にとって》気味が悪いのである。何ものにも依拠する(halten)ことができない,この浮遊の底深き振動の中にあって,純粋な現・存在だけが,なお現にそこにある」(28)という有名な一節である。この一節は,世界の無化とともに,有意義化の中心としての自我も不動の基礎として依拠すべき自我も無化し,それゆえにまた自他の差異も無化し,無差別のまっただ中で在るがままに浮遊している,現存在の「遊」という存在様式について語っていると解釈することができるのではないだろうか。
  しかし,残念なことに,少なくともこの時期のハイデガーは,このように浮遊する本来的自己存在を非日常的な自己存在であると規定している。すなわち,ハイデガーは,いかにも西洋人らしく,もはや基体的主体(Subjekt)としての自己ではないにしても,自己であることに依然としてこだわっている点において,また,「遊」を非日常的と捉える点において,老荘ほど徹底していない。ハイデガーは,おのれの死へと積極的に態度をとるという,非日常的な大げさな自己関係の中に「遊」を見ているが,我々は,遊びや仕事や無我夢中になって没頭していることにおいて,日常茶飯に「遊」という存在様式を,極めて一過的ではあるが現に示している。日常的とか非日常的とかといった差異は,差異化する中心的視点を前提にしているが,中心の絶対的不在を特徴とする「遊」という存在様式は,日常的とか非日常的とかといった,そういった差異さえをも超えた,根源的な存在様式なのである。

   第三節,「学と遊」

  さて,こうした古代東洋の「遊」のオントロギーを,西洋近代の「学」のオントロギーに対置することによって,確かに,西洋近代の「学」のオントロギーの狭隘性・不自然性(あるいは反自然性)・権力性・危険性を際立たせることができる。しかしながら,「遊」に徹することは,「赤子」あるいは「嬰児」(29)ではない我々にとっては,非現実的である。経験的理論理性や技巧的-実践的理性に根ざす科学や技術が圧倒的に優勢な現代においては,なおさらそうである。それゆえ,非現実的な「遊」をただ単に「学」に対置するだけでは,反近代・反科学・反技術を虚しく主張しているにすぎないであろう。「学」と「遊」という両極の間を,何れにも徹しきれずに浮遊しながら往還している我々現代人は,両者を架橋するような次元を模索しなければならない。換言すれば,知の収集としての《学び》と学ばざることを学ぶという《学び》とを架橋することが,現代の教育学的課題である。だが,そのようなことは果たして可能なのであろうか。また,可能であるとすれば,それはいかにしてであるのだろうか。西洋近代の「学」のオントロギーの枠内で不問に付されてきた問いを問い直すことも確かに必要ではある。だが,それ以上に重要なことは,西洋近代の《学》と古代東洋の《学》との架橋という《学び》に対する新たな問いを,これから問い始めることではないだろうか。
(了)



1) カントの著作からの引用は,アカデミー版カント全集(Kant's gesammelte Schriften, hrsg. von Preusischen Akademie der Wissenschaft)――以下K.G.S.と略す――に依る。K.G.S.第9巻に収録されているImmanuel Kant ueber Padagogik (hrsg. von D. Friedrich Theodor Rink)からの引用に関しては,頁数のみをアラビア数字で本文中に記した。Kritik der reinen Vernunft からの引用は,慣例に従い,第1版をA,第2版をBとして表記した。なお,小論は,『学びの人間学』(中嶋昌彌・矢谷慈國・吉田正編,1998年,晃洋書房)に掲載する原稿として当初準備したものである。同書所収の拙論「学びと私」を合わせて読んでいただけたら幸いである。
2) 『実用的見地における人間学』では,人間性への素質は,「技術的な(意識と結合した機械的な)素質」と「実用的な(他の人間を自己の意図のために巧みに使用する)素質」とに二分され,人格性への素質は,「道徳的素質」(K.G.S. Bd.Z. S 322.)と言い換えられている。
3) Vgl. K.G.S. Bd.Z, S. 321.
4) Kritik der reinen Vernunft, A532 = B560.
5) アウグスティヌス『告白』(上下,服部栄次郎訳,岩波文庫,1976年)上巻22頁。
6) コメニウス的なmachenの教育とペスタロッチ的なbelebenの教育という,西洋の伝統的教育モデル間の対立の問題や,《学ぶ私》の問題については,K・モレンハウアー『忘れられた連関』(今井康雄訳,みすず書房,一九八七)に教えられた。
7) この点については,拙論「カントの『教育学について』雑考」(『教育研究所紀要』第8号所収,追手門学院大学教育研究所発行,1989年)を参照していただければ幸いである。
8) K.G.S. Bd. X. 88.
9) Martin Heidegger, Die Zeit des Weltbildes(in Holzwege, 1938, 1972[5] ,Vittorio Klostermann), S. 81.
10) Martin Heidegger, Vortraege und Aufsaetze, S. 22f.
11) このことに関しては,『世界像の時代』に付された第9番目の追記(Zusatz)を参照されたい。Martin Heidegger, Die Zeit des Weltbildes(in Holzwege, 1938, 1972[5] ,Vittorio Klostermann), S. 98-103.
12) Rene Descartes, Discours de la Methode (Le Livre de Poche, 1973) p. 163.
13) Martin Heidegger, Die Zeit des Weltbildes(in Holzwege, 1938, 1972[5] ,Vittorio Klostermann), S. 84.
14) Martin Heidegger, Die Technik und die Kehre(1962, Guenther Neske), S. 28.
15) Martin Heidegger, Einfuehrung in die Metaphysik, (Gesamtausgabe Bd.40, 1976[4], Vittorio Klostermann), S. 183f.
16) 金谷治訳注『荘子』(第1冊-第4冊,1971-83年,岩波文庫),第1冊173-174頁。
17) 前掲書,第1冊26-28頁。
18) 前掲書(逍遙遊篇),第1冊35-37頁。
19) 前掲書(人間世篇),第1冊126-128頁。
20) 前掲書,第1冊,40-42頁,54-57頁,57-60頁,149-152頁。
21) 福永光司『老子』(上巻1978年,下巻1987年,朝日文庫),下巻63-67頁。
22) 前掲書,下巻138-145頁。
23) この段落に関しては,『遊びの大事典』(日本レクリエーション協会監修,1989年,東京書籍)に掲載されている「日本の遊び観」を参考にした。
24) G・バタイユ『エロスの涙』(森本和夫訳,1976年,現代思潮社),5頁。
25) ecstasy(英語)Ekstase(ドイツ語)extase(フランス語)は,ギリシャ語εκστασισに由来するが,この語はεξ-ιστημι(〜の外にー立つ)という動詞から派生したものである。バタイユによれば,エロチスムは我々を自我や理性といった在り方の外に立たせるという意味において,自我や理性の死なのである。
26) 道元『正法眼蔵』(水野弥穂子校注,1990-1993年,岩波文庫),第二分冊,320頁。
27) Martin Heidegger, Sein und Zeit, (1927,1972[12], Max Niemeyer), S. 219, Vgl. S. 33, 34,212f., 219-222.
28) Martin Heidegger, Was ist Metaphysik? (im Wegmarken, Gesamtausgabe Bd.9, 1976, Vittorio Klostermann), S. 112.
29) 「赤子」は『老子(道徳経)』第五十五章に,「嬰児」は『老子(道徳経)』第十章,第二十章,第二十八章に登場する,無為自然の徳の体現者の比喩的・象徴的表現である。

1998年4月27日 受理

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