カントにおける人間・社会・国家(1)

                    山本 博史

           Mensch, Gesellschaft und Staat in der Philosophie Kants (1)

                    Hiroshi Yamamoto

   はじめに

 カントが法や社会や国家といった問題に対して関心を示し、それらの問題に関する思索を開始したのは、既に多くの研究者によって指摘されているように、相当早い時期であると考えられる。『美と崇高との感情に関する考察への覚え書き』(一七六四/一七六五年頃))や、それと同時期の『脳病試論』(一七六四年)、『一七六五/一七六六年冬学期講義案内』(一七六五年)、『視霊者の夢』(一七六六年)の中には、カントが、ルソーの大きな影響を受けて、この問題に関する思索を開始したことを示す痕跡が随所に見られるからである(注1)。しかし、カントが法や社会や国家の問題に関する哲学的な思索を本格的に開始したのは、六十歳代になってからのことである。一七八五年の『人倫の形而上学の基礎づけ』や一七八八年の『実践理性批判』の中には、人間あるいは人間社会についての深い洞察が至るところに見られるとはいえ、そこではまだ法や社会や国家の問題が特に主題化されて思索されているわけではない。そうした思索が真に展開され、それが体系化されるとともに頂点に達するのは、一七九七年(カント七十三歳)の『人倫の形而上学』においてであろう。
 筆者は以下の小論において、まず第一に、『人倫の形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』において主張されている、カントの道徳的共同体論がいかなるものであったのかを考察し、その考察を通じて、カントの理念的-道徳的共同体論(あるいは理念的-道徳的社会論)が人間の道徳的本質という問題系といかに絡み合っているかということを明確にしようと思う。第二に、筆者は、市民社会と国家とを同一視する、法的共同体論としてのカントの国家論を、法と道徳とはカントにおいてはいかなる関係にあるのか、カントの市民社会論の難点は一体どこにあるのかなどといった観点から考察しようと思う。第三に、カントの「世界市民社会」論あるいは「世界共和国」論を、カントの歴史哲学との関係において論じ、その評価すべき点と難点とを明確にしたいと思う。

   

 カントは『人倫の形而上学』において、人間を「社会( Gesellschaft )へと規定( bestimmt )された(しかもなお非社交的な)存在者」(Y,471)であると定義している(注2)。カントはまた『人間学』においても、「社会の中で人々と共に存在すること」が、「自らの理性によって」課せられた人間の「使命( Bestimmung )」であると述べている(Z,324)。このような人間の定義は、『世界市民的意図における普遍史のための理念』における、人間は「社会に入ろうとする性癖」あるいは「自らを社会化する傾向性」([,20)をもつ存在であるという主張と直ちに重なるものではない。社会の中で共存在することが理性によって課されているという事態と、そのような性癖あるいは傾向性をもっているという事態とは、根本的に異なっているからである。理性によって課されているという事態が何を意味するのかという点については後述するが、「人間とは本性的にポリス的動物である(ο ανθρωποs φυσει πολιτικον ζωον)」というアリストテレスの言葉(『政治学』第一巻第二章)を想起させるカントのこの定義は、社会( Gesellschaft )という概念と共同体( Gemeinschaft )という概念とを明確に区別せずに使用し、しかも共同体という概念を多様な局面において使用するカントにあっては、多様に解釈される可能性をもっている。以下において筆者は、『人倫の形而上学の基礎づけ』および『実践理性批判』において展開されている道徳的共同体論との関係という観点から、この人間の定義の一つの可能的解釈を提示してみたい。
 カントにおいて仮言的-技巧的命法とは、理性的存在者としての行為主体(人間)が、自らの経験的意志に関する経験的反省によって自己定立した、行為の技巧的-理性的な格率のことであり、それは、(1)経験的な実質、(2)「目的を欲する人は……その目的のために必要不可欠であり自分の左右しうる手段をも欲する」という「分析的な」(W, 417)命題、(3)転倒した因果連関である目的-手段の連関に関する理論的命題という、自らの選択意志( Willkur )にとっては他者であるものを媒介とする実践理性(行為主体)の自己限定であり、それゆえ他律( Heteronomie )と称されていた。また、それは、個別的経験的実質を意欲する個別的行為主体との個別的な関係においてのみ妥当性を有するものであった。このように個別的な関係においてしか妥当しえない仮言的-技巧的命法のこの性格は、自他間の技巧的-実践的原理(仮言的-技巧的命法)およびそれに基づく行為は、「偶然的な仕方で」「調和する」(X,28)こともありうるが、実在的な「対立( Widerstreit )」(W,430)を引き起こすということを含意している。カントにおける共同体問題を考える際に、まず第一に念頭に置いておかなければならないことは、仮言的-技巧的命法に従う理性的存在者の行為は、技巧的-実践的に反省された理性的な行為ではあるにしても、なお実在的な対立を引き起こすとカントが考えている点である。つまり、実在的な対立という言葉でカントが言おうとしているのは、「実践的な」「エゴイズム」(Z,128)にほかならない「自愛( Selbstliebe; philautia )」(X,73)は、「汎通的な抵抗( der durchgangige Widerstand )」関係、すなわち「敵対関係( Antagonismus )」を引き起こすという、人間の本性的な「非社交性( Ungesellikeit )」([,20f.)のことである。(カントは、この点においては、自然状態を「万人の万人に対する戦い( Bellem om-nium contra omnes )」であると解するT.ホッブズの立場に立っている)。
 これに対して定言的命法は、仮言的-技巧的命法の個別的相対的な妥当性を自覚した反省的行為主体が、欲求能力の経験的実質をすべて捨象し、「理性的存在者の意欲」という超個体的な「概念」と自らの個体的な「行為の意欲」とを「直接的に」(W,420 Anm.)綜合し、自らの意志を個体的であると同時に超個体的な(したがって普遍的な)純粋意志として自己限定するところに成立する純粋実践理性(純粋意志)の普遍的な自己立法であり、それは意志の自律( Autonomie )と称されていた。ところで、カントは『人間学』において「エゴイズムに対立させられうるのはプルーラリズムだけである」(Z,130)と述
べているが(注3)、「普遍的に立法する意志としての各々の[個別的]理性的存在者の意志」(W,431)、つまり個別性と普遍性とを直接的に綜合する純粋意志は、いわば道徳的プルーラリズムの立場に立つものであり、道徳的プルーラリズムは、このような個別性と普遍性との直接的綜合に基づくものである限りにおいて、実践的エゴイズムを超えているのである。このことに関連して、以下のことを指摘しておくのも無駄ではなかろう。それは、仮言的-技巧的命法を定立する行為主体の経験的意志と、定言的命法を定立する行為主体の純粋意志との関係は、J.J.ルソーが『社会契約論』において、つまり政治の領域において主張した個別(特殊)意志と一般意志との関係に対して、ほぼ平行関係にあるということである(注4)。
 純粋実践理性の「根本法則」(X,30)は、自らが「理性的な自然存在者(現象人)[ vernunftiges Naturwesen ( homo phaenomenon )]」(Y,418)であることを自覚しており、したがって自らの純粋意志の非神聖性を自覚している反省的行為主体にとっては、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」(X,30)という無条件的な命令の形で、すなわち「自己強制」(Y,379,vgl.X,32)という形で成立するのであるが、それは「普遍的立法という単なる形式」(X,27)以外には何も含んでいないのであるから、形式主義的であると言えば確かにそうである。H.ハイムゼートの表現を借りるならば、消極的意味における実践的「自由とは、意欲の実質からの自由」であり、純粋意志とは「意欲の法則そのものへの意志」(注5)である。それゆえ、法則性という形式を意志するところに成立する実践理性の根本法則は、確かに形式主義的ではある。
 しかし、実践理性の根本法則は決して実質を欠いているわけではない。カントは『人倫の形而上学の基礎づけ』において、「実践的な原理は、主観的な目的を、したがって何らかの動機を根底に置くならば、実質的である」(W,427)と言っている。ところで、純粋実践理性(純粋意志)は、仮言的-技巧的命法の相対的な妥当性を自覚するがゆえに法則性そのものを意志し、道徳法則を自己立法するが、道徳法則に従った行為を為すための主観的な動機が行為主体の内に存在しなければ、自らが立法したとはいえ、道徳法則は行為主体の意志を決定しえない。このような主観的な動機としてカントが提示したのは、周知のごとく、「道徳法則に対する尊敬の感情」(X,75)である。このことから既に明らかであるが、実践理性の根本法則あるいは道徳法則は、どれほど形式主義的に見えようとも、尊敬の感情という主観的な動機をその根底に置いている限り、実質的なものである。ところで、道徳法則に対する尊敬の感情は、道徳法則の立法主体であり超感性的な存在者(叡智人[ homo noumenon ])である「我々自身に対する尊敬」(X,161)の感情に直結している。というのは尊敬の感情は、私見によれば、道徳法則を自己立法する純粋実践理性の絶対的自発性の働きが、換言すれば、「人格性」(X,87)意識が、道徳的な人格性の意識として直接的-具体的に発現した結果だからである(注6)。そうである限り、道徳法則の「客
観的な目的」(W,428)は、物件( Sache )とは峻別されなければならない道徳的な人格( Person )であると言うことができる。すなわち、道徳的人格は道徳法則の「目的それ自体」なのであり、道徳法則の目指すところは、自己および他者を「それ自体が絶対的な価値」を有している道徳的人格として承認し尊敬することなのである。カントはこのことを明確にするために、『人倫の形而上学の基礎づけ』において定言的命法を変形し、それを「汝自身の人格ならびに他のすべての人の人格の内にある人間性を、常に同時に目的として使用し、決して単に手段として使用しないように行為せよ」(W,429)と表現したのである。
 しかしながら、自己および他者を道徳的人格として承認するということは、自己および他者が道徳的人格としては同質であることを、したがって、自己および他者はそのような同質的なものとして相互に承認し合うということを意味している。それゆえ、道徳法則の客観的な目的は、同時に、道徳的な相互承認作用という「理性的存在者相互の関係」(W,434)そのものでもなければならない。道徳的相互承認という相互作用( Gemeinschaft )が成立しているような理性的存在者の共同体( Gemeinschaft )は、道徳法則という「共通の( gemeinshaftlich )法則によって」(注7)、目的それ自体であるさまざまな理性的存在者が「体系的に結合されている」関係であるのだから、「諸目的の国( Reich der Zwecke )」(W,433)と称され、またそれは道徳法則によって結合されているのだから、「人倫の国( Reich der Sitten )」(X,82)と称されるのである。「形式主義の原理を表明する根本法式は、本質必然的に、目的それ自体としての人格という概念を、さらには諸目的の国である叡智界という概念を含んでいる」(注8)とJ.シュムッカーは述べているが、形式主義的であるとしばしば非難される実践理性の根本法則あるいは道徳法則は、道徳的人格と道徳的人格が構成する道徳的共同体とをその実質としているのである。
 ところで、カントは『人倫の形而上学の基礎づけ』において、ほとんど目立たないが、カントにおける共同体問題を真に理解しようとするならば本当は誰もが注目しなければならないような発言をしている。それは、道徳的共同体( Gemeinschaft )に「諸目的の国」という名称を与えたその直後の三箇所である。その三箇所とは、(一)「諸目的の国」という道徳的共同体は「意志の自由( Freiheit )によって可能となる」ということを主張している箇所、(二)理性的な存在者は、道徳法則を立法する「元首」としては、「他者のいかなる意志にも服従することがない」「完全に独立した( unabhangig )存在者」であるということを主張している箇所、(三)道徳法則の命ずる道徳的義務は「全構成員に対して等しい程度に( in gleichem Mase )課せられる」(W,434……傍点は筆者付加)ことを主張している箇所の三箇所である。L.ゴルドマンは、「十二世紀から十八世紀に至るヨーロッパにおける市民階級の世界観」の「三つの根本要素」は「自由・個人主義・法的平等」(注9)であると指摘しているが、否、カント自身が既に『人倫の形而上学』の法論の中で、市民的社会( die burgerliche Gesellschaft; societas civilis )すなわち国家( Staat )の構成員である、国家市民( Staatsburger; cives )の法的な本質的な属性は、「法則的自由( gesetzliche Freiheit )」「市民的自立性[独立性]( Selbststandigkeit )」「市民的平等( burgerliche Gleichheit )」(Y,314)であると指摘しているが、諸目的の国という道徳的共同体( Gemeinschaft )に関して主張されている意志の自由・独立性・平等性という三要素は、それらの要素が道徳的であるか法的であるかという点を除けば、ヨーロッパ近代市民社会( Gesellschaft )の三根本要素に対応しているのである。ところで、このような本質的要素の合致は、以下に述べるように、カントにおいては Gemeinschaft 概念と Gesellschaft 概念とがある局面においては完全に合致することを、したがって、道徳的共同体論が倫理的-市民社会論として展開されていることを示唆するものであると言えよう。
 このことを明らかにするために、『純粋理性批判』における Gemeinschaft 概念がそもそも何を意味していたのかを振り返ってみたい。『純粋理性批判』において Gemeinschaft という概念が主題的な概念として登場するのは、周知のごとく、「経験の類推」の「第三の類推」の章と「純粋理性の誤謬推理」の章であり、Gemeinschaft という概念は Wechselwirkung という概念と同義の概念として使用されている。前者においては、「すべての実体は、それらが空間において同時的にあるものとして知覚されうる限り、汎通的相互作用の内にある」(B256)と言われていることからも分かるように、現象的実体( substantia phaenomenon )間に成立する力学的な相互作用( dynamische Gemeinschaft; commercium )の問題が主題となっており(カントの念頭にあるのはニュートン物理学における万有引力の法則である)、後者においては、思惟実体としての精神( mens )と延長実体としての身体( corpus )という叡智的実体( substantia noumenon )間の相互作用の問題が主題になっている(カントの念頭にあるのはデカルト以降の心身関係論である)。つまり、Gemeinschaft という概念は、『純粋理性批判』においては、実体間の相互作用の関係を表す概念として使用されているのである。言うまでもなく、理論的認識の領域においてカントがその妥当性を認めているのは、現象的実体間の力学的相互作用関係である。
 これに対して、『実践理性批判』および『人倫の形而上学の基礎づけ』においては Gemeinschaft という概念は、実際のところ一度も使用されてはいないが、しかし「諸目的の国」あるいは「人倫の国」においては、理性的存在者は、自らの超感性的な現実存在を「実体的なもの」(B427, A414=B441)として単に「感知」(X,88)するにとどまらず、それを道徳的人格性として具体的に自覚しており、そのような自覚を有する理性的存在者の間には、上述のごとく、道徳的な相互承認作用が成立していた。すなわち、「諸目的の国」においては、叡智的な「実体的なもの」の間の道徳的承認という汎通的相互作用( Ge-meinschaft )が成立していたのである。そうである限り、『純粋理性批判』においても、『実践理性批判』および『人倫の形而上学の基礎づけ』においても、現象的実体と叡智的「実体的なもの」という違いや力学的な相互作用と道徳的な相互作用という違いがあるにしても、実体間の相互作用という実体関係論の問題系が等しく主題となっているのだと言うことができるであろう。
 さて、カントは『純粋理性批判』において Gemeinschaft というドイツ語が、力学的な相互作用( dynamische Gemeinschaft; commercium )と場所的な相互関係( lokale Gemein-schaft; communio spatii )という二つの意味に解されることを指摘し、前者が後者の認識根拠であると指摘している(vgl. A213=B260)。このことを踏まえて言うならば、道徳的人格として相互に承認し合う作用( Gemeinschaft; commercium )が理性的存在者間に成立している限り、理性的存在者はそれを基盤としつつ、叡智界における場所的な相互関係( Gemeinschaft; communio )の内にあると言いうるであろう。つまり「諸目的の国」とは、そのような道徳的 commercium を基盤とする理性的存在者の道徳的 communio が成立している空間( spatium )あるいは場( locus )のことなのである。(このこととの関連で言うならば、カントの倫理学は、格率の倫理学もしくは心情の倫理学であると同時に、場の倫理学あるいは共同体の倫理学であると言ってもよいであろう)(注10)。このように「諸目的の国」とは、理性的存在者が道徳法則という共通の[相互作用的な]( gemeinschaftlich )法則によって結合されている道徳的共同体( Gemeinschaft )のことなのであり、この結合(Verbindung )は理性的存在者の自律に基づく結合なのであるから、「諸目的の国」とは、理性的存在者が自律によって自らそこに加わる( sich dazu gesellen )という意味において、理念的-道徳的な社会( Gesellschaft )のことであると言えよう(注11)。事実、カントは『宗教論』において、「諸目的の国」が理念的-道徳的社会であることを、「この理念の指令に従って単なる徳の法則の下に集まる人間の結合( Verbindung )は、倫理的社会( eine ethische Gesellschaft )と名づけられることができ、これらの法則が公共的である限り、この結合は(法的-市民的社会に対して)倫理的-市民的社会( eine ethisch=burgerliche Gesellschaft )、あるいは倫理的公共体と名づけられることができる」(Y,94)と明確に述べている。以上のことから明らかなように、カントは道徳的共同体としての「諸目的の国」を、倫理的-市民社会論として展開しているのである。
 ところで、純粋な理性的存在者が構成する「諸目的の国」は、必ずしも純粋ではない有限な理性的存在者である人間にとっては確かに理念ではある。しかし、それは単なる理念なのであろうか。『純粋理性批判』において無制約者が理論理性の超越論的理念であると言われたのと完全に同じ意味で、「諸目的の国」は理念であると言うことができるのであろうか。以下においては、このことを考察することによって、「諸目的の国」の理念性に関する問題系が、一体どのような問題系と絡み合っているのかを明らかにしたい。
 実践理性の根本法則を自己立法する純粋意志(純粋実践理性)とは、一方においては、「普遍的に立法する意志としての各々の[個別的]理性的存在者の意志という理念」(W,431)という言葉に端的に示されているように、個別性と普遍性との直接的綜合が理念である以上、理念であると言わねばならない。しかし他方においては、純粋意志(純粋実践理性)は、実践理性の根本法則が「理性の事実」(X,31)と言われているように、自らの絶対的自発性と超感性的な現実存在とを直覚的に自覚している純粋な理性的存在者にとっては事実(あるいは現実)なのである。そうであるならば、根本法則から導出される道徳的共同体としての「諸目的の国」についても、同様のことを主張しうるであろう。すなわち、「諸目的の国」は理念ではあるが、理性的存在者のそのような直覚的自覚を媒介としている限りにおいては、同時に事実でもあると主張しうるであろう。ところで『純粋理性批判』においては、理念と経験とが完全には合致しえないことが超越論的理念の特性であると言われ(vgl. A621=B649)、超越論的理念はあくまでも「虚焦点( focus imagina-rius )」(A644=B672)であるとされていた。つまり、超越論的理念に関しては、いかなる意味においても事実性は成立しないのである。これに対して、「諸目的の国」に関しては、道徳的な人格性意識を媒介としている限りにおいてではあるが、事実性が成立しているのであり、この点において、理論理性の理念と実践理性の理念とは決定的に異なるのである(注12)。
 ところで、理念性と事実性との混淆という、実践理性の理念に関するこうした事態は、実は、カントの人間観という問題系と密接につながっているのである。というのは、カントは『人間学』の中で、「理性能力を賦与された動物( mit Vernunftfahigkeit begabtes Thier [ animal rationabile ] )である人間は、自己自身を理性的動物( ein vernunftiges Thier [ animal rationale ])たらしめうるのである」(Z,321)と述べているが、理念性と事実性との混淆という事態は、animal rationabile と animal rationale との関係として、以下のように解釈することができるからである。すなわち、人間の本質は純粋な理性性であり、自己の絶対的自発性と超感性的な現実存在とを、すなわち自己の道徳的な人格性を直覚的に自覚している叡智人( homo noumenon )としての人間は、そのような自覚が成立している限り、いわば叡智的な事実としては、道徳的な意味におけるanimal rationale である。とはいえ、現象人( homo phaenomenon )としての人間は animal rationabile であるにすぎないのだから、道徳的な意味における animal rationale であることは、人間の事実的な本質ではあるにしても、現象人としての人間にとっては直ちに事実なのではない。道徳的人格が「目的それ自体」と言われたことからも分かるように、 animal rationale であることは animal rationabile にとっては自己目的なのである。しかもそれは、自らの叡智的事実的本質(純粋な理性性)によって、その本質を実現することが課されているような自己目的であるという意味において、本質必然的な理念なのである。事実性と理念性との混淆という事態は、以上のように、叡智的事実的本質を実現するように規定しているのは叡智的事実的本質そのものであるという自己言及的な事態のことであると解釈される(注13)。ところで、このことは人間の自己創造性を示すものである。というのは、先の引用箇所の直前において、カントは「人間は、自身で設定した目的に従って自己を完成する( perfektionieren )能力をもったものであるから、彼は自ら創造する( sich selbst schaffen )ところの性格をもつものである」と述べているが、この言葉は以下のように解釈することができるからである。すなわち、animal rationabile としての人間は、animal rationale であることという自己の叡智的事実的本質を実現・完成すべく、自己の本質によって規定されて(使命づけられて)おり、自己の本質の実現という本質的な自己目的に従って、自己創造するものである、と。
 人間がこうした自己創造性を有するという事態は、しかし、道徳的共同体としての「諸目的の国」もまた、創造されるべきものという性格を有するということを同時に意味している。カントにとって道徳的世界あるいは道徳的共同体という全体性は、「何か所与的なもの」ではなく、「課せられた何ものかであり、創造されるべき何ものかなのである」(注14)とL.ゴルドマンが述べているように、人間は自らを道徳的人格として創造し、道徳的人格相互が構成する道徳的共同体を創造するべく、自己の本質によって規定されて使命づけられて)いる、とカントは考えているのである。(この点においては、カントの倫理学は、自己の本質を実現すべく「努力する( streben )」(X,83)ことを主張する努力の倫理学であり、自己の本質を実現することを自己の本質の側から規定されているような自己創造の倫理学であると言うこともできよう)。
 以上のように、カントの道徳的共同体論は、人間の叡智的事実的本質は道徳的な意味における animal rationale であるという人間の道徳的本質論という問題系と絡み合っているのである。冒頭に引用したカントの人間の定義は、今や、次のように解釈することができるであろう。人間とは、「諸目的の国」という道徳的共同体へと、すなわち理念的-道徳的「社会( Gesellschaft )へと規定( bestimmt )された(しかもなお非社交的な)存在者」であり、そのような理念的-道徳的「社会の中で人々と共に存在すること」が、すなわち道徳的に共存在することが、自らの事実的本質たる「自らの(純粋実践)理性によっ
て」(注15)課せられた人間の「使命( Bestimmung )」である、と。
 ところで、道徳的人格性という自己の叡智的な事実的本質を実現することは、また、それを通じて理念的-道徳的共同体を実現することは、純粋意志の自由を実現することと同義である。というのも、純粋意志の自由とは、純粋意志の無媒介的な自己限定の働きのことであり、純粋な理性性という人間の叡智的な事実的本質そのものの働きのことだからである。実践的自由(純粋意志の自由)の実現は、確かにそれ自身の叡智的な事実性によって自己言及的に根拠づけられている。しかし、実践的自由(純粋意志の自由)を現実の社会において実現しようとするならば、このような自己言及的な根拠づけによるだけでは、実現不可能である。ここに、道徳的共同体と法的共同体との関係、徳論と法論との関係という新たな問題系が生じてくるのである。
(未完)




(1)  小論では、この点については全く触れることはできないが、浜田義文著『カント倫理学の成立――イギリス道徳哲学及びルソー思想との関係――』(勁草書房、1981年) は、この点に関する極めて精緻な研究であり、多いに参考になった。
(2)  カントの著作からの引用は、アカデミー版カント全集( Kants gesammelte Schriften, hrsg. von der Preusischen Akademie der Wissenschaften )による。ローマ数字は巻数を、アラビア数字は頁数を示す。ただし、『純粋理性批判』からの引用は、慣例に従って、第一版をA、第二版をBとして記した。
(3)  傍点および括弧内は筆者による。
(4)  ただし、カントの個別的かつ普遍的な純粋意志とルソーの一般意志との間には、相
違点もある。浜田義文教授は、前掲書において、両者の「重要な相違点」として以下の三点を鋭く指摘している。すなわち、(一)ルソーの一般意志は「社会契約を前提」しているという点、(二)「ルソーの場合、一般意志の究極的源泉は自然人の自己愛の内に求められる」点、(三)ルソーの一般意志は「共同体の共通利益を目的として追求する」点の三点がそれである。浜田義文著、前掲書、178頁および次頁を参照されたい。
(5) H.Heimsoeth, Die sechs grossen Themen der abendlandischen Metaphysik.7.Aufl., 1981, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt. S.237.
(6) 尊敬の感情をめぐる問題については、拙論「Autonomie と Autognosie(4)――哲学的理性の実践的反省と感性――」(『追手門学院大学文学部紀要』第26号、所収)を参照されたい。また、純粋実践理性の根本法則と人格性意識(Intelligenz であることの意識)との関係については、拙論「理性の事実とIntelligenz」(『哲学論叢』第15号、大阪大学文学部哲学・哲学史第二講座発行、1985年)を参照されたい。
(7)  gemeinschaftlich という語を、ここでは「共通の」という日常言語的な意味で訳しておいたが、後述のごとく、この単語は、『純粋理性批判』における Gemeinschaft という語の使用法を考慮するならば、「相互作用的な」という意味にも解釈できるし、さらにはまた、道徳的な相互承認という相互作用を基盤とする「相互関係の」、すなわち道徳的な「共同体の」という意味にも解釈することができる。
(8) J.Schmucker, Der Formalismus und die materialen Zweckprinzipien in der Ethik Kants. In: Kant und die Scholastik heute. 1955, S.176
(9)  L.Goldmann, Mensch, Gemeinschaft und Welt in der Philosophie Immanuel Kants: Studien zur Geschichte der Dialektik, 1945, S.22. [L.ゴルドマン『カントにおける人間・共同体・世界――弁証法の歴史の研究――』、三島淑臣・伊藤平八郎訳、木鐸社、1977年、32頁および次頁。]
(10  このことについては、鈴木文孝著『共同態の倫理学――カント哲学及び日本思想の研究――』(以文社、1989年)47-49頁を参照されたい。
(11) 共同体( Gemeinschaft )と社会( Gesellschaft )という概念は、カントにおいては明確に区別されて使用されているとは言い難く、ここに述べたように、ある局面においては完全に合致している。R.アイスラーの『カント-レキシコン』の Gesellschaft の項目においても、「諸目的の国」が「理想的-社会的な( sozial )体系」にほかならないことが記されている。vgl.R.Eisler, Kant-Lexikon, Olms, 1977,S.195. なお、ギリシア語で共同体を意味するκοινωνιαという語は、ラテン語では societas [社会]と訳されてきたが、カントの用語法はこの伝統の枠内にあるといってよいだろう。
(12) 注(10)に示した箇所で、鈴木文孝教授は「諸目的の国」を「仮設的理念」(傍点は筆者付加)であるとされているが、筆者はこの解釈には同意しかねる。
(13) 「諸目的の国」は「意志の自由によって可能となる」(W,292)と言われているが、ここで言われている可能性とは、純粋意志の自由という人間の叡智的な事実的本質によってその実現可能性が既に保証されているような可能性のことであり、実現されることがそのような事実的本質によって既に必然的に規定されているような、したがって本質必然的な可能性のことである。
(14) L.Goldmann, a.a.O. S.47. [L.ゴルドマン、前掲邦訳書、62頁および52頁。]
(15) 括弧内は筆者による付加。

 

 前のページに戻る