カントの賞味期限と倫理学の行方

山本 博史

はじめに

 

 それまでとは少し違った論調のカント研究が見られるようになり、それが気になり始めたのは20年ほど前からのことであろうか。気になる論調というのは、二つの問題領域に関係している。一つは、いわゆる応用倫理学の問題領域を意識したカント研究における論調であり、もう一つは、言語論的転回を意識したカント研究における論調である。本日は、個々のカント解釈の是非を問題にするのではなく、あくまでも「倫理学の行方」というシンポジウムのテーマに即して、(ただし、問題解決の方向を示さないという意味では無責任な仕方で)いくつかの問題提起をしてみようと思う(1)

 

1 応用倫理学とカント倫理学

 

 一方の足を古臭い地味な文献学的な研究に置きながら、もう一方の足を話題性のある新しい問題領域に突っ込むという研究スタイルが、20年ほど前から頻繁に見られるようになった。カント研究者もそうした流れに無縁ではない。カント倫理学に関する研究論文にそれほど目を通しているわけでもない私の手もとにさえ、生命倫理や環境倫理の問題とカントの倫理学とを対峙させるような論文がいくつかある。まずは、それらを概観してみよう。

 

生命倫理とカント倫理学

 

日本カント協会は、1994年の第19回大会(於:長崎大学)において、公開シンポジウム「カントと生命倫理」を開催し、「尊厳死は許容できるか、QOLとは何か、人格とはだれのことか」といった問題を、カントの倫理学を手がかりに議論している。このシンポジウムの様子は、1996年に記念論集『カントと生命倫理』として出版されたが、おそらくこれが、生命倫理の問題とカント倫理学とを大々的に対峙させようとした日本における最初の試みであろう。このような試みは、個人的なレベルにおいてであるが、その後もずっと継続してなされている。たとえば、浅井美智子「生殖技術と自己決定――代理母のエシックス/ポリティクス――」(2002年)は、カント『道徳の形而上学』において議論が展開されている「愛の義務(Liebespflicht)」の中の「親切の義務(Pflichten der Wohlthätigkeit)」(VI, 450f.(2)によって、代理母・代理出産を基礎づけられないかどうかを検討している。また、蔵田伸雄「人間の尊厳を守る責任――カントとヒト胚の議論――」(2004年)は、ヒト胚を目的の国という道徳的共同体の可能的な成員として捉え、また、定言命法の第二方式に含まれる人間性(Menschheit)を人類(Menschheit)と重ね合わせ、「人間の尊厳」を「人類(Menschheit)全体に備わる価値」として捉えようとしている。それはまた、ヒト胚だけでなく、未来世代の人々、動物、生態系に対する応答責任を、カント倫理学によって基礎づけようとしている。また、福田俊章「「人格」の尊厳と「生きるに値しない」生――カントと生命あるいは医療の倫理」(2004年)は、カント倫理学における人格の範囲と自己決定の効力について論じている。こうした試みは、おそらく今後も絶えず繰り返されるであろうが、そもそも何のためになされるのであろうか。

 

環境倫理とカント倫理学

 

 いわゆる応用倫理学を日本に紹介する動きは、まずは生命倫理から始まったように思われるが、その後、環境倫理、情報倫理、ビジネス倫理へと広がっていく。その動きに合わせるかのように、生命倫理ではなくて環境倫理の問題領域に、もう一方の足を突っ込む研究者が次々と出てくる。手もとの資料からいくつか例を挙げてみよう。樽井正義「環境倫理学とカントの哲学」(1994年)は、カントの実践哲学の中核におかれた「自律」の原理を、未来世代に対する義務に関する「自己規制」の原理として、理論哲学における「物自体」の概念を「文化としての科学技術とそれが適用される自然そのもの」との間に存在する「懸隔」の自覚の理説として積極的に評価しようとしている。御子柴善之「カントと環境倫理」(2004年)は、カント倫理学を、理性中心主義ではあるが人間非中心主義の先駆であると解し、カントの「尊厳」をめぐる所説から、自然に対する人間の道徳的義務を導出しようとしている。また、高田純「「自然に対する義務」と「自然に関する義務」――カント義務論の環境倫理学的再検討――」(2005年)は、「動物、他の〔人間以外の〕存在者、および事物に対するあらゆる義務は間接的に人間性に対する義務に向けられる」(Collins., 304) という『コリンズ道徳哲学』の一節を引いて、カント倫理学は「人間中心的(anthropocentric)」ではなく、「人間関係的な(anthroporelational)」性格を持つと主張している。

 

違和感

 

応用倫理学で議論されている個別の問題に関して、少しでも共通点がありそうなカントの言説を持ち出し、それを「応用倫理学的な問題の先取り」であると応用倫理学の方向へと解釈する、カント研究者というよりはカント信奉者と名乗ったほうがいいような研究者の、牽強付会とも思える議論に対して、正直なところ、私はずっと違和感を覚えてきた。動物愛護に関するカントの言説は「(動物解放論を)部分的に先取りするもの」であるとか、「狭義の人間中心主義を脱却する方向を示したことは、環境倫理の今後の展開にとって注目に値する」とか、「人間非中心主義の先駆としてのカントの倫理学は環境倫理の根拠づけのために有効である」とかといった主張を見ていると、そのうち、熱狂的なカント信奉者から、情報倫理やビジネス倫理で議論されている問題はカントの倫理学で基礎づけることができるとか、カントの言説の中に問題の先取りが見られるといった論文が出てくるのではないかと思ってしまう。

 

   2 カント倫理学の有効性

 

 医療技術もさほど発達しておらず、対自然関係にしても暴力的・危機的な状況からほど遠く、それゆえに応用倫理学で論じられるような問題がほとんど問題とならなかった200年以上も前に成立したカント倫理学は、はたして現代においても有効なのであろうか。生命倫理のいくつかの問題を例にして、このことを少し検討してみたいと思う。

 

尊厳を有するのは何か?誰か?――カントの人格概念とパーソン論

 

 カント倫理学の核心が、定言命法を自己措定する、自律(Autonomie)としての実践的自由にあることは言を俟たないであろう。よく知られているように、カントは、『人倫の形而上学の基礎づけ』の定言命法の第二方式(「あなたの人格ならびにあなた以外のすべての人格のうちにある人間性を、決して単に手段としてではなく、常に同時に目的として使用するように行為せよ」)を提示する少し手前の箇所で物件(Sache)と人格(Person)とを区別し、第三方式を提示したすぐあとで相対的価値である価格(Preis)と絶対的内的価値である尊厳(Würde)とを区別している。カントの主張は、純粋実践理性性もしくは道徳的理性性という人格のうちにある人間性が、換言すれば道徳的人格性が尊厳を有するという主張である。このことは重要である。医療倫理に端を発した生命倫理が「人間の尊厳」を問題にする場合、そこには、(a)「(人間の)生命の尊厳[もしくは神聖性](sanctity)」という問題と、(b)尊厳を持つとされる「人間」とは誰かという問題とが含まれている。しかし、(1)生命それ自体が神聖であるとか、生命それ自体が尊厳を有するという発想はカントには基本的にないと思う。自殺の禁止に関する議論からも明らかなように、カント倫理学は生命それ自体ではなく道徳性を重視するのであり、生命それ自体ではなく道徳的人格性が尊厳を持つという主張は、生命倫理の議論とうまく咬み合わせることが困難である。(2)また、(M.トゥーリー、M.A.ウォーレン、J.ファインバーグ、T.エンゲルハート、P.シンガーなどが主張する)いわゆるパーソン論は、「尊厳を持つ人間」を自己意識性および理性性をもつパーソンに限定しようとしているが、彼らが主張している人格性は、カントの立場からすれば、「異なった時間において」「自己の存在の異なった状態において」「自己自身の数的同一性を意識している」「心理的人格性」にすぎず、「道徳的人格性」(Y, 223, Vgl., A361を尊厳と結びつけるカントの倫理学説と議論を咬み合わせることも困難である。さらに、(3)パーソン論は、(M.トゥーリーに典型的に見られるように)「現実性原理(actuality principle)」を採る。potential personではなく、actual personすなわち、現実に自己意識的な理性的存在者のみが尊厳を有すると主張している。これに対して、人間を「理性能力を賦与された動物[理性的でありうる動物]( mit Vernunftfähigkeit begabtes Thier [ animal rationabile ] ) 」(Z,321)と規定するカントは、実践理性の領域においても、人間は同時に感性的存在者でもあるという有限性の事実を踏まえるがゆえに、純粋実践的理性的存在者でありうるという点に、つまり道徳的理性的存在者でありうるという点に人間の道徳性や尊厳を見出している。この点においても、議論を咬み合わせることは困難である。

 

カントにおける道徳的人格の範囲――ヒト胚・胎児をめぐる問題

 

カントにおいて理性的存在者(vernünftige Wesen)とは、理性能力を賦与された(mit Vernunftfähigkeit begabt)存在者を意味する。では、理性能力を賦与された存在者としての人間はすべて、尊厳を有する道徳的人格であると言えるのであろうか。カントは、「愚鈍な者、無思慮な者、無知な者、馬鹿、阿呆、そして愚か者(der Einfältige, Unkluge, Dumme, Geck, Thor und Narr)」と「[精神が]乱された者(der Gestörte)」とは質的に区別され、後者は「癲狂院[精神病院](Narrenhospital)」に入れられ「瑣末な生活上の用事に関してさえ他人の理性によって秩序を維持してもらわねばならない」と考えている(Z, 202)。両者はともに理性能力を賦与された存在者であるが、前者が、通常よりは劣っているとはいえ自らの理性能力を行使しうる存在であるのに対して、後者は理性能力を賦与されていながらも「障害[欠陥](Gebrechen)」のために自らの理性能力を行使しえない存在者、「狂気(Verrückung)」(Z, 217)の存在者であると捉えられている。理性を欠く存在者(vernunftlose Wesen)である(人間以外の)動物は「意のままに処分できる」「物件」であるとされるが、理性を賦与されながらも理性的でありえない理性的存在者としての狂人は、明言はされていないがカントの立場からすれば、尊厳を有する道徳的人格とは到底認められないであろう。理性中心主義のカントの倫理学は非常にうるわしい面を持つが、もう一方で狂気を防止・監禁・排除する優生思想に通じる暴力的な側面もある。

 ヒト胚の道徳的地位についてカントの立場から考える場合も、そうした側面は無視できないであろう。もちろん、現代のような出生前診断の技術もなかった200年前には、ヒト胚の道徳的地位といったことは議論にすらならなかったであろう。また、ヒト胚が理性的存在者であるかどうかに関する明示的な議論もカントにはない。しかし、「生殖に際する胚の成長にともなって、狂気の芽も同時に成長する。つまり、狂気は遺伝的なものでもある。たった一人でもそうした者[=狂人]が現れた家族と結婚することは危険である」(Z217)という、狂気の再生産を危険と捉えるカントの言葉からすると、胚の段階で「狂気の芽の成長」が分かるのであれば、それを摘んで危険回避すべきだとカントが考えるであろうことは推測できる。

カントの倫理学は、理性中心主義に立つがゆえに、道徳的人格性の相互関係からなる道徳的共同体を意味する「諸目的の国」といううるわしい理念を提示することができたが、まさに理性中心主義に立つがゆえに、啓蒙の光、理性の光とは無縁の存在者が存在することを防止しようとしたり、そうした存在者を共同体から排除・監禁したりするという、暴力的な側面を同時にもっている。コインの表裏は一体のものであるのだから、コインの裏側を見ないようにして、カントの倫理学の表面だけを何とか現代に生かそうとすることには無理があるのではないかと思う。

 

自己決定権の問題とカントの自律

 

生命倫理では自己決定の問題がしばしば議論される。そこでは、エンゲルハートに典型的に見られるように、他者の自由を侵害しないかぎりでの「個人の自由の尊重」といった意味合いで「自律」が語られ、中絶・治療拒否・自殺・安楽死・尊厳死・臓器移植・臓器売買などの問題が「自律」もしくは「自己決定」という言葉とともに語られる。こうした自律概念は、はたしてカントの「自律」概念と同質なのであろうか。

マリア・ミースは、論文「自己決定・ユートピアの終焉?」のなかで、「主体の自律性は、ある他者(自然、他の人間、自己の「下位の」部分)の他律性(他者によって決定されること)に基づいている」と鋭い指摘をしている。すなわち、マリア・ミースは、女性運動のなかで問題にされてきた主体の自律性・自己決定は、それによって決定される他者の存在を前提にしており、自律・自己決定は自律的主体と他律的客体という分裂・対立関係のなかで成立していると指摘している。そして、生殖における「自己決定」「自律」が、実は、テクノ家父長制に回収されてしまう「スーパーマーケットにおける選択の自由」にすぎず、自他の「生きた関係」を破壊するものであると批判している。ミースにならって言えば、エンゲルハートの言う自律は、このような自他の分裂関係を前提にする自律であり、自由な意志主体の自律は、胎児や自らの身体や自らの生命や自らの臓器を他者とすることによって成立している。これに対して、カントの言う自律は、純粋実践理性(=純粋意志)の自己限定であり、そこには自他の分裂関係といったものは存在しえない。このことは、自他の分裂関係が問題にならざるをえないような現代の生命倫理の問題に、カントの自律概念をそのままの形で持ち込むことはできないということを意味している。

 カントの倫理学は賞味期限が切れており、そのままの形では200年後の現代にはとても通用しない。カント信奉者のように過去の倫理学者のまだ食べられそうなところだけをいろいろつまみ食いしているのでは、倫理学の前途は開けないのではないか。では、どうすればいいのだろうか。

 

3 カント批判哲学のモノローグ的性格をめぐって

 

応用倫理学を意識したカント研究の浮薄な論調とは違った、もう一つの気になる論調の直接の火付け役は『哲学の変換(Transformation der Philosophie)』の著者であるK-O・アーペルであろう。アーペルは、その論文「超越論的反省のテーマとメディウムとしての言語」や「知識の根本的基礎づけ」の中で、カントの倫理学は方法的独我論のうえに成立しており、自己反省のなかで自己完結しているモノローグの倫理であると批判している。こうしたカント批判に反応して、牧野英二「哲学的対話のトポスとしての超越論的場所論」(1987年)は、超越論的場所論を哲学的対話のトポスと解し、カントの中にディアローグ的性格を発見しようと試みている。これに対して、舟場保之「応答可能性としての責任とカント」「カント実践哲学のコミュニケーション論的転回へ向けて」(2004年)は、理性の公的使用に関するカントの言説をもとに、またW・クールマンのカント批判を手引きにしながら、カント哲学・倫理学にコミュニケーション論を読み込もうと試みている。

 

方法論的独我論あるいはモノローグ

 

 方法論的独我論に関するアーペルのカント批判は、正鵠を射た批判であると思う。理性の自己批判というカントの批判哲学の方法そのものには、独我論的性格がつきまとっているように思えるからである。理性批判を遂行する主体(=哲学者カント)はあくまでも個別的な理性であり、それが人間理性一般を批判するという批判哲学の方法が成立するためには、自己以外にも理性的存在者が存在し、自己の理性と他の理性的存在者の理性とが構造上同一であり、それゆえ人間理性一般という形で一般化しうるということが前提となっていなければならない。このことはカントにとってはあまりにも自明のことであったのかもしれないが、もしそうでないとすれば、それは以下のような転移に基づいているとしか考えられない。カントは『純粋理性批判』において、純粋統覚という「この私の意識を他の物へと転移すること(Übertragung)」(A347=B405)による、一方的な形式的な他我の導出について語っている。それはデカルトに見られるアナロギアによる他我の存在証明と比較すると杜撰としか言いようのないものであるが、このような転移によって、他の理性的存在者の存在が導き出され、転移によるがゆえに自他の理性能力の構造的同一性が保証されるのである。しかし、そうであるならば、批判哲学は方法論的に独我論もしくは批判理性のモノローグであると言わざるをえないであろう。

 これに対して、たとえば、以下のような反論が出されるかもしれない。『実践理性批判』において定言的命法は、仮言的命法の論理的矛盾もしくは実在的対立(der reale Widerstreit)(Vgl. W, 424,430)を自覚した批判理性によって措定されるのであるから、批判哲学は独我論もしくはモノローグであるという批判は当たらない、という反論である。しかし、この反論に対しては、直ちに、以下のような再反論が可能であろう。カント自身が理性批判を「純粋理性の実験」(BXXIAnm.)と表現していることから明らかなように、批判哲学は個別的な哲学的批判理性の思考実験であり、仮言的命法の実在的対立ということが語られるにしても、それは思考実験の中において実在的なものとして思考されているだけである。したがって、カントの批判哲学は思考実験の中で閉じており、独我論的もしくはモノローグである、と。

 

ドグマ

 

 問題はそれだけではない。個別的な哲学的批判理性は、いかなる根拠もしくは権限に基づいて人間理性一般を批判することができるのであろうか。カントは、自発的に働き自己を観察しつつ、その働きに即して、またその働きを直接的に意識しつつ、自己の現存在を「或る実在的なもの」として直接的に意識している存在者をインテリゲンツと名づけているが、インテリゲンツであるという批判理性の自覚、換言するならば、批判理性の直覚的な自己知の確実性が、批判という営みの真の根拠になっていると私は考えている。しかし、そうであるとするならば、それは批判哲学のドグマ性を意味するのではないだろうか。ミュンヒハウゼン・トリレンマの第三の選択肢は「ある一定の時点で探求の手続きを中断すること」であったが、カントの批判哲学は、自らがインテリゲンツであることはいかにして可能かという探求の手前で中断している。「一切の人間の洞察は、我々が根本的諸力あるいは根本的諸能力に到達するや否や、終わりを告げる」(X, 46f.)というカント自身の言葉は、このことを示唆している。この意味で、カントの批判哲学は、認識の普遍妥当性の根本的基礎づけにも、道徳法則の根本的基礎づけにもなっていないと言わざるをえない。だとすれば、この意味でもカントの賞味期限は切れているのではないだろうか。

 

4 倫理学はどこへ向かうことができるのか

 

以上で述べてきたことは、「倫理学の行方」を考えるうえで、どのような示唆を与えているであろうか。思いつくところを列挙してみよう。

 (一)応用倫理学の議論においては、先に例として挙げた「人格」や「自律」といった概念や、「平等」や「権利」や「所有」といった概念が問題になる。それらの概念が持ち出されるとき、賞味期限が切れているのではないかと思われるカントやベンサムやロックといった哲学者が、しばしば安易に引き合いに出される。しかし、先に見たように、問題となっている概念が一義的でなければ議論はうまく噛み合わない。それゆえ、「人格」「自律」「平等」「権利」「所有」といった概念の内実を明確にすることが、まずもって必要であろう。それだけでなく、これまで自明であるかのように用いられてきた、それらの概念がそもそも有効であるのかどうかを再検討することも必要であろう。倫理学の向かうべき方向の一つとして、概念規定と概念の有効性の再検討という方向が考えられるであろうもちろん、そのような方向は、たとえば関西倫理学会の2002年度大会のシンポジウム「権利概念の再検討」に見られるように、すでに多方面で試みられている。

 (二)カントの啓蒙の倫理学がそうであるように、理性中心主義的な倫理学は、場合によっては理性の光と無縁の存在者を排除する反倫理的な倫理学になる可能性がある。たとえ、カント的なモノローグ的理性中心主義を乗り越えようとコミュニケーション的理性を持ち出してきたとしても、「言説の資源」に乏しい者や、「言説の資源」をそもそも持ちえない者を公共性からフォーマルのみならずインフォーマルにも排除するのであれば、そのような倫理学は、やはり反倫理的な理性中心主義的な倫理学になる可能性がある。そうした理由から、理性中心主義でない倫理学という方向を目指すべきだとしたらどうだろうか。

 カントは純粋意志として働く純粋実践理性の自己限定に道徳性を見い出しているが、カントにおいて、意志の規定根拠は何も純粋実践理性に限定されているわけではない。カントは、快・不快の感情が意志の規定根拠になることについても、「衝動は……(中略)……意志の動力である」(U, 261)と言われているように、衝動が動物的感性的意志(Vgl. A534=B562)の規定根拠になることについても語っている(後者の場合には、道徳性はそもそも問題とはなりえないが)。こうした規定根拠も含め、カントは『実践理性批判』において意志の実質的規定根拠を、(1)神の意志という客観的外的規定根拠(2)完全性という客観的内的規定根拠(3)道徳的感情もしくは物理的感情という主観的内的規定根拠(4)公民的体制もしくは教育という主観的外的規定根拠に分類しているが(Vgl.X, 40)、そのような意志の実質的規定根拠を前提にする実践的原理は、すべて経験的であり、普遍妥当性を有する実践的法則とはなりえないとして排除している。

 理性中心主義的でない倫理学という方向を目指すべきだとしたら、それは、相互主観的妥当性を有さない相対主義的な規範倫理学を目指すことを意味しているのであろうか。それとも、理性中心主義的でない倫理学という方向を目指しつつも、なお、相互主観的妥当性を有する規範倫理学を目指すのであろうか。後者の場合、その相互主観的妥当性はどのようにして基礎づけることができるのであろうか。

 (三)

倫理学と政治学との交叉という可能性はないであろうか。生命倫理で問題となった、胎児やヒト胚の道徳的地位をめぐる線引き問題やhuman beingpersonとの間に線を引こうとするパーソン論をめぐる議論を見ていると、また、環境倫理で問題となった権利の拡張の問題をめぐる議論を見ていると、相互主観的妥当性をめぐる闘争という意味で、ethicspoliticsとが交叉して、ethicsの問題がpoliticsの問題に変質しているような印象がある。討議倫理学(Diskursethik)においても、これと類似した事態が成立するのではないだろうか。たとえば、道徳規範の妥当性は、「よりよい論拠(理由づけ)」のみを自らの意思形成の動機づけとする「合理的動機づけ」をもつ参加者が、「よりよい論拠(理由づけ)」がもっている力以外のいかなる権力作用も介在させずに行う、討議によって形成された合意により根拠づけられなければならないとハーバーマスは主張する。しかし、ハーバーマスのこのような討議概念に関しては、差異を抑圧するものであるという批判がすでに繰り返しなされている。合理性の基準そのものが問題となるかぎり、討議は一義的な透明な合意には到達しない。それにもかかわらず、合意形成へと向かおうとすれば、合理性に関してヘゲモニーをもった言説が、それとは異質な合理性をもった言説を抑圧することになる。そこに問題があるというのである。この討議のプロセスに、ヘゲモニーをめぐる闘争を見い出すことができるのではないだろうか。また、一義的な透明な合意も形成されず、意思決定も避けられない状況では、討議が常に未完のものであることを了解する必要があろう。しかし、それは討議がいつまでも決着を見ず、討議が彷徨することを意味するのではないだろうか。Diskurという語はラテン語discurroに由来するが、それは彷徨を意味する。討議倫理学(Diskursethik)には、politicsとの交叉だけでなく彷徨の可能性はないのだろうか。

 

 規範倫理学はアポリアに陥っているように私には思える。そうした状況からどのようにして抜け出し、どこへ向かうことができるのか。答えを見つけ出すのは、それほど簡単なことではないように思う。

 

(1)       本稿は、シンポジウム当日に準備した草稿「カントの賞味期限」に、後日、改題のうえ加筆修正したものであることを最初にお断りしておきたい。また、シンポジウムでの議論を踏まえて大幅に加筆する予定であったが、手術のために十分な加筆ができなかったこともお断りしておきたい。

(2)       カントの著作からの引用は、アカデミー版カント全集による。巻数をローマ数字で、頁数をアラビア数字で示し、文中に表記した。ただし、『純粋理性批判』からの引用は慣例に従い、第1版をA、第2版をBとし、その頁数をアラビア数字で示した。