デジタル時代における倫理学的省察

――情報倫理学の課題――

 

はじめに

 コンピュータに代表されるデジタル情報機器が身の回りに氾濫し、至るところに存在しているデジタル情報機器に毎日の生活が依存していることすら自覚されなくなっている現代は、かつてのアナログ情報が中心であった時代との対比から、デジタル時代と称することができるかもしれない。もちろん、アナログとデジタルとを対比させること自体がすでに相当古くなっているのだから、現代をことさら「デジタル時代」と称することに対しては多少の違和感を覚える。それほどデジタル情報が現代社会において主流となっている。

また、農業革命・産業革命・エネルギー革命との対比から「情報革命」という言葉や、「情報社会」や「ネットワーク社会」や「インターネット社会」という「粗雑」で「漠然とした」概念が今では一般に流通しているが、それにやや遅れながらも歩調を合わせるかのように、この10年足らずの間に、ネチケット(netiquette)、コンピュータ倫理、情報倫理といった意味範囲が多少重なり合っているように見受けられる曖昧な概念が、一般に流通し始めている。

 小論で筆者が意図していることは以下の三点である。まず第一に、2005年に「世界最先端のIT国家」となることを目指している日本の、ここ10年ほどの動きを振り返りながら、日本におけるIT革命の現実の姿がどのようなものであるのかを指摘することである。第二に、日本でコンピュータ倫理や情報倫理がどのように語られてきたかを簡単に振り返りながら、情報倫理および情報倫理学という概念を明確にすることである。第三に、これから構築されるべき情報倫理学は何を問題とするべきなのかを、「情報を所有するとはどういうことか」、「情報社会とは何か」という二つの問題を例として取りあげながら考察することである。

 

   1.e-Japan計画の実態

 最初に、1994年8月に「高度情報通信社会推進本部」――これは2000年7月に「情報通信技術戦略本部」と改称されIT(Information Technology)戦略会議が同時に設置される――が内閣に設置されてからの日本政府の動きを簡単に振り返っておこう(1)。

 2000年に決定された「IT基本戦略」において重点政策として掲げられているのは以下の4項目である。

1.超高速ネットワークインフラ整備および競争政策

2.電子商取引(e-Commerce)ルールと新たな環境整備

3.電子政府(e-Government)の実現

4.IT人材育成の強化

これらの重点政策を実現しようとする政府の動きは、特に最近の5年間は際立っているが、しかし、その強引さと拙速さとを危惧する向きもある。

 IT関連の法整備という点から見れば、(未成立のものも含めれば)主だったものだけでも以下のような法律・法案があげられる。

 

1999年08月 住民基本台帳法の一部を改正する法律(公布)

1999年08月 犯罪捜査のための通信傍受に関する法律(施行)

2000年02月 不正アクセス行為の禁止等に関する法律(施行)

2000年11月 高度情報通信ネットワーク社会形成基本法(IT基本法)(成立)

2001年03月 個人情報の保護に関する法律(案)を閣議決定・国会提出 未成立

2001年04月 青少年有害社会環境対策基本法(案)、国会提出見送り 未成立

2001年11月 サイバー犯罪条約に署名 批准・国内法の整備はこれから

2001年11月 プロバイダ法(通称)公布 2002年5月より施行

2002年03月 人権擁護法(案)を国会に提出 未成立

2002年03月 古物営業法の一部を改正する法律(案)を国会に提出 未成立

2002年03月 行政機関等個人情報保護法(案)を閣議決定

2002年06月 著作権法の一部を改正する法律 公布

 

これらの法律および法律案は、もちろん、(1)超高速ネットワークインフラストラクチャーの整備、(2)電子商取引(e-Commerce)市場の形成、(3)電子政府(e-Government)の実現のための法的基盤整備が目的である。

ところで、2000年の「IT基本戦略」の第4重点項目「人材育成の強化」に関しては、直接関係する法律および法律案は今のところ存在しないが、2001年の「e-Japan戦略」「e-Japan重点計画」「e-Japan2002プログラム」において、「すべての国民の情報リテラシーの向上」、小中高等学校および大学等のIT教育体制の強化」と「情報生涯教育の充実」、「高度なIT技術者・研究者の確保」が目標として掲げられている。小中高等学校に関して言えば、2002331日現在、総数38,678校の内97.9%にあたる37,881校がインターネットに接続しているが、高速インターネット接続率は38.0%にすぎず、1台あたりの児童生徒数も11.1人と多いが、2005年度を目標にインターネット接続の高速化と1人1台(コンピュータ教室)を目標に準備が進められている。しかし、教育における情報化への取り組みも、実は、少なくとも上述の法的基盤整備の開始と同時期に始まっていたと考えられる。199812月には、「技術・家庭科」で情報に関する基礎的な内容を必修させる新中学校学習指導要領が、また19993月には、高等学校で教科「情報」を新設し必修とする新高等学校学習指導要領が告示され、いずれも2003年度から実施されているからである(前者においては情報リテラシーの向上が、後者においては、情報リテラシーの向上に加えて、プライバシーや著作権などの観点から「情報の公開・保護と個人の責任」を理解させるなど情報倫理教育が意図されている)。もしかすると教育の情報化の歴史は、大学設置認可権をもつ文部省(現在の文部科学省)が情報関連学部・学科を新設する方向へと大学を半ば公然と誘導してきた時期にまで遡ることもできるかもしれない(2)

 さて、上記の法律・法律案の中に、一般に情報倫理という名のもとで取り上げられているテーマのいくつかを容易に見出すことができる。たとえば、「住民基本台帳法の一部を改正する法律」「行政機関等個人情報保護法(案)」「個人情報の保護に関する法律(案)」「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」には、それぞれ、行政の合理化との関係において、表現の自由もしくは報道の自由との関係において、通信の秘密との関係において〈プライバシーをどのように考えるか〉という問題が含まれているし、〈公益のためであればプライバシー権を制限することは許されるのか〉という問題が含まれている。また、「人権擁護法(案)」「個人情報の保護に関する法律(案)」「青少年有害社会環境対策基本法(案)」(一括してメディア規制三法案と言われている)には、〈国民の知る権利や報道の自由と表現の自由をどのように考えるか〉という問題が含まれている(「プロバイダ法」や「サイバー犯罪条約」にも、通信の秘密の問題だけでなく表現の自由の問題が含まれている)。また、「著作権法の一部を改正する法律」「サイバー犯罪条約」には、著作権保護という問題が底流にあるとはいえ、表現の自由と通信の秘密が侵害されるのではないかという問題が含まれている。

こうしたことが問題になる背景には、インターネットが普及したことによって、善良な市民であれ、悪意に満ちた確信犯的な犯罪者であれ、幼児や少年であれ、誰でもが容易にグローバルな情報発信者にも情報受信者にもなることができるようになったことや、デジタル情報が主流になったことによって容易に著作物の大量コピーや改作・改竄ができるようになったことがある。確かに、これらの法律・法律案が表立って対象としているのは、銃器・薬物・密入国・組織的な殺人に関する組織的犯罪を実行する者であり、不正アクセスによって情報を入手もしくは改竄したりシステムを破壊したりする者であり、インターネット詐欺を実行する者、著作権を侵害する者など、いわゆる犯罪者である。これらの法律・法律案はまた、メディア規制三法案に見られるように、人権を侵害する可能性があるテレビ・新聞・雑誌などの既存メディアや有害コンテンツを発信するサイトを表面的には対象にしている。これらの法律・法律案の対象は犯罪者・既存メディア・有害コンテンツを発信するサイトに限定されているので、善良な個人には関係がないように見える。しかし、問題はそれほど簡単ではない。

 メディア規制三法案を例にとって見よう。インターネットの普及は、ネット発信によって誰もが情報の発信者になることができるということを意味している。それは誰もが表現者にも報道者にもなりうるということである(ときには政治家や企業などの不正を追及するためにネット上で内部告発するという形の報道者にもなりうる)。法案に登場する「民間の個人情報取扱事業者」「報道」「有害」という語の定義が不明確であり恣意的に運用される可能性があるかぎり、メディア規制三法案は、潜在的には、既存メディアや有害コンテンツを発信するサイトだけでなく、フリージャーナリストや非営利団体や民間のウェブ管理者や作家や、さらには善良なすべてのネット発信者をも対象にしていると解釈するべきである。

次に、「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」を例に挙げてみよう。インターネットがコミュニケーション・ツールであることを考えれば、また犯罪者が犯罪者とだけコミュニケートしているのではなく友人知人など善良な市民ともコミュニケートしていることを考えれば、この法律が善良な市民の通信の秘密を侵害し、プライバシーを侵害するおそれがあることは明らかである。

最後にもう一つ例を挙げてみよう。先の二つの例よりも、こちらの例のほうが問題の性格をより明確にすることができるからである。というのは、先の例は、ネット発信している善良な市民の報道の自由や表現の自由が侵害されるという問題と、犯罪者と何らかの関わりがある一部の善良な市民の通信の秘密・プライバシーが侵害されるという問題であったが、この例では善良であるにせよないにせよ、すべての市民のプライバシーが問題となる可能性があるからである。「住民基本台帳法の一部を改正する法律」は、「住民の利便の増進および国・地方公共団体の行政の合理化」を趣旨として、市町村のコミュニケーション・サーバを都道府県サーバと回線でつなぎ、都道府県サーバを全国センターと回線でつないで住民基本台帳のネットワークを構築するためのものであり、現在のところ本人確認情報(氏名・住所・性別・生年月日の4情報、住民票コードおよび付随情報)のみを扱うことになっている。しかし、住民基本台帳ネットワークは、(そもそも利便性に疑問があるが)行政の合理化という行政だけの問題ではすまされない。今年に入ってからも、企業が持っていた顧客個人情報が大量に(ある企業では45,000人分の顧客情報が)流出するという事件が相次いで起きている(3)。住民基本台帳ネットワークはIP-VPN(仮想閉域網)を利用した行政機関専用のネットワークであるから一般の市民はアクセスできないと言われているが、コンピュータの専門家からセキュリティの脆弱性が指摘されており、企業の顧客個人情報の流出と同様、個人情報が根こそぎ流出しないという保障はどこにもない。この流出した個人情報がさまざまな経路で収集された他の個人情報と結合したとき、そしてICカードが多目的利用されたとき、全国民のプライバシーは危機に陥る。

つまり、住民基本台帳ネットワークの問題は全国民ひとりひとりの問題なのである。企業のホームページなどに掲載されている懸賞や賞品つきアンケートに応募することによって自ら個人情報を企業に与えた個人の情報が不正アクセスによって流出した場合は、もちろん企業の責任は重大であるが、情報を与えた個人にも不用意さと無知に関して責任があろう。しかし、住民基本台帳ネットワークの問題は、これとは違ってインターネットを利用していない人間の個人情報も流出するおそれがあるという問題である。

 ホームページを作成したりメールマガジンを発行したりしているわけじゃないからメディア規制三法案は自分には関係がない。自分の周囲には犯罪を犯すような者はいないから「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」は自分には関係がない。インターネットを利用しないから、あるいはインターネットは利用しているが懸賞や賞品つきアンケートには応募しないから個人情報の流出は自分には関係がない。住民基本台帳ネットワークの問題に関しては、このような言い回しは成立しない。すべての国民が住民基本台帳ネットワークに例外なく組み込まれ、個人情報が国家によって一元的に管理されるのである。他方では、国民の知る権利も報道の自由も表現の自由も通信の秘密も危機に瀕している。これがe-Japan計画の実態であり、現実であろう。

倫理学者は、このような現実の中に組み込まれ、このような現実を生きていることを自覚するべきである。過去の倫理学の書物をただ単に解釈したり、既存の倫理学説をただ単に応用したり、生命倫理・環境倫理・情報倫理などといった欧米の新しい倫理学をただ単に紹介するだけでは、真に「倫理学する」ことにはならない。大量のデジタル情報が高速でグローバルに往来する現実の世界の中で、現実に起きているさまざまな問題に即して「よく生きる」ことを省察すること、すなわち、情報について真に「倫理学する」ことがデジタル時代の倫理学者には求められているのである。だが、一体どのようなことを、どのような仕方で問題とすれば、情報について倫理学したことになるのであろうか。

 

   2.情報倫理の定義をめぐって

このことを明らかにするために、少し遠回りになるが、これまでどのようなものが情報倫理として捉えられてきたかを簡単に振り返っておこう。というのは、一般に情報倫理と称されている領域では、倫理という語が多義的に、しかも道徳とさほど区別されることもなく、また場合によってはエチケットやマナーのようなものまでも混在させた形で用いられており、そのために情報倫理という概念があまりにも混乱していると思われるからである。

 インターネットの前史とも言うべきARPAネット時代に、「コンピュータやそのシステム、ネットワークの内的な働きを深く理解することに喜びを見出す」ハッカー(Hacker)たちの、「盗んだり破壊したり機密を犯さないかぎり、遊びや探求のためにシステムに侵入しても倫理的に問題がない」とか、「コンピュータへのアクセスは無制限かつ全面的でなければならない」とか、「情報はすべて自由に利用できなければならない」とかといった一連の信念もしくは価値判断は、「ハッカー倫理(hacker ethic)」と称されている。現在でもこのような信念をもったハッカーたちは存在すると思われるが、このような信念は、倫理というよりはハッカーたちが共有しているエートス(ethos)[気風]であると捉えるほうが的を射ているであろう。

 また、インターネット上でのエチケットという意味でネチケット(Netiquette)という語も広く用いられている。たとえば、サリー・ハンブリッジ(Sally Hambridge)の「ネチケット・ガイドライン(Netiquette Guidelines)」(4)や、バージニア・シーの(Virginia Shea)の「ネチケットの中核となる規則(The Core Rules of Netiquette)」(5)や、アーリーン・リナルディ(Arlene H. Rinaldi)の「ザ・ネット:ユーザー・ガイドラインとネチケット(The Net: User Guidelines and Netiquette)」(6)など、インターネット上にはネチケットに関する情報が数多く存在する。サリー・ハンブリッジの「ネチケット・ガイドライン」には、たとえば電子メールに関して、「送信する内容には慎重さを、受信する内容には寛大さを心がけましょう」「大文字と小文字を混ぜて使いましょう。……大文字ばかりでは叫んでいるように見えます」「声の調子を表わすにはスマイリーを使いましょう、ただし控え目に」などといったエチケット(礼儀作法)が書かれている。このようなガイドラインは、ネットを利用するうえで確かに重要ではあるが、またすべての内容が倫理とはまったく無関係であるとまでは言い切れないが、それはやはりエチケットやマナーにすぎない。

 また、情報モラルという語もしばしば用いられている。たとえば財団法人コンピュータ教育開発センターが作成した『インターネット活用のための情報モラル指導事例集(文部科学省委託事業)』(2000年)では、日常生活上のモラルに加えて、情報技術の特性やコミュニケーションの範囲や深化などが変化する特性を踏まえたうえで「情報社会で適正な活動を行うための基礎になる考え方と態度」を情報モラルと定義している。しかし、これは奇妙な定義である。一般にモラル(道徳)とは、ある時代に、ある場所の、ある集団によって承認されている行為の準則を意味するか、躾や教育によってそれが内面化されたものである個々人の善悪の感覚を意味する。しかし、インターネットは、空間的な制約を超えるというその性格上、本質的に既存のモラルを危機におとしめる可能性をもっている。従来は存在しなかった高度な情報技術もまた、既存のモラルを危機におとしめる可能性をもっている。例を挙げてみよう。私に宛てられた私信は私のものであり、私の許可なくそれを見たりコピーしたりすることは(法にも反するが)モラルに反する行為である。かつては容易にこのように言うことができた。しかし、1980年代に起きたイラン・コントラ事件で、中心人物であるオリバー・ノースと相棒のジョン・ポインデクスターは頻繁にやり取りしていた電子メールの大半を消去したが、バックアップ・コピーが法廷で用いられた。そのときに、電子メールは誰のものかということが初めて問題になったのである。既存のモラルは、それが通用しないような複雑な新しい情況に直面したとき危機に陥る。リチャード・J・セバーソンは、情報倫理の教科書『情報倫理の諸原則(The Principles of Information Ethics)』の中で、倫理(ethics)を道徳(morality)から区別し、それを「道徳的生活に関する一種の批判的思考」であると規定し、先端医療技術によって生命倫理が必要とされたのと同様に、情報革命によって情報倫理が必要とされていることを主張している。この立場から見れば、財団法人コンピュータ教育開発センターの情報モラルの定義は、既存の道徳(モラル)とそれが危機に陥ったときに構築されるべき倫理とを合わせてモラルと称するという、混乱した奇妙な定義になっていると言わざるをえないであろう。

 社団法人私立大学情報教育協会は『情報倫理教育のすすめ』(1994年)において、情報倫理を「情報化社会において、われわれが社会生活を営む上で、他人の権利との衝突を避けるべく、各個人が最低限守るべきルールである」と定義している(1995年刊行の『情報倫理概論』も、1999年刊行の『インターネットと情報倫理』もこの定義を踏襲している)。1999年刊行の『インターネットと情報倫理』には各大学で策定すべき「ネットワークシステム利用上の情報倫理規定モデル」が掲載されているが、そこでは、情報倫理とは「情報ネットワーク・システム利用上の行為基準であって、その遵守が利用者の健全な社会規範意識によるもの並びに法令または本学学則によってその遵守が義務づけされているもの」と定義されている。この定義は、先の情報モラルの定義よりもさらに混乱している。というのは、「最低限守るべきルール」とか「健全な社会規範意識」の中にはネチケットやモラルが含まれ、それらに準拠しながら法律を遵守することが情報倫理であると規定しているために、エチケットもしくはマナーと、モラルと、法と、倫理との関係が著しく不明確になっている。

 ところで、情報処理学会は、会員が「社会人として」「専門家として」「組織責任者として」準拠すべき行為規範を「情報処理学会倫理綱領」として掲げている。電子情報通信学会もまた、会員が「専門家および一人の個人として」準拠すべき行為規範を「電子情報通信学会倫理綱領」として掲げている。こうした専門家集団の倫理綱領は、医師集団のさまざまな倫理綱領と同様、一種の職業倫理professional ethics)である。情報機器やネットワーク・システムに専門家として関わる専門家集団の行為規範の体系を情報倫理と考えるべきであろうか。筆者は以下の理由から、このような職業倫理を直ちに情報倫理であるとは考えない。というのは、「専門家」という概念が不明確であるだけでなく、「専門家」という語がほとんど意味をもたなくなるほど、その範囲が限りなく拡大する可能性をもっているからである。現に学会の会員ではないハッカーたちも、ある意味で高度な専門技術をもっている「専門家」であるし、将来、各家庭にインターネットの専用回線で接続されたサーバが設置されるようになったときには、誰もが「管理者」という名の「専門家」になり、「専門家」という語がほとんど意味をもたなくなるからである。このことは、情報倫理は職業倫理として一部の専門家集団に関係するのではなく、専門家にも非専門家にも等しく関係する倫理であると考えなければならないということを意味している。

 次に、コンピュータ倫理(computer ethics)という概念が情報倫理(information ethics)の意味で使用されることがあるが、両者の関係をどのように捉えるべきかを考えてみよう。こうしたことが問題になるのは、情報という概念が多義的であることに起因する。情報(information)という語は日常言語としてはデータ・知識・消息・報道・伝達などを意味するが、学問的な術語としても多義的に使用される可能性があり、情報倫理(information ethics)という概念の構成要素である情報という概念が何を含意しているかによって、両者の関係が異なってしまうからである。

 まず、刑法7条の2の「電磁的記録」の定義を参考にして、情報という概念を、演算・検索・保存・伝達などのために、2進数の0と1を用いて記述され、半導体記憶集積回路(ICメモリ)、磁気テープ、磁気ディスク、光磁気ディスクなど、人の知覚をもって認識することができない方式で一時的もしくは永続的に記録・保存されたものであると規定してみよう。情報という概念をこのようにデジタル情報(digital information)であると規定すれば――たとえばWebページ・E-mail・ソフトウェア・データベース・プログラムなどは、この意味での情報に含まれる――、情報倫理は、このデジタル情報を媒介にした人間の関係のあり方を意味し、そうしたデジタル情報への接近はたいていはコンピュータを用いてなされるのであるから、いわゆるコンピュータ倫理と概念領域がほとんど重なるであろう。

 しかし、情報という概念を、上記の情報概念を包含しつつ、もう少し広く捉えることも可能であろう。生命倫理(bioethics)の領域で問題となるインフォームド・コンセント(informed consent)は、治療目的・治療方法・治療内容・予後・費用などに関して医師がもっている知識やデータを媒介にした医師と患者との関係のあり方を問題にしているかぎり、情報倫理の問題圏内に含めることができるであろう。また、生物の遺伝子情報というような表現に見られるように、情報概念を人間に直接関係せず、しかも伝達の意図も存在しないようなものにまで拡張することも可能であるが、情報概念をそこまで拡張してしまうと情報倫理という術語は成立しなくなる。というのは、倫理は人間の関係のあり方に関係するものだからである。しかし、同じ遺伝子情報であっても、たとえば遺伝子診断によって得られた患者の遺伝子情報に関しては、情報倫理の問題圏内に含めることができるであろう。というのは、1995年に草案がまとめられた世界保健機構(WHO)の「遺伝医学の倫理的諸問題および遺伝サービスの提供に関するガイドライン」には、たとえば、発症前診断で遺伝的リスクが分かった場合、患者は広く親族にその情報を伝える道徳的義務があるといった項目とか、患者に重大な遺伝性疾患がある場合、親族への予防に役立てるためなら医者は患者の情報を親族に開示してよいといった項目があるが、そこでは、患者の遺伝子情報を媒介にした医者と患者とその親族の関係のあり方が問題になっているからである。

 また、企業倫理(business ethics)の問題も情報倫理の問題と接点をもつであろう。今年に入って雪印食品事件や日本ハム牛肉偽装事件に代表される 輸入肉を国産肉であると偽装したり、国産牛肉の産地を偽装したりする食品表示偽装事件が続発した。最近では、東京電力原発検査記録改竄問題が起きている(7)。食品に添付される表示ラベルに記載されている情報や監督官庁に提出される検査記録情報を媒介にして、食品の生産者・加工業者・電力供給者・監督官庁・消費者は関係しているが、それらの情報の操作や隠蔽や開示をめぐって、その関係のあり方が問題になっているからである。これらの事件の多くは内部告発(whistle blowing)に端を発しているが、内部告発の問題にしても、企業組織や行政組織内で行われた重大な情報操作や隠蔽の事実(情報)を知りえた内部告発者が、不利益や生命の危険に晒される可能性がある組織外の人々といかに関係するかという問題であるかぎり、情報倫理の問題圏内に含まれる。

 では、環境倫理(environmental ethics)の問題はどうであろうか。たとえば、手もとにある1999年の『環境白書』には、「政策判断の基礎となる情報」を収集・整備し、それらの情報を提供することの重要性や、企業の環境問題への取組を定性的・定量的に明確化するために「環境報告書、あるいは環境会計に係る情報を公表」し、環境負荷の把握の透明性・客観性を増すために「外部環境監査を受ける」ことの重要性などが記載されているが、このような情報の開示という側面では、情報倫理は環境倫理とも接点をもっていると言うことができるであろう。

 以上のことから明らかなように、情報倫理という概念は二様に解釈することができる。すなわち、狭義の情報概念にのみ関係し、それゆえコンピュータ倫理と領域が重なる狭義の情報倫理と、広義の情報概念に関係し、生命倫理や企業倫理や環境倫理などとも部分的に領域が重なる広義の情報倫理との二様に解釈することができる。

 ところで、information ethicsという語句は一般に情報倫理と日本語に翻訳されているが、あえて情報倫理学と訳してみたい。というのは、もう少し深いところでinformation ethicsを考える必要があると考えているからである。

 セバーソンは、すでに述べたように、道徳(morality)と倫理(ethics)とを区別し、モラル・クライシス(moral crisis)、すなわち、それまでにない新しい状況が生じたために既存の道徳が失効するような危機に陥ったときに、「批判的思考」としての倫理(ethics)が必要になると主張していた。この主張は、おおむね同意できるものである。彼は、(1)知的財産の尊重、(2)プライバシーの尊重、(3)公正な説明(4)害をなさないことを情報倫理の四つの基本原理として提示し、それらを具体的な特殊な状況に応用(apply)するための四段階の方法を提示している。しかし、セバーソン自身も認めているように、このような原理は柔軟性をもっているし、もたざるをえない。たとえば、害をなさないことという原理は、内部告発者にとっては実際には、自分が属している企業組織(およびそこに属している自分自身)に対して害をなさないという原理と、社会に対して害をなさないという原理として現れる。それゆえ、内部告発者は葛藤に苦しむわけであるが、このことは、この原理がそれだけでは有効ではないことを意味している。プライバシーの尊重という原理にしても同様である。クリントン・スキャンダルは不正ではなかったが、プライバシーの尊重だけを原理にしていたのでは、ジャーナリストは政治家の収賄などの不正を暴露することができなくなるし、ネットワークシステムのアクセス管理者は不正アクセスに対処するために保存したアクセス・ログ(log)を解析することもできなくなるであろう。セバーソンがやっているように、情報倫理の原理を提示して、それを特殊な状況に応用する方法を提示するといったことも重要であるが、それ以前に考察しなければならない重大な問題があるのではないだろうか。

たとえば、知的財産とは何か、情報を所有するとはどういうことか、プライバシーとは何か、それらが尊重されなければならない根拠は何か、どこまで尊重されるべきか、といった問題を考察しなければならないのではないだろうか。先に世界保健機構(WHO)の「ガイドライン」を例に挙げたが、重大な遺伝性疾患に罹っていることは、その患者の自己情報であり、その患者のプライバシーに属すると考えられるが、「ガイドライン」は、親族への予防を根拠にして、プライバシーを尊重しなくても倫理的に許されるとしている。プライバシーが尊重されなくても倫理的に許されるケースと、プライバシーが尊重されなければならないケースとの存在を認めることは、両者の間に差異が存在することを認めることである。それらを差異化する根拠として「親族への予防」ということがあげられているが、この根拠の妥当性を問う必要があろう。また、重大な遺伝性疾患に限定されているが、重大な遺伝性疾患と重大でない遺伝性疾患との線引きは何を根拠になされるのであろうか。その線引きの根拠は妥当性を有するのであろうか。こういったことが、問われなければならないであろう。さらには、そもそもプライバシーとは何かといったことも問われなければならないであろう。情報という概念を狭義に解するにせよ広義に解するにせよ、一般に情報倫理と称されているものの、根拠や根拠の妥当性をもっぱら問い直す学としてのinformation ethicsを、単なる情報倫理と区別して、情報倫理学として提唱してみたい。だが、そのような情報倫理学は、具体的にはどのようなことを問題とするのであろうか。以下においては、所有という概念と情報社会という概念を例として取り上げ、情報倫理学が扱うべき問いが、単なる情報倫理よりも一層根源的な問いであることを示してみたい。

 

3.情報倫理学の問い

情報の所有をめぐって

 セバーソンは情報倫理の第一番目の原理として、企業秘密(trade secrets)・著作権(copyrights)・特許(patents)などの知的財産[知的所有権](intellectual property)に対する尊敬をあげているが、ここでは知的財産[知的所有権]を例にあげて、情報倫理学はいったい何を問題にすべきなのかを検討してみよう。

よく知られているように、J・ロックは『統治論』(Two Treatise of Government)の中で私的所有権を以下のような形で基礎づけている。神によって世界を共有物として与えられている人間は自己保存の権利(the right to the preservation)と自己の身体に対する所有権をもっており、所有権が自己にある身体が営む労働が、他者の共有権を排除する私的所有権の基礎をなしている(7)、と。セバーソンもまた、ロックの所有権論を踏襲し、身体的労働に基盤をもつ有形物(tangible things)に関係する所有権と、知的創造的労働に基盤をもつ無形物(intangible things)に関係する所有権とを類比的に捉えたうえで、知的所有権について論じている。この常識的とも思える説明の仕方は、しかし、いくつかの問題を孕んでいる。

まず第一に、ロックの所有権論は自己の身体に対する所有権を論拠の一つとしているが、それは論拠として妥当性をもたないのではないかという問題がある。というのは、西洋近代の「主体-客体」図式を基盤として成立する、自己の身体に対する所有権という発想――それは、精神としての私は(私の)身体を所有しているという、〈私〉を精神と身体とに分裂させる二分法的発想である――は、現在、生命倫理の領域で無効化しつつあるからである。西洋の所有論は、ローマ法の時代以来伝統的に、所有概念を随意性(disponibilite)と結びつけてきたが、しかし、身体は「存在と所有との境界ゾーン」であるとG・マルセルが主張しているように、身体は随意性と同時に不随意性をもっており、人称的であると同時に無人称的である。それゆえ、随意性と結びつけて自己の身体の所有もしくは所有権を主張することには論理的な困難がある。自己の身体に対する所有権が成立しないのであれば、それを論拠の一つとするロックの所有権論は所有権を基礎づける論証としては成功していないと言わざるをえないであろう。また、身体的労働および有形物に関係するロックの所有権論の論証が成立していないのであれば、それと類比的に論じられる、精神的労働および無形物に関係する知的所有権の論証もまた成立しないと言わざるをえないであろう。では、所有権という概念はどのようにして基礎づけることができるのであろうか。このことは、自明であるかのように語られる所有権という概念が、あらためて基礎づけを必要とする、問い直されるべき概念であることを意味しているであろう。

 第二に、所有という概念を使用する場合、われわれは、それが自明であるかのように法的な所有概念をすぐに念頭に置くが、所有とは法的な所有ということに限られるのだろうかという問題がある。確かに、ロックは、耐久性や希少性のある金や銀などの貨幣を使用することに対する暗黙の同意について語り、「統治のもとでは法が所有権を規制する」と語ることによって、法的な所有を問題にしている。しかし、所有という概念はもう少し領域の広い概念なのではないだろうか。国語辞典『広辞苑』は所有という単語を「自分のものとして持っていること。また、そのもの。」と規定している。だが、たとえば新規購入した靴は、確かに購入したその時点で直ちに法的には私の所有物になっていると言うことができるが、足がそれに慣れてしっくりくるまでは靴は私にとってよそよそしい他者であり、この意味では靴はまだ私のものにはなっていないのではないだろうか。また、たとえば「あの俳優は独特の雰囲気を持っている」という日本語の日常的な表現は、「所有」という言葉を用いているわけではないが、時間をかけて身につけたある雰囲気を自分特有のものとして持っているという意味では「所有」について語っているのではないだろうか。これらの事例は二つのことを示唆している。一つは法的な所有とは違った所有概念が存在する可能性があるということである(前者の靴の事例では、法的な所有権が成立した後に成立する所有が問題となっているのであるが、後者の雰囲気の事例では、法的な所有権とはまったく無関係な所有が問題となっている)。もう一つは、所有ということが成立するためにはある程度の時間を要するという所有の時間性である(ロックの所有概念もまた本来的には身体的労働を基盤にしているかぎり時間性をもっており、購入の瞬間に法的な所有物になるという考え方は貨幣経済社会に特有な所有概念であるのかもしれない)。

 このような貨幣経済的・法的な所有概念とは違った所有概念を問題にすることは、情報を所有するとは何を意味しているのかを検討する場合には重要であると思われる。「ある人物について情報を持っている」という日常的な表現は、「ある人物について知っている」ということを意味しており、そのかぎりでは情報の所有は知の所有という問題でもあるのだが、このレベルの情報や知の所有に関しては、所有権は決して問題にならないからである。では、所有権が問題になる情報と所有権が決して問題とはならない情報とはどこで一線が引かれているのであろうか。また、何がその線引きの根拠となっているのであろうか。基礎づけの学としての情報倫理学は、このような次元にまで遡って問題を問い直す必要があるのではないだろうか。

 ところで、モンテーニュは『エセー』(第126章)の中で、「真理と理性は、各人に共通なもので、最初にそれを言った人のものでもなければ、後からそれを言った人のものでもありません。彼も私も同じようにそれを理解し、それを見るのですから、それはプラトンによるのでもなく、私によるのでもありません。」と語ることによって、知の共有という問題提起をしている(同様の考えはB・パスカルの『パンセ』の中にも見られる)(9)。この問題指摘は、情報の所有という問題を考察するための重要な示唆を与えているように思われる。というのは、そこに所有権が成立するかどうかという問題は別にして、情報や知の所有には、私的所有という所有形態以外に、共有という所有形態が存在することを思い起こさせてくれるからである。ここで所有形態を問題にするのには、二つの理由がある。第一の理由は、情報の私的な所有や私的な知的所有権が他者の生存権を脅かす場合には、むしろ情報は共有されるべきではないかと考えるからである。第二の理由は、他者の生存権の問題とは関係なく、私的な所有とは馴染まない共有されるべき情報というものが存在するのではないかと考えるからである。

2002年に入って雪印食品や日本ハムの牛肉偽装事件を皮切りに食品表示偽装事件が相次いで起きた。また、東京電力を皮切りに原子力発電所の検査記録が改竄されていたという事件が起きている。しかし、たとえば東京電力が所有している原子力発電所に関する検査記録の情報は、公共性があるとはいえあくまでも私企業である東京電力が、私的に所有し、それを随意的に扱うこと――たとえば隠蔽したり改竄したりすること――が倫理的に許されているような情報であろうか。ロックは所有権を無制限に認めていたわけではなく、貨幣使用以前の段階の議論ではあるが、自己が生存するのに必要な範囲内でという形で「所有権の限界」についても語っていた。これに準じて言うならば、他者の生存権を脅かす可能性があるような情報は共有すべき情報なのではないだろうか。もう一つ例を挙げよう。エイズ治療薬に関する特許を国際的製薬会社が持っているが、この製薬会社が特許(知的所有権)を有し高価な治療薬を供給していることが、エイズウィルスに感染している貧しい人々の生存権を脅かしている(たとえば、1997年に緊急避難的に強制実施権[compulsory license]法を制定した南アフリカ共和国では、成人の22%がエイズウィルスに感染している)。このようなケースでも、知的所有権は不可侵のものとして保護されるべきものなのであろうか。むしろ、治療薬を開発した製薬会社のコスト回収は最低限保障されるべきであろうが、知的所有権をある程度制限し、治療薬の製法に関する情報を世界中の製薬会社が共有することによって治療薬をエイズ感染者に安価に提供することのほうが、より倫理的ではないだろうか。以上のように、他者の生存権が脅かされる可能性がある場合には、情報はむしろ共有されるべきではないだろうか。

 しかし、そのような場合にのみ情報は共有されるべきなのだろうか。ヒトゲノム計画を例に取り上げてみよう。ヒトゲノム(人間の全遺伝子情報)の解析(=塩基配列の解析)がほぼ終了したことを受けて、現在、蛋白質や酵素などを作り出す遺伝子の機能を解析し、病気の原因解明・オーダーメイド医療などの新しい治療法の開発・医薬品の開発などに結びつけるポスト・ゲノム計画が世界中で進行している。ほとんどのゲノム情報を持っていると言われるアメリカのセレラ・ジェノミクス社が、それを使用して新薬開発などをすれば、ほとんどの知的所有権は同社のものになってしまうという危機感から、日本でも2000年より国家戦略として「ミレニアム・ゲノム・プロジェクト」が始まっている。現在の状況はさながら特許戦争が勃発する夜明け前といった状況である。塩基配列や遺伝子の機能に関して「発見」された知(情報)は、それに基づいて「発明」された治療法や医薬品が知的所有権の対象になるとしても、科学的な知識という次元では本来万人に共有されるべきものではないだろうか。「発見」と「発明」の区別が曖昧になり、知的所有権が、経済的利益と直結するという理由で、共有されるべき知(情報)の領域を侵食し、それを国家が法秩序によって下から支えるという図式がますます強固になりつつあるのではないだろうか。

 ところで、情報の所有形態に関するこのような問題は、さらに以下のような根源的な問いをわれわれに突きつけてくるであろう。それは、私的所有が倫理的に許される情報と共有されるべき情報とをどこでどのように分けるのかという問題と、その線引きの根拠は何であり、その根拠は妥当性を有するのかという問題である。知(情報)の共有が徐々に成り立たなくなりつつあるという状況であるからこそ、基礎づけの学としての情報倫理学は、このような問いを問い直さなければならないのである。

 

   情報社会という概念をめぐって

 フランク・ウェブスター(Frank Webster)は『情報社会に関する諸理論(Theories of The Information Society)』の中で、既存の社会と「情報社会」との間に断絶を認め、「情報社会」を既存の社会とは違った新しい社会であるとする立場(ダニエル・ベルの「脱工業社会」論・ジャン・ボードリヤールなどの「ポストモダニズム」論・マイケル・ピオリなどの「柔軟な専門家」論・マヌエル・カステルの「発展の情報的様式」論)と、逆に既存の社会との連続性を強調する立場(ハーバート・シラーの「ネオ・マルキシズム」・ミシェル・アグリエッタなどの「レギュラシオン理論」・デヴィッド・ハーヴェイの「柔軟な蓄積」論・アンソニー・ギデンズの「国民国家と暴力」論・ユルゲン・ハーバーマスなどの「公共圏」論)とを対比させながら、それらを批判的に考察している。現在、「情報社会」や「ネット社会」や「電子共同体」などといった「粗雑な」概念が一般に流通し、さまざまな予測や幻想が語られているが、そのような概念を批判的に検討するためには、ウェブスターのように現代社会における情報化の意味や情報の役割を考察する必要があろう。先に情報の所有形態という問題を取り上げたのは、「情報社会」をどのようなものとして構想するかという問題と情報の所有形態の問題とが結びついているからである。

 さて、2001年1月に発表された「e-Japan戦略」は、「目指すべき社会」を以下のように規定している。

 

 我が国は、国家戦略を通じて、国民の持つ知識が相互に刺激し合うことによって様々な創造性を生み育てるような知識創発型の社会を目指す。ここで実現すべきことの第一は、すべての国民が情報リテラシーを備え、地理的・身体的・経済的制約等にとらわれず、自由かつ安全に豊富な知識と情報を交流し得ることである。第二は、自由で規律ある競争原理に基づき、常に多様で効率的な経済構造に向けた改革が推進されることである。そして第三は、世界中から知識と才能が集まり、世界で最も先端的な情報、技術、創造力が集積・発信されることによって、知識創発型社会の地球規模での進歩と発展に向けて積極的な国際貢献を行なうことである。

 

いくつかの相容れない要素が混在しているこの規定を例にとりあげながら、社会のあり方と情報の所有形態との関係を考えてみよう。

「知識創発型」の社会という発想の根底には、「国民の持つ知識が相互に刺激し合う」という表現や、同文書中にある「知識の相互連鎖的な進化」といった表現から読み取ることができるように、情報や知の共有という発想がある。このような発想は、デジタル時代においては、たとえばオープン・ソースという考え方やメーリング・リストや電子掲示板(electronic bulletin board)などの中に見て取ることができるが、情報や知の共有という発想から、たとえば、どのような知識創発型の「情報社会」が物語として語られているのであろうか。

ボランティア活動と情報とを類比的に捉えようとする金子郁容は、「静的情報」と「動的情報」とを区別しているが、情報をつなげることによって新しい価値を産み出す「動的情報」という概念が開示性や共有性を基礎としていることは明らかである(11)。金子は、「見返りや保護の保障のないところで、情報を提供すること」は自らを「他からの攻撃を受けやすい」「傷つきやすい」(vulnerable)状態に置くことであると捉え、これを情報のバルネラビリティ(vulnerability)と名づけているが、この情報のバルネラビリティに対処するには個々人の自発的な(voluntary)行為によるだけでなく、現在の資本主義経済システムとは「根本的に異なった、経済・社会システム」(贈与・互酬的な社会システム?)の構築が必要である、とPDS(Public Domain Software)コミュニティを例にあげながら述べている。情報社会を新しい経済・社会システムを基盤とした一種のボランティア社会であると捉える金子の主張は実に興味深いが、しかし、これは物語にすぎないのではないだろうか。というのは、情報や知が共有されるこのような空間は「特定の場所をもった(topical)」言説空間であると言うことができるかもしれないが、ゴミのような情報や知が共有されている現実に目を向ければ、共有される情報や知の中身の問題を抜きにして、現在の資本主義経済システムとは「根本的に異なった、経済・社会システム」を構想するのは飛躍でしかないと言わざるをえないからである。それは、ハーバーマスの『事実性と妥当』を下敷きにして、電子的な「自律的公共圏(die autonome Öffentlichkeiten)」を思い描く場合も同様である。それが物語にすぎないという第二の理由は、「特定の場所をもった(topical)」比較的小さなサークル的言説空間において新しい経済・社会システムのようなものが芽生えているのは事実であるとしても、情報や知が共有されている場所(topos)が範囲の限られた小さな場所にすぎないかぎり、それがより大きな場所(topos)において新しい経済・社会システムを生み出すという保証はどこにもないからである。そして、インターネットという「特定の場所を越えた(metatopical)」言説空間にまで場所(topos)を拡大するとき、それは幻想に満ち溢れた大きな物語にならざるをえないであろう。

 ところで、「e-Japan戦略」は知識創発型の社会を目指すと一方で述べながら、もう一方では「自由で規律ある競争原理に基づき、常に多様で効率的な経済構造に向けた改革」を推進するとも述べている。IT革命によって終身雇用・年功序列などの日本型生産・流通システムを破壊して、自由競争・能力主義のアメリカ型生産・流通システムに再編成し、B2CBusiness to Consumer)やB2BBusiness to Business)といった電子商取引の促進を目指すこの主張は、あくまでも私有財産(私的所有)制度を前提にした資本主義経済システムの延長線上で「情報社会」を捉えようとしている。だが、情報や知の共有という先の発想と私有という発想とは、どのような形で相容れるのであろうか。情報や知の共有が成立する場所(topos)と情報や知の私有が成立する場所(topos)とは、どのような関係にあるのだろうか。両者の関係をどのように捉えるかによって、「情報社会」のイメージはずいぶん違ったものになるのではないだろうか。

 このように「e-Japan戦略」の文書の中には相容れがたい要素が混在しているが、しっかりと目を開いて、その行く末を見据えなければならない重要なことがもう一つある。それは個人情報の国有(国家所有)という問題である。

地方自治体は、これまで庁内LAN(Local Area Network)をそれほど整備してこなかったし(1999年4月現在、整備率は市区町村の51.8)、情報内容の如何を問わずオンライン結合を一切禁止する条例を制定してきたが、それはプライバシーの保護のためであったと考えられる。しかし、行政の情報化の推進を目指す政府は、個人情報保護対策についての制度化を要請する一方で、庁内LANの整備やオンライン接続禁止条項の見直しも要請している。今年から稼動し始めた住民基本台帳ネットワークは、現在のところは個人識別情報のみをやり取りするものであるが、それがいずれ拡大利用され、霞が関WANWide Area Network)への全省庁接続と結びついたとき、行政の情報化は、行政内の全領域で情報を共有する巨大行政情報システムとして完成するであろう。それが完成した暁には、国民のありとあらゆる個人情報がこのシステムに取り込まれ、分断されていたはずの個人情報は結合されて、国家によって一元的に所有され管理されるといった事態が成立するのではないだろうか。通信傍受法が存在する現在、このようなシステムが国民監視システムとならない保障は一体どこにあるのだろうか。このような動向を踏まえると、「情報社会」は、日本においては監視社会の方向にも進んでいるのかもしれない。「近代社会は初めから情報社会であった」とアンソニー・ギデンズは述べているが、監視社会としての「情報社会」は、IT革命によって極めて高い行政的な統一を実現しようとしているのだから、あくまでも近代社会の延長線上にあるということになるであろう。しかしながら、大がかりな監視システムの前例がすでに存在しているだけに、これは不気味である。アメリカの連邦捜査局(FBI)は「Carnivore(肉食動物)」というインターネット監視システムを使用していたし、また、世界の遠距離通信ネットワークを通じて運ばれる日常の電子メール、ファクス、テレックス、電話での会話を傍受するために、全世界的監視システムであるエシュロン(Echelon)がアメリカの国家安全保障局(NSA)主導で運用されていることがすでに暴露されている。デジタル時代における「情報社会」とは、国内か国外かには関係なく、国民国家が全世界的規模で自国民および他国民を相互に監視しあう社会を目指しているのであろうか。

 

   おわりに

情報倫理もしくは情報倫理学という言葉が登場してから、まだそれほど多くの時間が経過しているわけではない。情報倫理学は途上にあるどころか端緒についたばかりである。先に筆者は、過去の倫理学の書物をただ単に解釈するだけでは、また既存の倫理学説をただ単に応用するだけでは真に「倫理学する」ことにならないと述べた。デジタル時代の倫理学者には、デジタル情報が主流となっている空間および時間の中で、流布している幻想や物語に惑わされることなく、自分の足元の動向をしっかりと見据えつつ、たとえば「情報とは何か」「所有とはどういうことなのか」「情報を所有するとはどういうことなのか」「情報社会とは何か」といった根源的な問いを、既存の概念を問い直しながら地道に問う責務があるのではないだろうか。

 

注は未完成

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