大学の情報化とインターネットの「幻想」


<利便性>という幻想

<数年前の非常勤先のA大学での経鱗から>

 その大学では、学生証を在学期間中有効な磁気カードにしていた。私が教室に入ると、白衣を着用した学生アルバイトが、読み取り用の端末を手に、受講者の学生証をせっせと端末に通していた。端末で読み取った情報はただちにホストコンピュータに入れられ、学生ひとりひとりの現在および過去の受講状況が……同様に教員ひとりひとりの担当科目ごとの受講率も……リアルタイムでアウトプットできるようになっていた。その大学は、フランスの哲学者の名前を冠したこのシステムを、留年をさせないための「学生サービス」だと考えていたようである。

<今年の非常勤先のB大学での経鱗から>

 この大学も学生証を磁気カード化しているが、学生は、至る所に設置されたモニターの画面に触れさえすれば学内の一般的な情報に、そして磁気カードを通せば自分だけに関係がある情報にアクセスできるようになっている。また、どこの大学にもある従来方式の掲示板の上方にはモニターがあって、レポートのテーマや提出期限など授業に関する情報が、画面に次々と現れては消えていく。この垂れ流し式の電子掲示板は、学生の評判があまりよくないようである。自分に関係がある情報がいつ登場するのかも分からず、じっと待っていたある学生は、「職員にとって便利になっただけや」と吐き捨てるように言った。
 入学試験の電算化、学生管理のための電算化、授業支援のための電算化、就職活動支援のための電算化、図書館の電算化、教職員管理のための電算化。あらゆる情報をデジタル情報として処理する<情報化>の波に、大学もまた、残念ながらほとんど抵抗することもなく飲み込まれてしまった。個々の大学における<情報化>の運動の根底にあるものは、学術情報システムと同様、<利便性という幻想>と<権力による情報の管理と支配という思想>とである。
 しかし、利便性は、どれほど宣伝されようが、しょせん<幻想>にすぎない。たとえば、B大学の垂れ流し式の電子掲示板は、デスクを離れることなく授業に関する情報を全学生に即座に伝達することができる職員にとっては便利ではあっても、学生にとっては著しく不便である。学生の不便を<無視>することによって、このシステムの利便性の<幻想>は成立している。学術情報システムを支える大学図書館の目録電算化は欠陥だらけである(目録カードを併用しないために起こる検索不可能という問題、操作性の問題、データの信頼性の問題、滞貨の問題、遡及入力の問題、特殊言語入力の問題……)との指摘があるが(1)、その欠陥を<隠蔽>あるいは<無視>することによって、学術情報システムの利便性の<幻想>は成立している。また、利便性の<幻想>は、管理強化・労働強化・職業病(VDT障害etc)・有機溶剤などによる地下水汚染(2)・森林伐採(「ボタンを押せば、[紙を作るため]木が倒される」(3))などを<無視>する、あるいは外部委託化や海外移転などによって<隠蔽>することによって成立している。
 利便性の<幻想>は、こういった様々な欠陥や問題を<隠蔽>あるいは<無視>するところに成立するのであるが、この幻想は極めて<危険>であると言わざるをえない。というのは、この幻想は、より根本的な問題である<大きな権力>による情報の管理と支配という思想と体制とを<隠蔽>する機能をもっているからである。電算化システムの内部にいる者、あるいはそれを利用する者は、本人の立場や意図がどのようなものであるにせよ、本人がたとえどれほど善意に満ち溢れていようとも、<大きな権力>に加担する<小さな権力>者になってしまう(A大学における白衣の学生アルバイトは、学生に学生証を提出させる<小さな権力>者であり、白衣は権力の象徴である)。西垣通は、そもそもコンピュータの「真の使命は権力による社会の秩序化」にあり、「われわれ全ての人間がコンピュータにさわるとき、そこに無数の目に見えない権力の発芽を感じとらねばならない」と警告し、また「我々の一人一人の市民の中にひそむ『小さな権力』が積分され、組織化されていく様相」(4)に気づくべきであると警告しているが、利便性の<幻想>は、無数の<小さな権力>あるいはその「発芽」を巧妙に、<隠蔽>しつつ、<小さな権力>を直接あるいは間接的に積分し組織化することによって、<大きな権力>の管理支配体制をも完全に<隠蔽>してしまうのである。
 ところで、大学あるいは大学構成員は、この利便性の<幻想>を解体しうるほど批判的であったのだろうか。大学あるいは大学構成員は、利便性の<幻想>に幻惑されて、また「生き残り競争に負ける」とか「社会の趨勢に遅れをとる」といった<強迫観念>に駆られて、結局のところは、「政・官・産」の科学技術立国路線(5)にまんまと乗せられていったのではないだろうか。批判的精神が欠落し、他者の動きにのみ注視し、他者の動きに同調することしかできない大学。大学の<大衆化>とは、大学進学率の増大などといった問題ではなく、大学あるいは大学構成員のこのような精神的態度のことである。
 もちろん、このような大学の大衆化の反対の極には、自覚的あるいは無自覚的に<大きな権力>の側に立って、すなわち「政・官・産・学」という体制下で科学技術立国路線を推進する特権的エリート大学あるいはその構成員が存在する。<大きな権力>の側に立つ大学あるいは大学構成員と、<小さな権力>の側に立つ大学あるいは 大学構成員との二極化という現象は、情報化に関して言えば、情報機器あるいはシステムの専門的開発者と単なるユーザーとの二極化という現象に対応している。<大きな権力>の側に立つ者は、利便性や先端性を鼓吹し、CAI( Computer Assisted Instruction )の有効性やコンピュータ・リテラシーの重要性などを主張することによって、<小さな権力>者(そこには<大きな権力>者の予備軍も含まれる)の数を増大させるという戦略を絶えずとってきた(初等・中等教育が、今や、この戦略の ターゲットになっている)(6)。
 確かに、このような事態は現象的には二極化であるとは言いうるが、本質的には統一的な原理がこれらの二極を通底している。それは<権力>という原理である。情報化とは、権力の大小という現象的な差異はあるにせよ、本質的には人間を権力者へと総動員する運動、すなわち権力の普遍化の運動にほかならない。情報化に対する批判は、<大きな権力>による管理・支配体制という一面的な視点からなされるべきではなく、<権力の普遍化>というより根源的な視点からなされるべきである。

隠蔽される「負」の部分

 インターネットが流行である。<大きな権力>の側に立っているコンピュータ・ユートピアンたちが、再び<幻想>を流布させているからである。彼らはインターネットについて以下のように物語る。物理的・政治的な壁を超えてグローバルな規模で、同期的で多対多の双方向型の自由で平等なコミュニケーションが可能になり、デジタル情報が公開・共有されるようになると確信をもって告げ、民主主義の根幹である情報の平等な共有を可能にするインターネットは、<大きな権力>や<権威>に対抗する「力( power )[=権力]」を地球市民ひとりひとりに分散・解放するコンヴィヴィアルな道具である、とイリイチの思想などを引き合いに出して賞賛し、情報世界というグローバル・シティにコンヴィヴィアルに住まうネティズン(高富旨)の登場を宣告し、ユービキタス・コンピューティング(ubiquitous computing)の現実化とともに直接民主主義の時代が到来するという夢物語を描き出す(7)。「情報のアメリカニズム」(8)が産み出したこの幻想に幻惑されて、<政・官・産・学>という<大きな権力>の側も、<小さな権力>を権力と自覚することなく志向する個人も、インターネットに接続する運動に駆り立てられる。そこでは利便性やコンヴィヴィアリティが宣伝されると同時に、世界の情報を受信し、情報を世界に向かって発信することの重要性が、「国際化」というもう一つのキーワードと絡められて宣伝される。
 インターネットは確かに様々な可能性をもっているであろう。インターネットをボランティア活動・反核平和運動・環境保護運動などの「電子市民運動」に活用している事例も比較的よく知られている(9)。インターネットのこうした活用の仕方は、個別的・断片的には積極的に評価すべきであろうし、積極的に評価すべき事例は今後も個別的・断片的には存在し続けるであろう。こうした活用事例に着目して、インターネットの両義性を主張することもあるいは可能であるかもしれない。しかし、全体として見るならば、インターネットの利便性もコンヴィヴィアリティも、少なくとも現段階では<幻想>であると言わざるをえない(永遠に<幻想>であるのかもしれない)。というのは、インターネットの利便性やコンヴィヴィアリティの幻想も、様々な負の部分を<無視>あるいは<隠蔽>することによって成立しているからである。
 日本政府・官公庁およびその外郭団体・経団連などの財界諸団体・大企業は、様々な情報をインターネットを通じて(たいていは日本語と英語で)国内および世界に向かって発信しているが、<政>および<官>の情報発信や<産>の情報発信には、<情報公開>という姿勢が基本的に欠落している。学習指導要録の総合所見欄などの隠蔽、官官接待における情報の糊塗あるいは隠蔽、「もんじゅ」の事故における情報の糊塗あるいは隠蔽、薬害エイズ問題における厚生省と製薬会社による情報の糊塗あるいは隠蔽、「住専」処理策における政府あるいは金融機関の情報の糊塗あるいは隠蔽……。そのー方で、<政・官>および<産>は、膨大な個人情報を様々な手段を用いて獲得し保有・管理している(10)。コンピュータ・ユートピアンがハッカー文化におけるオーブン志向やコンピュータ業界のオーブン・システムをどれほど称揚しようが(11)、こういった状況を考えれば、<政・官・産>のインターネット利用は、情報の独占と管理はあっても情報公開のない情報化であり、足元への情報発信を無視した情報化・国際化であると言わざるをえないであろう。こういったことを<無視>あるいは<隠蔽>しておいて、インターネットの利便性やコンヴィヴィアリティを主張しても、それは<幻想>であるとしか言いようがない。
 <学>のインターネット利用や学内LAN (Local Area Network)の利用――といっても、現段階では国公立を中心にした一部の大学で利用されているだけであるが――は、利便性、とりわけ効率性(たとえば、論文の生産性[それは研究者の言語的「躁病」(12)の別名かもしれ ない]を高めると信じられている学術情報の検索の幅の広さと速さ、遠隔ログインによるコンピュータ資源の効率的利用、「インターネット就職」あるいは「マルチメディア就職」(13)と命名された、学生の効率的な就職活動とその実績を情報発信することによる受験生あるいは新入学生の効率的な確保、電子メールやメーリング・リストを用いた効率的な連絡や事務的処理の効率性……)を志向している。しかし、ネットワークを構築することによって、大学内のあらゆる情報が全構成員に等しく公開され、提案がRFC(Request for Comments)文書といった形で全構成員に電子メールで配信され、意志決定が民主的になされるようになったという大学が、果たして存在するのだろうか。<政・官・産>の場合と同様、<学>におけるインターネット信仰者も、大学という現実空間における情報公開や民主化の問題を<無視>し、足元が情報の空洞地帯になっていることにも気づかず(あるいは気づかせず)、大学という現実空間の中にではなく電子空間の中に<情報が共有される民主的電子コミュニティ>を形成しようとする、おめでたい信仰者なのではないのか。
 インターネットやマルチメディアに対する<産>の期待の根底にあるのは、<資本の論理>である。ある者は、世界規模のマルチメディアのネットワークが本当の意味で構築され、「インフォメーション・オン・デマンド」が本当の意味で可能となれば、巨大な「新しい市場」が形成されると予測し、機器・インフラ、流通、交通、都市、健康・福祉、学習・研究、経営支援、情報伝達・娯楽といった分野で期待できそうな「ビジネスの宝の山」(14)を描いて見せる。<産>は、この「ビジネスの宝の山」を大きくするために、<政・官・学>と協同しつつ(15)、「社会全体にいきわたる情報公開に支えられた……新たな社会関係の再構築」(16)というインターネットの<幻想>を流布させているのであるが、<小さな権力>を無自覚的に志向する<個々人>は、たいていは、この<幻想>に幻惑されて、世界中のジャンク(junk)な情報を収集するという<小さな権力>に割り当てられた<特典>と引き換えに、資本という<大きな権力>の論理に取り込まれ、資本に徹底的に収奪されていくのである。コンピュータやプリンタやモデムなどの初期設備に対する投資、アプリケーション・ソフトに対する投資、バージョン・アップや機器のグレード・アップに対する投資、回線使用料……。こうした投資をした者だけに、<特典>は与えられるのである。また、上述したインターネットの積極的に評価すべき事例にしても、資本の論理や運動と無縁に成立しているのではない。むしろ、そうした事例は、どれほど善意に満ち溢れていようとも、否、善意に満ち溢れているからこそ、<幻想>を拡大するのに役立つ格好の事例として、資本という<大きな権力>の運動の中に――当事者たちにとっては不本意であろうが――取り込まれていくのである(17)。
 さて、情報化あるいはインターネットをめぐる昨今の言語的「躁病」状態の中で、大学というものにまだかろうじて期待がもてるとすれば、大学はどこへ向かって<変貌>すべきであろうか。最後に、大学の向かうべき方向をいくつか提示しておきたい。まず第一に、批判的精神の再生である。今の<大衆化>した大学および大学構成員には批判的精神がほとんど欠落しており、情報化やインターネットの<幻想>に幻惑される自己自身や社会を真塾に批判することが欠落しているからである。第二に、徹底した情報公開に支えられた民主的な空間を、電子空間の中にではなく、まずは大学の中に形成することである。第三に、弱者であることを余儀なくされている者の側から論ずるという姿勢を、大学の中に取り戻すことである。電子ネットワーク人口(現在、一〇〇万人強[人口の一%未満]と言われている)が今後どれほど増加しようとも、情報を<持てる者>と<持たざる者あるいは持てざる者>という格差は残存する。情報弱者(コンピュータ弱者には限定されない)――多くは社会的弱者と重なる――の存在を常に視野に入れ、情報弱者の側から論ずるという姿勢なくしては、民主主義はありえないからである(18)。こういった方向に向かわない限り、大学にはもう何も期待しない方がいいのではないか。

[注]
(1)このことについては、東京大学総合図書館職員組合「欠陥だらけの目録電算化」および山田穣「不安と矛盾の中の電算化」(学術情報システムを考える会編『巨大情報システムと図書館』、技術と人間、一九八八年、所収)、九七〜一二五頁を参照されたい。
(2)吉田文和著『ハイテク汚染』(岩波新書、一九八九年)を参照されたい。
(3) マイケル・ハイム『仮想現実のメタフィジックス』(田畑暁生訳、岩波書店、一九九五年)、六頁。
(4) 西垣通『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(岩波書店、一九九五年)、三四頁、一六九頁。
(5)このことについては、池野高理「科学技術立国と大学」(学術情報システムを考える会編『巨大情報システムと図書館』、技術と人間、一九八八年、所収)、一二九〜一五八頁を参照されたい。
(6)文部省は、「コンピュータの技術進歩と普及には人が必要。教育に導入しないと産業界に影響する」という通産省に後押しきれる形で、初等・中等教育における情報化を推進してきた。一九八九年三月告示の「新学習指導要領」において、中学校「技術・家庭」における「情報基礎」の領域を設置した(実施は九三年度から)のを皮切りに、九〇年度には八五年度からあった補助金制度を「教育用コンピューター整備費補助」に拡大し、パソコンを小中高に導入したが、教師の研修が「新学習指導要領」の実施に間に合わなくなったために、九三年四月一日付の各都道府県教育委員会宛通達「情報処理技術者等の活用について」において、S E(Systems Engineer)を学校現場に直接派遣し、授業の援助やクラブ活動の指導をすることを認めた。その後、九四年には、猪瀬博学術情報センター所長を座長とする懇談会の報告書の素案において、「コンピューター、マルチメディアにかかわる情報活用能力をすべての人が身につける方向を目指す必要がある」と主張し、そのために「二〇〇〇年までにパソコンを小学校の授業では少なくとも二人に一台、中高校では一人に」台使える態勢を整えるよう」求め、初等教育にまでパソコンを本格的に普及させる姿勢を示している。九四年には通産・文部両省協同のインターネット「一〇〇校プロジェクト」(小中高一〇〇校のうち一七校が小学校)も開始されている。
(7)村井純『インターネット』(岩波新書、一九九五年)、古瀬幸広・鹿瀬克哉『インターネットが変える世界』(岩波新書、一九九六年)などの言説を参照されたい。
(8)西垣通『マルチメディア』(岩波新書、一九九四年)、一二九頁以下。
(9)阪神淡路大震災の際の、NIFTY-Serveなどの商用ネットワークやインターネットを利用した情報ボランティア活動や、インターネットを使った電子署名による核実験反対運動などが、マスメディアによって報じられたためによく知られているが、「電子市民運動」の事例は、商用ネットワークやインターネットの中を覗けば、相当多いことがわかる。ちなみに、インターネットを利用した運動事例に関連のある、九五年以降の『朝日新聞』の見出しを拾い上げてみよう(ただし、震災関係と反核運動関係は除く)。「世界中の『家なき子』とインターネットで会う」(九五年五月二日朝刊)、「死刑囚、インターネットで情状酌量を求める」(五月二日朝刊)、「竹中ナミさん インターネットに接続し、障害者の社会参加を支援」(六月二三日夕刊)、「障害者向け機器の情報、インターネットで流す」(七月一五日朝刊)、「世界遺産から世界へ 白神山地の情報をインター・ネットで提供」(八月二日朝刊)、「インターネットにAMDAが発信 パソコン通じ医療情報」(九月五日岡山版朝刊)、「インターネットで女性会議に参加女性グループ 95北京女性会議」(九月七日朝刊)、「インターネットの賛同要請に一五〇〇人 日米地位協定見直し」(一〇月一七日朝刊)、「ボランティア掲示板に インターネット『千葉市民の広場』開放」(一一月二九日千葉版朝刊)、「野鳥情報インターネットで アジア各国と交換 日本野鳥の会」(一二月七日東京版朝刊)、「インターネットで市民運動 町田の市民団体がホームページ開設」(一二月一五日朝刊)、「インターネット通じ、タイ製品不買呼びかけ 米の漫画家、[児童]売春に反対」(九六年二月二三日夕刊)。
(10)どのような種類の個人情報が官公庁や民間によって保有されているかについては、堀部政男箸『プライバシーと高度情報化社会』(岩波新書、一九八八年)を参照されたい。
(11)瀬幸広・廣瀬克哉前掲書、一三頁以下、久保悌二郎『マルチメディア時代の情報戦略』(NHKブックス、一九九四年)、九二頁以下。
(12)マイケル・ハイム、前掲書、二頁。
(13)『朝日新聞』、一九九六年一月一二日朝刊、二月二三日夕刊、二月二九日朝刊、三月一日朝刊、三月二日夕刊などを参照されたい。
(14)中島洋 『マルチメディア・ビジネス』(ちくま新書、一九九五年)。信遮性のある数字かどうかは別であるが、たとえば、郵政省は九四年一月に「二〇一〇年のマルチメディア市場の規模は一二三兆円」との試算を発表している。
(15)九四年だけでも、NEC-WIC議員フォーラム・JAPAN INFORMATION NETWORK研究会・情報通信議員懇談会(ネットワーク21)・マルチメディア促進議員連盟・マルチメディア懇話会といったマルチメディア関連の議員連盟ができているが、政治家も、マルチメディアという「農業振興、建設事業、土地改良、環境に次ぐ、戦後第五の利権」を漁ろうとしている。『朝日新聞』、一九九四年七月二〇日夕刊を参照。
(16)久保悌二郎、前掲書、五頁。
(17)水谷雅彦は「阪神淡路大震災とコンピュータ・ネットワーク」(『現代思想』一九九五年一一月号所収、青土社)の中で、「最前線で活動した情報ボランティア」の目的は、「あくまで現地[被災地]への情報発信」であったにもかかわらず、「インターネットを使った、神戸から世界への情報発信」という誤解を含む(当事者たちには不本意な)仕方で報道されたことを指摘しているが、この事例にしても、注(9)に掲げた事例にしても、資本の媒体であるマスメディアによって都合よく宣伝され、資本という<大きな権力>の運動の中に取り込まれていくのである。
(18)水谷雅彦、前掲論文、参照。

やまもと・ひろし 追手門学院大学人間学部社会学科教員。
哲学・哲学史専攻。
情報化の「幻想」に振り回されている無自覚的な大学人を、自戒の念を込めて描いてみました。


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