現代社会と経済の神話

「夢」の島……日本
 都市に住む日本人の平均的・日常的な身の回り世界は、物に満ち溢れている。様々な家電製品が、その最新さと便利さとを大声で主張しながら家中の空間を占拠している。大きなスーパー・マーケットへ行けば、日本各地の食料品はもとより世界中の食料品がずらりと並び、お金さえあれば、ほとんど何でも手に入れることができる。家や自分自身を美しく見せる装飾品、装飾品を装飾する装飾品、日々使用されることが決してないような日用品、必ずしも便利でない便利グッズ、何の役にも立たない面白グッズ。我々はこういった様々な物に取り囲まれ、それらを消費しながら多量のゴミを生産し、各地に「夢の島」を生み出している。今日我々は、高度の経済成長を実現し、GNP(国民総生産)世界第二位にランクされる、財と富に満ち溢れた「ジパング」の中で豊かさを生きているように見える。
 しかし、生産至上主義的産業社会(資本主義社会)がもたらす、財と富の絶対量のこのような豊かさは、「真の豊かさ」とは何の関係もないのではないか、と問い直してみる必要がある。高度産業社会の豊かさとは「夢」ではないのか、「神話」ではないのか。このように問い直してみる必要がある。というのも、J・ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』の中で主張しているように、我々は主体的に豊かさを生きているどころか、「豊かさの神話」を強制的に生かされているのかもしれないからである。
成長の神話と神話の成長
 経済活動の指標とされているGNPは「数字による白魔術である簿記的幻想」にすぎない、とボードリヤールは言う。というのは、生産されたものをすべて神聖化し、計量可能なものをすべて肯定するこの白魔術は、否定的なもの(たとえば公害)ですら、「統計上は客観的に有用な財の生産」であるとして、肯定的なものに加算するからである。つまり、高度産業社会の経済的=政治的システムの論理は構造的に両義的であり、このシステムは、肯定的なもの(富や進歩)と否定的なもの(貧困や公害)とを構造的・必然的に同時に生み出しながらも、否定的なものを統計的に隠蔽することによって成長の神話を成立させているのである。しかも、この成長の神話には、神話そのものの成長という側面が巧妙に隠されている。というのも、このシステムは、自らが生み出した否定的なものを解消するふりをしながら、否定的なものを再生産し、それを再び統計的に隠蔽することによって成長の神話をさらに成長させるという戦略をとっているからである。それゆえ、高度産業社会の経済的=政治的システムは、成長の神話とその神話の成長という戦略によって自らを維持しているのだと言えよう。
 ところで、富や財の「豊かさ」をもたらすこのシステムは、中間階級に対しては、形式的・抽象的な平等主義・民主主義の幻想をもたらすが、それは同時に、そのような「豊かさ」から遠ざけられた「売れ残りの人びと」(下層階級)と、空間・時間・きれいな空気・静けさなどの新しい「稀少財」を消費する特権階級とを魔術的に生産するシステムになっている。すなわち、高度産業社会の経済的=政治的システムは、成長の神話を通じて、すべての人びとを非暴力的な仕方で社会的に階層化するシステムであり、すべての人びとが差異表示記号としての物を消費することによって差異の秩序そのものを無意識的に再生産するように強制する、差異化・差別化のシステムなのである。

物の身分
 さて、資本主義的高度産業社会を消費社会と規定し、それを様々な神話に支えられた差異化・差別化のシステムであると批判するボードリヤールの消費社会論は、大衆社会論の系譜に属するものであるが、彼の消費社会論をその根底から支えているのは、物の捉え方のコペルニクス的転回である。ボードリヤールは、「消費される物になるためには、物は記号にならなければならない」という有名なテーゼでもって、新しい物-概念と消費-概念とを提示している。物は、(一)有用性を原理とする使用価値の機能的論理(効用の論理)、(二)等価性を原理とする交換価値の経済的論理(市場の論理)、(三)両義性を原理とする象徴交換の論理(贈与の論理)、(四)差異性を原理とする価値/記号の論理(消費の論理)のいずれかの論理に従って秩序づけられるに応じて、道具、商品、象徴、記号という身分を獲得する、とボードリヤールは言う。我々を取り巻いている物は、従来どのような身分を持つものであると捉えられてきたのか。また、人間が物を介して織りなす社会は、従来どのようなものとして捉えられてきたのか。以下においては、これらのことをハイデガー・ヘーゲル・マルクスと関連させながら考察することによって、現代社会を批判的に捉える際に前提とすべきいくつかの事柄を指摘してみよう。
有用性と平均的日常的世界
 ハイデガーは『存在と時間』の第一部第一篇「現存在の予備的な基礎的分析」の中で、現存在の日常的な世界内存在を「世界の内での世界内部的な存在者[=道具的存在者]との交渉」と名づけている。このことは、平均的日常的な身の回り世界(環境世界)を道具的存在者との交渉の世界であると捉えることを意味する。つまり、ハイデガーは道具的存在者を媒介にして平均的日常的世界を分析するのである。個々の道具的存在者は、道具全体性・指示連関の全体性・適所全体性に先立たれており、道具的存在者を「適所性という存在様式において出会わせる基盤」が平均的日常的環境世界という現象なのだ、とハイデガーは言う。そして、平均的日常的環境世界の世界性が有意義性の全体性であること、この環境世界が共世界であること、また、共世界において相互共存在する共現存在の秘匿された性格が懸隔性[=他者との隔たり・差異を絶えず気遣うこと]であること、したがって、日常的な相互共存在としての現存在が、不断に非自立的・非本来的な、誰でもであって誰でもでないような中性的な「世人」であること、これらのことをハイデガーは指摘している。
 ところで、ハイデガーは現存在を「死へと態度をとる存在(
Sein zum Tode)」であると規定しているが、おのれの死へと積極的に態度をとる限り、我々は単独化し、「不安のうちに漂泊する」ことになる。不安が、有意義性の全体性であったはずの平均的日常的環境世界を無化し、それとともに、共存在している我々自身をも滑落させるからである。だが、「何ものにもすがりつくことができない、この漂泊の底深き振動において」こそ、「純粋な現・存在」が出会われるのだ、とハイデガーは言う(『形而上学とは何か』)。とはいえ、我々は差し当たって大抵は、おのれの死へと積極的に態度をとることから逃避し、本来的自己から頽落し、平均的日常的世界の中に埋没しているのである。ハイデガーは、少なくとも『存在と時間』においては、現代社会(大衆社会)をこのような逃避と頽落という事態が成立している社会、換言すれば、本来的自己の忘却あるいは喪失という事態が成立している社会であると捉え、このような事態から脱するためには、おのれの死へと先駆的に決意する(entschließen)ことによって本来的自己を獲得する、という実存主義的解決が必要であると主張している。
 確かに、平均的日常的世界(現代社会)に関するハイデガーのこのような解釈は、物/対象とは根源的には意識(
Bewußtsein)に対抗-存立するもの(Gegen-ständiges)であり、拡がりあるモノ(res extensa)である、とするデカルト以降の意識哲学に対する批判となっていると言えよう。それはまた、平均的日常的世界(大衆社会)における自己喪失という、かつてキルケゴールが指摘した事態を的確に捉えているようにも見える。しかし、ハイデガーのような解釈の仕方では、現代社会は到底捉えきれないのではないだろうか。
 日常的な環境世界を道具連関の全体性と解するハイデガーの立場は、言わば、資本主義経済の世界を商品連関の全体性と解するマルクスの立場を、経済的世界という限定を外して焼き直したものである。身の回り世界で最も身近に出会われる存在者は、商品という経済的な身分をもつ物ではなく、(道具と直ちに同一ではないが)道具的存在者という身分をもつ物であるという具合に、物の身分を伝統的な仕方で有用性へと単純に一般化したために、逆に、経済の問題や消費社会の現実がハイデガーには全く見えなくなってしまっているのである(手段性・用途性・適所性の連関を現存在の有意義化の働きと解する解釈にしても、『技術論』において展開されている「用象(
Bestand)」概念にしても、その根底には、デカルト以来の「有用性」概念が安易な仕方で置かれている)。ハイデガーは、政治的なものに対して未熟であったのと同様、経済的なものに対しても盲目であったのか、そうでなければ消費の波が押し寄せて来ないほどの田舎に住んでいたのだ、と悪口を言われても仕方がないであろう。いずれにせよ、物をこのような単純な仕方で捉えるのでは、商品経済社会でもある現代社会を捉えることはできない。そこで、時代を少し遡って、商品経済社会の仕組みとその問題点を最も的確に指摘した最初の哲学者であるへーゲルの主張に耳を傾けてみよう。
へーゲルの市民社会批判と予定調和の神話性
 へーゲルは、『法哲学』の中で、西洋近代の市民社会は「欲求の体系」「司法活動」「福祉行政と職業団体」という三つの契機を含むと述べているが、市民社会をまず第一に「欲求の体系」と名づけることによって、それが商品経済社会にほかならないことを指摘している。へーゲルによれば、市民社会とは自由で独立した欲求主体である個々人の特殊性をあくまでも第一義的な原理とする社会である。しかし、特殊性は普遍性に媒介されなければならない。個々人は、自らの特殊な欲求を充足させるためには他者の労働に依存せざるをえず、それゆえに自らもまた他者の欲求を充足すべく労働せざるをえないという、相互依存関係の形式的な普遍性に媒介されるのでなければ、自らの目的を実現しえないからである。このような普遍性が「欲求の体系」を形成するのであるが、欲求の体系は、同時に、分割された労働の体系(分業の体系)でもある。というのは、個々人の欲求および欲求充足の手段の種別化は、生産をも種別化し、「労働の分割」(分業)を生ぜしめることになるからである。要するに、ヘーゲルは近代市民社会を、法的社会あるいは外的強制的悟性国家であるよりも前に、「おのれ自身の利益を目的とする私的人格」が形成する経済的社会であると見ているのである。すなわち、生産(労働)と消費(欲求の充足)とが分裂してしまい、価値(物件の量的普遍性)を媒介とする労働生産物(商品)の交換関係が成立している分業的商品経済社会だと見ているのである。
 資本主義的生産様式が成立した市民社会をこのように捉えた上で、ヘーゲルは、分割された労働と欲求との体系に残存する偶然性を問題視することによって、スミス的な単純商品生産の時代の予定調和的な市民社会像(ならびに国民経済学)を以下のように批判している。「欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係」は、確かに必然性を有している(ヘーゲルはこの必然性を「普遍的で持続的な資産」であると規定している)。しかし、「普遍的資産に参与してその配分にあずかる可能性、すなわち特殊的資産」は、直接的な基礎財産(資産)・技能などの偶然性に制約されており、その偶然性のゆえに、一方の極には富が過剰に蓄積され他方の極には貧困が過剰に蓄積されるという不平等が必然的に結果する。それゆえ、市民社会とは「放将な享楽と悲惨な貧困、および両者に共通な肉体的かつ倫理的な頽落の場」(特殊性と普遍性とが分裂した「人倫の喪失」態)にほかならないことを、ヘーゲルは鋭く指摘し、それを批判するのである。そして、特殊性と普遍性との分裂態としての市民社会は、「普遍的究極目的と諸個人の特殊的利益とのー体性」であり「人倫的理念の現実態」である「理性国家」へと止揚されるべきであると主張する。

A=Aという神話
 確かに、スミス的な予定調和的市民社会像の持っている欺瞞性・神話性に対するへーゲルの批判は、極めて鋭いものであると言えよう。しかし、ボードリヤール的な視点からすれば、市民社会の神話に対するへーゲルの批判には、これとは別の神話がやはり潜んでいるのだと言わざるをえないであろう。へーゲルは近代市民社会を、分割された労働の体系(分業の体系)であると同時に欲求の体系であると捉えていた。市民社会における相互依存関係の普遍性とは、主体-(分割された)労働-客体(物)という生産の図式と、主体-欲求-客体(物)という消費の図式とが分裂しているという事態を、端的に意味するものである。しかしボードリヤールによれば、これら二つの図式は、何れも呪術的思考の産物にすぎないのである。というのは、これらの図式には主体性の神話が潜んでいるからである。
 ハイデガーが指摘しているように、西洋近代の主体性の形而上学あるいは意識哲学は、人間を主体(
Subjekt)[=基底に(sub)投げ置かれたもの(jectum)]として定立し、あらゆる存在者を自らに対抗-存立するもの(Gegen-ständiges)[=対象]として自らの前に定立する(vor sich stellen)[=表象する]。しかし、このような仕方で表象された客体(Objekt)とは、意識の主体にとっては自己の表象なのであるから、主体の「鏡面像」にほかならないであろう。ハイデガーは、意識(conscientia)とは[自己自身の]知の取り集め(con-scientia)であると主張することによって、主体(A)と主体の鏡面像としての客体(A)とのこのような相関関係を鋭く指摘し、人間を主体として基底に置く主体性の形而上学を解体しようとする(後期ハイデガーの「ロゴスが人間を持つ」という命題は、主体性の形而上学の現象学的な解体の簡潔な表現である)。
 「欲求のタームで語るものはすべて呪術的思考である」と言うボードリヤールもまた、「主体の自立とそれの鏡面像たる客体の自立」とを仮定し、両者を「欲求」という「呪術的繋辞」で結合する(A=A)ことによって、両者の関係を同語反復的に解消する「欲求の神話」を指摘し、西洋の形而上学と経済学の神話性を告発している。すなわち、ハイデガーとボードリヤールとは、主体性の形而上学の解体という点に関しては軌を一にしているのであるが……現象学的な解体と構造主義的・記号論的な解体という違いはあるが……、このような両者の観点からすれば、ヘーゲルの市民社会批判は、それがいかに鋭いものであるにせよ、やはりA=Aの神話にとらわれていると言わざるをえないであろう。また、欲求の神話に支えられた経済(学)は、どのようなものであるにせよ、やはり一つの神話なのだと言わざるをえないであろう。

マルクスの商品論と市民社会批判
 ところで、ヘーゲルの延長線上に立つマルクスは、資本主義社会の構造を分析することによって、近代的市民社会像のもつ欺瞞性を更に徹底的に暴露している。資本主義社会において、資本家と労働者との関係は「労働力」という商品の売買関係として現れるのであるが、この関係が内包している問題性を考察する前に、商品とは何かということについて考察しておこう。
 マルクスは、使用価値(有用性)と価値という全く異質な二つの価値を「商品の二要因」と名づける。市場においては、使用価値が全く異質であるような個々の商品が、等価性を原理として交換されるのだから(価値の等量交換)、それらは同質的なものと見なされていることになる。すなわち、等価交換においては商品の使用価値の異質性は捨象され、価値として同質化されているのである。だが、商品の価値とは一体何であろうか。本当に商品が価値を持っていると言えるのであろうか。マルクスは、商品の二要因に対応する形で労働の二重性格を指摘し、それを具体的有用労働と抽象的人間労働に区別しているが、後者の抽象的人間労働が物象化(対象化)されたものが商品の価値にほかならないことを、したがって、商品が等価交換されることによって、逆に、商品に物象化されている抽象的人間労働の等価性が規定されることを指摘する。このように指摘することによって、マルクスは、元来は客体であるにすぎない商品が、それ自身価値を有する主体であるかのように現れてくるという事態、すなわち資本主義社会における商品の物神崇拝(フェティシズム)を明らかにしている。もちろん、客体を主体化する転倒の根底には、同時に、労働者とその労働力との商品化(物象化)という、主体を客体化する転倒が潜んでいるのである。それゆえ、資本主義社会としての市民社会は、徹底的なフェティシズムの世界であり、人間と人間との社会的な関係が物(商品)と物(商品)との物的な関係になっている社会であると言ってよいであろう。
 さて、労働者(主体)は自らの労働力を商品として資本家に売る(賃金と等価交換する)のであるが、この等価交換においても、商品(物)の使用価値の場合と同様、具体的有用労働の持つ具体的有用性は捨象される。ところで、労働力商品の固有価値は、それが商品である以上、労働力商品を生産(再生産)するのに要する抽象的人間労働の量(必要労働量)によって決まるが、労働力商品は価値の生産・増殖に役立つという使用価値をも持っている。それゆえ、資本家は労働者を、労働力商品の固有価値を生産(再生産)するのに必要な時間(必要労働時間)以上に働かせることによって、剰余価値を取得しようとする。しかし、それは剰余価値の取得と言うよりは、むしろ剰余価値の搾取と言うべきであろう。というのは、剰余価値とは、本来は労働者の剰余労働が物象化されたものであるからである。確かに、マルクスは、資本家による剰余価値の搾取という事態を批判している。しかし、それは必ずしも取得(搾取)そのものが不当であるという批判なのではない。というのも、資本家は労働力商品と賃金とを等価交換するという形式的には正当な仕方で労働力商品を所有するに至ったのであり、ローマ法以来の所有権という発想からすれば、資本家には自己の所有物(購入した労働力)を必要労働時間以上に使用する正当な権利があるからである。マルクスが批判するのは、資本の運動が継続するにつれて、労働者から搾取した剰余価値が、労働力商品を購入するために投下される可変資本に変質していくという点である。すなわち、断片的・形式的には正当であるように見える等価交換なるものは、資本の運動が継続するにつれて必然的に、労働者から搾取した価値でもって(更なる価値増殖のために)労働者から労働力商品を購入するという、欺脂的な図式になってしまうという点である。

 人間的欲求/人間的・社会的生産/完全な自己還帰としての所有
 ところで、ヘーゲルの批判的継承者であるマルクスは、『経済学・哲学草稿』において、「国民経済学を動かす唯一の舵は、所有欲(Habsucht)とその欲に憑かれた者どうしの戦争・競争である」と述べているが、資本主義社会が以下のような二重の[主体-欲求-客体]図式で動いていることを早くから見抜いていた。その二重の図式とは、[主体(労働者)-肉体的生存を保持しようとする基本的欲求-客体(肉体的生存手段〈商品〉)]という図式と、[主体(資本家)-占有欲-客体(資本〈物・労働者〉)]という図式であるのだが、ブルジョワの利益社会の経済学的な自己解釈にほかならない後者の図式は、労働の疎外(物象の疎外・自己疎外)を含意する前者の図式を隠蔽しているのである。基本的欲求なるものが神話であることはボードリヤールも指摘しているが、これら二つの図式の背景には上述の欲求の神話が隠されている。それは、私的所有[私有財産]とは何であるかを考えれば、すぐに明らかになるであろう。
 マルクスは、根源的な意味における所有(
Eigentum)を、能動性(Wirksamkeit)であると同時に受動性(Leiden)であるような、対象(〈自然〉)に対する人間の関わり(Verhalten)であると捉え、この関わりを「完全な自己遠帰」として捉える。すなわち、根源的な意味における所有とは、対象を獲得(Aneignung)することを通じて人間的現実性を獲得し、人間的現実性をおのれのものとして確証(Betätigung)することであると捉える。マルクスはこのような観点から、根源的な所有が持っている二面的な関係を一面化し、原子的実体として基底におかれた主体(A)が、自己にとって疎遠な非人間的な物象と化してしまった主体(A)を、生存手段あるいは資本として「保持(Haben)」「占有(Besitzen)」しようとする神話(主体性の神話とA=Aの神話)が、私的所有[私有財産](Privateigentum)にほかならないのだと主張し、これら二つの神話の革命的解体、すなわち私的所有[私有財産]の積極的止揚としての共産主義を主張するのである。
 私的所有[私有財産]を止揚し、根源的な意味における所有(
Eigentum)を回復させるとは、物象あるいは物象化された主体を、ほかならぬ主体が保持あるいは占有しようとする非人間的な欲求[所有欲(Habsucht)]を、人間的な欲求に転ずることを意味しているのであるが、それはまた、マルクスが求めた〈豊かさ〉がどのようなものであったかを如実に物語っていると言えよう。マルクスは〈豊かさ〉というものを、物象の豊かさ(「国民経済的な富」)ではなくて、人間と対象(自然)との二面的な関係のあり方の中に、そしてまた、人間と対象(自然)とのこの関係は「類的生活」でもあるのだから、人間と人間との関係のあり方の中に見い出そうとしているのである。このことは、私的所有[私有財産]を前提とする場合の非人間的な「生産」概念に対して、「人間的・社会的な生産」という新しい生産概念を対置していることからも窺い知ることができるであろう。
物/記号あるいは欲求から欲望へ
 主体性の神話とA=Aの神話とを徹底的に解体するマルクスの立場は、一九八九年以降の東欧諸国における社会主義政権の崩壊という歴史的事件とは無関係に、これらの神話を解体し、〈豊かさ〉を人間と人間との関係の中に見い出そうとした点において、哲学史的あるいは思想史的には大いに評価されるべきである。しかし、現代社会を消費社会として捉えようとするボードリヤールの目から見れば、マルクスの思索にも限界があると言わざるをえないであろう。というのは、マルクスは商品という身分を持つ物について語りはするが、記号という身分を持つ物については語っていないからである。これに対して、主体性の神話とA=Aの神話、すなわち欲求(besoin)の神話を構造主義的・記号論的に解体するボードリヤールは、欲望(desir)概念を欲求概念に対置することによって、物/記号の消費という新しい消費概念を提示している。ボードリヤールが欲求概念に代えて欲望概念を持ち出してきたのは、現代社会において物は、その客観的機能(有用性・使用価値)やデノテーションの領域において消費されているというよりは、むしろ、それを超えて差異的コノテーションの領域において消費されているのであり、欲求という従来の神話的な概念では後者の領域、すなわち「消費の固有な領域」を捉えることができないからである。
 ボードリヤールは、消費の世界を、差異的コノテーションを有する物/記号連関の全体性、すなわち物/記号の示差的関係の体系的全体性と解する。それは、「差異のコード」すなわち「差異化の無意識的な構造的な論理」によって相互に差異化されている物/記号が消費される世界であり、「コード化された差異」が消費される世界である。そこでは人間は、物/記号の差異を消費することによって、自己を他者から差異化し個性化しようとするのであるが、日常意識的には主体的な活動であるかのように見える消費の活動は、実は、無意識的な差異化の構造的論理に支配された没主体的なパロール的な活動であり、そのようなものとして逆に、差異あるいは価値の社会的コードを生産・再生産する活動にすぎないのである。それゆえボードリヤールは、消費社会における消費を、従来のような合目的的な享受ではなくて、生産の機能を持った義務的・強制的な労働であると捉える。また、日常意識的には個人的な享受の活動であるかのように見える消費の活動は、無意識的な差異化の構造論理に従って個々人を差別的な仕方で無意識的に統合する、集団的な社会的な活動であると捉える。つまりボードリヤールは、差別的統合(階層化)を実現すべく巧妙に仕組まれた没主体的な社会的な労働でありながら、日常意識的には主体的な合目的的な個人的享受であるかのように見える、消費の「幻想」を暴露しているのである。そして、差異の生産の独占的集積が進んだ高度消費社会の経済的=政治的システム、すなわち記号の政治-経済体制を、消費の神話によって隠蔽された、新しい差別化のシステムであると批判する。

象徴交換論的還元と豊かさ
 ボードリヤールは、記号の政治-経済体制の象徴交換論的還元による、「社会組織と社会関係の革命」を主張している。しかし、近代社会においては常に周縁の論理でしかなかった象徴交換の論理(贈与の論理)を、なにゆえにボードリヤールは持ち出してくるのであろうか。消費を私的所有[私有財産]と比較してみれば、その意図が少しは明らかになるであろう。人間と人間との関係を非人間的な物象的関係にしてしまう私的所有[私有財産]の場合には、確かに、労働者(主体)の労働が抽象的人間労働へと抽象化され物象化されるのであったが、しかし労働者はこのことによって逆に、プロレタリアートという人間性を喪失した階級へと統合されるのであり、労働者の間には人間性を喪失した者どうしの人間的な関係、すなわち「集団的連帯」が少なくとも成立しうる。これに対して、諸記号の社会化された交換である消費の領域においては、人間と人間との関係は、物/記号の示差的関係あるいはそれを規定する社会的コードを媒介にしてしか成立しない、抽象的な関係にすぎなくなっている。すなわち、個々の人間(消費者)は完全に「孤立し、バラバラに細胞化し、……お互いに無関心な群衆」に成り下がっているのである。ボードリヤールは、「豊かさの記号」の交換という、完全に抽象化した「人間と人間との関係」の中に、現代社会の真の貧困を見い出し、この貧困(それは豊かさの神話でもあるのだが)を解体すべく、人間と人間との関係の根源的なあり方を象徴交換の中に求めようとしているのである。というのも象徴交換とは、物を、自立した物としてではなく、「あたかも自分の一部であるかのような」物として「自分から切り離し(ob)」、それを「投げ出す(jicere)」ことによって自他を具体的に関連づける行為だからである。このような立場から、ボードリヤールはさらに消費(consommation)から消尽(consumation)への移行を語り、生産と労働のパラダイムの終焉を語るのであるが、ここではそれに触れないでおく。
ポスト消費社会論に向けて
 最後に、以上において述べてきた事柄の中から、我々が現代社会を批判的に捉えようとする際に前提としなければならない、いくつかの事柄を再度取り上げて、それを提示しておこう。それはまず第一に、ハイデガーやボードリヤールの主張に見られる、主体性の形而上学の解体という事態である。このような事態が成立している現代においては、もはや主体性の神話で語ることも、それに根差した欲求の神話で語ることも許されない。第二に、マルクスとボードリヤールとは、〈豊かさ〉あるいは〈貧しさ〉を人間と人間との関係そのものの中に見い出そうとしているが、人間と人間との関係を中心に置くこのような視点の重要性である。第三に、これら二つのことを踏まえた上で、生産や労働といった概念を捉え直すことの必要性である(生産と労働のパラダイムの終焉を主張するボードリヤールに対しては、それは記号の生産過程の問題を無視した拙速な主張であるという批判がある)。既に様々な仕方でポスト産業社会が語られているが、神話を語らないためにも、今一度これらの事柄について熟考すべきであるように思える。

参考文献
J・ボードリヤール
『物の体系』宇波彰訳、法政大学出版局
『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳、紀伊図屋書店
『記号の経済学批判」今村仁司・字波彰・桜井哲夫訳、法政大学出版局
『生産の鏡』字波彰・今村仁司訳
『象徴交換と死』今村仁司・塚原史訳、筑摩書房
『シミュラークルとシミュレーション』竹原あき子訳、法政大学出版局
G・W・F・ヘーゲル
『法の哲学』藤野渉・赤澤正敏訳、中央公論社
K・マルクス
『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫
『資本論』エンゲルス編、向坂逸郎訳、岩波文庫
M・ハイデガー
『存在と時間』細谷貞雄他訳、理想社
『形而上学とは何か』大江精志郎訳、理想社
『技術論』小島威彦他訳、理想社
渡辺二郎『ハイデガー「存在と時間」入門』
細谷昂・畑孝一・中川弘・湯田勝『マルクス経済学・哲学草稿』有斐閣新書
廣松渉『今こそマルクスを読み返す』講談社現代新書
今村仁司『現代思想の基礎理論』講談社学術文庫
『現代思想』第10巻第7号(1982年5月)特集「〈消費社会〉の解読」青土社

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