カントの二律背反論をめぐる問題

   1.

 カントの二律背反論についての考察を、差し当たり理論理性の領域における二律背反論に限定するとすれば、しかも、H・ハイムゼートが行なっているようなそれの綿密な注釈は別とすれば、我々がカントの二律背反論を考察する場合、如何なるアプローチが可能であろうか。

 カントは『プロレゴーメナ』(1783年公刊)において、哲学を独断的まどろみから覚醒させ、それを理性批判へと駆り立てた動機が、純粋理性の二律背反という注目に値する現象であったことを明確に表明している。この表明は晩年になっても変わることはない。1798年9月21日付けクリスティアン・ガルヴェ宛のカントの有名な書簡における以下の告白が、このことを証示している。それは、「私の出発点は, 神の存在や不死等の考究ではなく、純粋理性の二律背反でした。(中略)これは、私を初めて独断的まどろみから覚醒させ、理性の外見的な自己矛盾というスキャンダルを取り除くよう、私を理性そのものの批判へと駆り立てたところのものです。」という告白である。二律背反の問題が批判哲学構築の原動力であったという、この事実は、カントの内的発展史という観点から二律背反の問題にアプローチする、という一つの可能的な方向性を示唆している。このアプローチの仕方は、1769年の「大いなる光」以前における二律背反の問題、1770年の『就職論文』と二律背反の問題、1772年の演繹問題と二律背反の問題等を解明し、それらが『純粋理性批判』の二律背反論にまで発展する、その発展の内的論理を提示するという、重要ではあるが難解な仕事にならざるをえないであろう。

 ところで、ヘーゲルは、「悟性の形而上学の硬直した独断論」を除去することになったカントの二律背反論を、「思惟の弁証法的運動を示唆」した「近代哲学の最も重要な最も深遠な進歩の一つ」と評価する一方で、古代エレア学派の弁証法よりも劣る「余りにも悪しき弁証法的なもの」と酷評する。ヘーゲルのこの評価は、ヘーゲルによって完成される近代弁証法の歴史においてカントの二律背反論が占めている位置を示唆している。(W・レェートは、カントの二律背反論は「カント以後の弁証法的哲学の根源となっているものの一つである」と断言している)。そうであるならば、近代弁証法の歴史的発展という観点から、ヘーゲルの弁証法と対峙させる形でカントの二律背反論にアプローチすることも可能であろう。

 小論においては、論者は第二のアプローチの仕方をとる。そして以下において、論者は(1)カントにおける弁証(Dialektik )の意味と弁証が純粋理性の自己分裂として二律背反構造を示すことを、(2)超越論的弁証論(Dialektik )における二律背反のカントの解決の仕方及びこの解決がカント哲学全体において有している意義を、そして最後に(3)カントの二律背反論に対するヘーゲルの評価を手引きとして、思惟に関する両者の根本的差異について論ずる。

   2.

 カントは、一切の内容を捨象する形式的「論理的能力」としての理性、即ち「間接的に推論する能力」としての理性と、推論された概念たる理念を自ら産出する実在的「超越論的能力」としての純粋理性とを包括する、「より高次な概念」としての「理性一般」を「原理の能力」と名付ける。このように名付けるのは、両者が理性推論の能力だからである。しかし後者は、多様な悟性認識を「推論の素材」とする点は前者と同じであるが、「制約の制約」へと「前三段論法」を連鎖させて進み、それを「最小限の原理(普遍的原理)」に帰することを自己の「論理的格率」とする点で、前者と異なる。この論理的格率が意味するところは、悟性統一は単なる「分割的統一(die distributive Einheit)」でしかない故、超越論的能力としての純粋理性は、多様な悟性認識の体系的統一を理性統一として、そして究極的には、多様な悟性認識の完全な体系的「集合的統一(die kollektive Einheit)」を超越論的理想として要請することを課されている(aufgegeben)ということ、このことに外ならない。ところで、被制約者から制約の制約へと進む超越論的遡源推論が、無際限に遡源し続け完結することのない、理性の単なる論理的使用に基づく経験的遡源推論とは違って、それが完結すると臆断されるのであれば、《もし被制約者が与えられているならば、制約の系列の絶対的総体性たる無制約者もまた与えられている》ということが想定されなければならない。即ち、この想定を大前提とし、無制約者が与えられていると結論するような推論が、正当な推論として成立するのでなければ、かの遡源推論は完結するとは考えられない。それ故、無制約者(超越論的理念)が純粋理性の超越論的遡源推論によって産出されるのであるならば、

 (大前提)もし被制約者が与えられているならば、無制約者も与えられている。

 (小前提)ところで被制約者は与えられている。

 (結論)従って、無制約者は与えられている。

という仮言的推論を、無制約者(超越論的理念)の種類とは無関係に、常に根拠としてその根底に置いているのでなければならない。純粋理性が「如何なる経験的な前提をも含ま

ない」で無制約者を欲求し、その欲求を満足させようと制約の制約へと遡源する限り、原

理的にはかかる仮言的命題を大前提とする推論を根拠とせざるをえないであろう。

 ところで、純粋理性の超越論的遡源推論が完結すると臆断するとは、一体どういうことを意味するのであろうか。それは論理的には、以下のことを意味するであろう。この仮言的推論の大前提における被制約者は範疇の超越論的意味(物自体)に解され、小前提における被制約者は範疇の経験的意味(現象)に解されており、従ってこの推論は「媒語二義の誤謬推論(sophisma figurae dictionis)」となるはずであるが、純粋理性はそこに媒語の一義性が成立すると臆断し、この推論を正当な推論として成立させ、そのことによって遡源を完結させるのである。そして、大前提における普遍たる無制約者(物自体)と小前提における個別たる被制約者(現象)とを結論において「直接的に」綜合するのである。純粋理性による無制約者(無限)と被制約者(有限)とのかかる「直接的」綜合こそが、カントの言う弁証(Dialektik )である。カントはそれを思弁(Spekulation )であるとして断固拒否する。

 ところで、純粋理性が物自体と現象という本来二義的な媒語を混淆し、一義的であると臆断するとしても、それには感性を悟性化し現象を物自体とする立場と悟性を感性化し物自体を現象とする立場との、二様の立場が成立する。前者は「悟性の越権」であり、後者は「感性の越権」であるが、純粋理性は媒語の一義化において二つの立場に「自己分裂する(sich mit sich selbst zu entzweien )」のである。だが、この自己分裂は一体何を意味するのであろうか。

 理性は、論理的能力としてであれ超越論的能力としてであれ、感性的経験的直観には決して直接関係せず、悟性及び悟性の判断に関係するにすぎない。前者、即ち論理的な推論能力としての理性は、既知の経験的悟性判断を推論の素材としている限り、間接的に経験的直観に関係しており、その限りでは間接的に経験的実在性を有すると言えよう。かかる経験的理性の行う推論においては、前進的であれ背進的であれ無際限な連鎖性が成立する。というのも、前進的である場合には、結論における経験的な被制約者は再び経験的制約者である故、更に低次の経験的被制約者が求められ、背進的である場合には、結論における経験的な制約者は再び経験的被制約者である故、更に高次の経験的制約者が求められるからである。さて、超越論的能力としての純粋理性は、かの論理的格率の故に、経験的理性の経験的遡源推論を下敷きにしつつも、その無際限な経験的連鎖性を超越して超越論的遡源推論が完結すると臆断するのである。だが、それには二様の仕方が可能であろう。即ち、遡源が無制約的究極的一項において完結すると臆断することによって、その連鎖性を超越的に断つという仕方と、遡源系列それ自体を無制約的であるとしてその連鎖の無際限性(潜勢的無限性)を超越的に絶対化するという仕方の二様である。前者は遡源を「無限への遡源(Regressus in infinitum)」と解する定立の立場であり、後者はそれを「不定への遡源(Regressus in indefinitum)」と解する反定立の立場である。

 さて、悟性統一は本来感性的直観(現象)の多様性の綜合的統一であるが、純粋理性は、一方では、感性を悟性化し現象を物自体と解することによって、物自体に関しても分割的な悟性統一が成立すると解し、そのような物自体に関する分割的悟性統一の背進的統一が無制約的一項において成立すると解することによって、この一項を絶対化し、経験的連鎖を超越的に一挙に断つのである。即ち、純粋理性は超越的悟性の立場を自己の立場として絶対化すると共に、無制約的一項を絶対化しているのである。(勿論、かかる一項の絶対化は「理性にとっては過小」である)。他方では、純粋理性は悟性を感性化し物自体を現象と解することによって、悟性統一の多様性(分割性)を物自体の領域にまで拡張し、この多様性(分割性)を絶対化する。そのことによって、純粋理性は無際限な経験的連鎖を物自体の領域にまで拡張し、経験的連鎖を絶対化するという仕方で経験的連鎖を超越するのである。即ち、純粋理性は内在的悟性の立場を自己の立場として絶対化しているのである。(勿論、かかる絶対化は内在的「悟性にとっては過大」である)。

 以上のことから、上述の媒語を二様の仕方で一義化することと無際限な経験的連鎖を二様の仕方で超越的に断つこととが、同一の事態であることは明らかであろう。即ち、純粋理性は、超越的悟性の立場を絶対化する立場と内在的悟性の立場を絶対化する立場とに自己分裂するが、前者は感性を悟性化するという悟性の越権に基づく「超越的理性の越権」であり、後者は悟性を感性化するという感性の越権に基づく「超越的理性の越権」である。純粋理性は同一の超越論的推論に基づきながら、二様の超越的越権的理性に自己分裂し、分裂した各々の越権的理性が自己の正当性を「間接的に(apagogisch)」主張することによって背反し合うという現象が、純粋理性の二律背反なのである。ところで、実際にはカントは二律背反を世界の理念に限定し、魂の理念と神の理念に関しては唯心論と有神論という「単に一面的な仮象」しか成立せず、二律背反構造は示されないと言う。(その理由は、両理念に関しては超越論的遡源推論の遡源的経過性が世界の理念の場合のように尖鋭化しないことに求めらるであろう)。だが、純粋理性が無制約者(理念)を求めて制約の制約へと経過的に遡源するのであるならば、即ち、あらゆる理念が超越論的遡源推論に基づくのであるならば、原理的には上述の超越論的仮言的推論があらゆる理念に関する超越論的推論の基本的な形式となるはずである。また弁証は、現象と物自体とを混淆する越権的理性の背反として、あらゆる理念において二律背反構造を示すはずである。

   3.

 カントによれば、超越論的弁証論の課題は、越権的理性が生ぜしめる超越論的仮象の仮象性を、従ってまた、背反的対立の仮象性を暴露することにあるとされるが、この仮象性の暴露は、具体的には二律背反の「批判的解決」という仕方でなされる。即ち、弁証論(Dialektik )の課題は、越権的理性の弁証(Dialektik )の暴露とその解決にある。原理的にはあらゆる理念に関して二律背反が成立しうる以上、この批判的解決はあらゆる理念に関する背反的対立を解決するものでなければならないが、ここでは考察の対象を世界の理念に限定して、しかも先ずは世界の無限性と有限性とに関する数学的二律背反に限定して、批判的解決とは何であるかを考察してみたい。このことによって、二律背反が生ずる根拠が更に明らかになるであろう。また、それと同時に、批判的解決がカント哲学において有している意義が明らかになるであろう。

 現象の総体性としての世界が、現象の系列を我々が遡源することから「独立して」存立するとすれば、即ち世界が「物それ自体である」とすれば、そして反定立の側の判断を《世界は量的に無限である(unendlich )》という肯定判断と解し、定立の側の判断を《世界は量的に無限ではない(nicht unendlich )》という否定判断と解するならば、或いは逆に定立の側の判断を《世界は有限である》という肯定判断と解し、反定立の側の判断を《世界は有限ではない》という否定判断と解するならば、世界の自体的無限性と自体的有限性とを主張する両判断は「矛盾対立(kontradiktorisches Gegenteil)」の関係、或いは「分析的対当」の関係にあると解される。この関係においては、排中律が妥当し、一方の真理性が否定されれば他方の真理性が間接的に(apagogisch)肯定される。それ故、現象の系列の経験的遡源からの世界の独立性(自体性)を前提する限り、両判断は真に背反的対立関係にあると解される。

 ところで、かく世界の遡源系列からの独立性或いは超越性を前提するということは、物自体としての世界(無制約者)が論理的基体として量的規定に関する判断の主語たりうることを前提することである。しかし、この前提を「不当な」前提であるとすることも可能である。即ち、「世界は現象の系列の経験的遡源の内にのみ存する」という「第三の立場」をとることも可能である。この立場からすれば、現象の総括としての世界は、経過的遡源に絶えず即しているが故に、空間的時間的規定態たりえず、従ってその量が固定的に規定されるような確固たる論理的基体としては判断の主語とはなりえないはずである。それにもかかわらず、量的規定態と解された世界を主語として、そこに量の範疇が適用される場合に、初めて上述の矛盾対立関係が生ずるのである。それ故、この第三の立場からすれば、矛盾対立関係にあると見られた両判断は、その前提の不当性の故に、「共に偽」とされなければならない。否、カントの言うように単に偽であるというだけではない。両判断は量的規定態としては判断の主語たりえないものを主語としているのだから、両判断はそもそも「無意味」なのである。この無意味性は、《世界は量的に有限であるか無限であるか》という形而上学的問題を解決しようとする試みそのものの無意味性を意味しており、この無意味性を指摘することが直ちに、純粋理性による拡張的認識を標榜する伝統的形而上学に対する痛烈な批判となるのである。

 《世界は量的に無限である》という肯定判断に対しては《世界は量的に非無限(nichtunendlich)である》という無限判断が、また《世界は量的に有限である》という肯定判断に対しては《世界は量的に非有限(nichtendlich)である》という無限判断が、《世界は量的に規定されていない》という第三の立場を包含する判断として成立するが故に、世界の自体的無限性を主張する判断と自体的有限性を主張する判断とは決して矛盾対立関係にあるのではなくて、単に「反対対当(contrarie oppositorum )」の関係にあるにすぎないことになる。しかも、それは越権的理性の弁証に基づく無意味な判断間の反対対当関係であるが故に、「弁証的対当」関係とも称されるのである。以上のことから明らかであるが、カントは、量的規定態としては判断の主語たりえないものを主語にしている点に、従って判断の主語面に二律背反の成立根拠を見出しているのである。

 以上の如く、第三の立場からすれば、定立と反定立との矛盾対立関係は仮象的対立関係として解消される。世界の遡源からの超越性を否定するこの立場は、現象と物自体との混淆を否定し、両者の絶対的分離を主張する立場である。それ故、現象と物自体との超越論的区別の立場を固持する超越論的観念論の立場をとることが、また世界の理念を課題表象として統制的にのみ使用することが、直ちに二律背反の批判的解決となるのである。

 矛盾対立関係と思われていた関係が、現象と物自体との絶対的分離によって、単なる弁証的な反対対当関係に解消され、矛盾対立関係の仮象性が暴露されるという事態は、「あらゆる超越論的理念を一般的に表象する」限り、世界の理念の他のすべての二律背反の場合にも成立するはずである。世界の理念に関する超越論的遡源推論において、それが数学的理念であるにせよ力学的理念であるにせよ、被制約者とその制約とが感性的制約に従う「同種的」なものである限り、遡源系列は「一つの系列」を形成し、この系列が「単に量的にのみ考量される」。その限りにおいては、数学的理念に関する遡源系列も力学的理念に関する遡源系列も、形式的には「すべて同種的」であり、それ故、上述の事態は力学的二律背反にも同様に生ずるはずである。そうであるならば、力学的二律背反においても同様に、定立の命題と反定立の命題とは共に偽であるばかりか、そもそも無意味であるという事態も成立するはずである。にもかかわらず、力学的二律背反においては両命題は「双方真でありうる」とカントは主張する。これは一体どういうことであろうか。

 カントは、ある箇所で、数学的理念と力学的理念との「本質的な区別」に言及し、また狭義の「世界概念」と「超越的自然概念」との「特に重要な」区別に言及している。そこでは、力学的遡源においては、感性的制約の系列が唯一の系列を成すのではなく、叡智的制約を「この系列の外に」「異種的な制約」として「許容する」のだから、「遡源系列の量をも捨象しうる」ことが言われている。このことが、後述の如く数学的理念と力学的理念との、また数学的二律背反と力学的二律背反との本質的な差異を形成するのだが、遡源系列の量を捨象するとは何を意味するのであろうか。また、異種的な叡智的制約を許容するとは何を意味するのであろうか。

 これらは、力学的二律背反の定立の側の命題を導出する超越論的遡源推論が、反定立の側の命題を導出する超越論的遡源推論とは違って、連鎖性を有する経験的遡源推論を決して下敷きにしてはいないことを端的に意味している。力学的二律背反は、純粋理性が同種的な制約・被制約関係における経験的連鎖を絶対化することによって、それを超越する立場(反定立の立場)と、異種的な叡智的制約(感性的無制約者=物自体)を端的に措定し、異種的な制約・被制約関係そのものを経験的連鎖とは無関係に絶対化することによって、経験的連鎖を超越する立場(定立の立場)とに自己分裂し、背反することである。力学的二律背反は、反定立の側も定立の側も経験的遡源推論を一応は下敷きにしている数学的二律背反と、この点で決定的に性格が異なるのである。とはいえ、反定立の側も定立の側も、絶対化による経験の超越という点においては共に偽であること、また現象と物自体との絶対的分離が、この仮象的背反の批判的解決となること、これらのことは数学的二律背反の場合と同様である。

 にもかかわらず、現象と物自体との絶対的分離による力学的二律背反の解決は、数学的二律背反の場合の解決とは以下の点において異なる。数学的二律背反の場合は、現象と物自体とを絶対的に分離することによって、定立・反定立の判断に共通している《世界》という概念が、量的規定態としては論理的基体たりえないことを示すことによって、定立・反定立の判断の無意味性を暴露するという解決であった。これに対して、力学的二律背反の場合は、現象と物自体との、現象界と叡智界との絶対的に分離することによって、定立と反定立との判断は主語が内容的に異なっている別種の判断とする解決である。即ち、矛盾対立関係にあるように見える判断の「主語の差異」を主張することによって、外見的な矛盾対立関係を「小反対対当」関係に解消するという解決である。定立・反定立の立場は、自己の主張のみを絶対的に真であると主張するならば共に偽であるが、このような判断の主語の差異をそこに持ち込めば、両主張の両立の論理的可能性が成立するのである。

 ところで、力学的二律背反と数学的二律背反との上述の性格の差異は、カント哲学にとって重大な結論を生ぜしめることになる。何故ならば、異種的叡智的制約(物自体)が論理的可能性を有する概念として許容される限り、現象界と叡智界とを絶対的に分離し、この分離されたそれぞれの世界において反定立・定立の主張がそれぞれ妥当しうるとする立場、即ち、仮象的背反の内にある両主張を「双方とも真たりうる」として「和解させる(vergleichen )」「第三の立場」が成立する論理的可能性が生ずるからである。このことは、新たな形而上学の構築の論理的可能性を主張するものであり、それ故、カント哲学という全構築物の要石は、とりわけ「実践的・独断的教説」としての実践的形而上学の要石は、力学的二律背反のこの解決の内にあるといっても過言ではないのである。

   4.

 ヘーゲルは、カントの二律背反論を様々な箇所で批判しているが、批判の要点は以下の点にある。

 (1)カントの行っている定立・反定立の命題の証明は、不必要な回り道である。何故ならば、両命題は直接的に定言的(=無条件的)に主張されているからである。

 (2)あらゆる表象、概念、理念において二律背反が見出されるにもかかわらず、カントは宇宙論から取られた四つの特殊な基体に関してのみ二律背反を見出しているに過ぎない。即ち、カントは二律背反の論理的な内実を把握していない。

 (3)カントの二律背反の解決は、対立を主観的なものにし、またそれを絶対化することによって、対立を取り除くという解決であり、真の解決とはなっていない。絶対的に対立していると見えるものが、自己自身によって、それらの本質によって相互に移行し、その前提を止揚するという高次の理性的な運動、即ち弁証法(Dialektik )が、カントにあっては成立しておらず、それ故、二律背反は未解決のままである。即ち、カントの批判哲学は、両規定が他の規定へと移行するという媒介を、即ち理性そのものを欠く形式的な知の立場に過ぎない。

 さて、以上のようなカント批判は、ヘーゲルの如何なる立場から出て来るのであろうか。このことを明らかにすることによって、ヘーゲルのカント批判の要点は更に明確なものとなるであろう。

 ヘーゲルは、ニュルンベルク期の『上級用哲学エンチクロペディー』において、「弁証法的なもの(Das Dialektische)は、通常は、或る主語に関して二つの対立した述語が主張されるというようにして現れる。より純粋な弁証法的なものは、或る述語に関して、その規定がそれ自身に即してあるとともにそれ自身の反対であるというような仕方で、一つの悟性規定が提示され、従ってその規定は自己自身において自己を廃棄している、という点にその本質がある。」と言う。また、『論理学』においては「思惟規定のみが二律背反の本質や根拠を成す」と言う。これらの主張は、カントが二律背反の根拠を判断の主語面に見出しているのに対して、ヘーゲルはそれを述語面に、正確に言うならば思惟規定の内に見出していることを、端的に示すものである。ところで、ヘーゲルは、思惟規定は存在者に帰せられると同時に思惟そのものに帰せられるという、二重の在り方をしていると言う。即ち、思惟規定は存在者或いは対象そのものの規定であると同時に、思惟そのものの規定であると言う。だが、思惟規定が思惟そのものの規定であるということによって、二律背反の問題に関して一体何が生ずるであろうか。このことを有限性と無限性という規定を例に明確にしてみたい。

 思惟規定を対象そのものの規定ではなくて、我々の表象としての対象の規定としてのみ捉える点で主観的であり、またそれを思惟そのものの規定として捉えない点で一面的である、カント的な悟性規定の立場からすれば、有限性或いは無限性という規定は世界という基体(表象としての対象)に関する規定でしかない。それ故、《世界は有限である》という判断と《世界は無限である》という判断が背反的対立を引き起こしている場合、カントのように、両判断に共通している基体が、基体とはいっても量的規定態たりえないことを理由にして、この対立を解消するという仕方は勿論可能である。しかし、それだけが唯一の解消の仕方ではない。思惟規定そのものの内に、もう一つの解決の仕方がある。

 カントの二律背反においては、有限性と無限性という両規定は絶対的に分裂しているように見える。しかし、有限性という規定(Bestimmung)は、即自的に存在するのではなくて、無限性という絶対的な他者への関係・他者に対する存在というその規定性(Bestimmtheit)によって、自己自身を区別し、そのことによって限界を自ら措定する自己規定である。従って、それはそれ自身の規定性によって廃棄されるべきものである。しかし、他方では、無限性という規定は、限界の措定とその廃棄という空虚な反復にすぎないのだから、それは自らの他者である有限に対して規定されており、従ってそれ自身の規定性によって廃棄されるべきものである。(前者はそれ自身において無限な有限性であり、後者はそれ自身において有限な無限性である)。従って、有限性と無限性という両規定はそれだけで真であるのではなく、絶対的に対立していると見える両規定は、それら自身によって他者へ移行するのだから、絶対的に分裂しているという前提そのものが止揚されることになる。ヘーゲルは、「対立しているものをその統一において認識すること」を真の思弁(Spekulation )と考え、思弁こそが理性的なもの、哲学的なものであると考えるのである。

 さて、このように思惟規定を思惟そのものの自由な自己規定の働きとするならば、カントが提起した二律背反の問題は全く異なった様相を示すことになる。というのは、二律背反の問題は基体(主語)とは全く無関係に、「二律背反的な範疇」間の関係の問題、より正確に言えば、思惟そのものの自己規定の間の関係の問題に解消されるからである。二律背反は「あらゆる種類のあらゆる対象、あらゆる表象、概念、理念において」成立するのであって、宇宙論的な基体に関してのみ成立するのではないという上記の批判(2) は、このようなヘーゲルの立場から生ずるのである。また、ヘーゲルの立場からすれば、カントは「何の価値も有さぬ不必要なお荷物」である論理的基体(主語)をわざわざ措定し、有限性と無限性という思惟規定の絶対的対立を無条件的に前提して定立・反定立の命題を提示するという、不必要な回り道をしていることになる。即ち、上記の批判(1) に示されているように、ヘーゲルの立場からすれば、カントは両思惟規定の対立を絶対的なものとして無条件的に直接的に主張しているにすぎない、と解されるのである。これらの批判は、結局のところ、カント的な思惟規定の捉え方に対する批判である。

 ところで、カントにおいて二律背反は、純粋理性が同一の超越論的遡源推論によって、感性を悟性化しつつ究極的一項或いは異種的な制約者を無制約者として措定する悟性的な理性の立場と、悟性を感性化しつつ遡源系列そのものを無制約者として措定する理性的な悟性の立場とに自己分裂することであった。定立の側も反定立の側も、カントからすれば純粋理性の立場であるが、上記の批判(3) に示されているように、ヘーゲルからすればこれは決して理性の立場ではない。確かにカントのように、形式論理学の推論(三段論法)を下敷きとする超越論的推論を通じて無制約者を産出する能力を、判断能力としての悟性から区別して、理性と称することも許されよう。しかし、超越論的遡源推論を素材の面から支えているのは悟性の判断であり、その限りにおいて、純粋理性のこの推論には悟性的思惟が不可欠のものとして絶えず付随している。それ故、《世界は有限である》或いは《世界は無限である》という命題は、純粋理性の推論の働きの結果であるとはいえ、そこに付随する悟性的思惟の産物でもあると言えよう。ところで、悟性的な思惟は、ヘーゲルに言わせれば、自らの思惟諸規定の自立性を主張するのみで、それらの規定性・非自立性・他の規定への移行という媒介を知らない点で、理性と決定的に異なるのである。それ故、上記の命題は純粋理性の働きの結果であるとはいっても、ヘーゲルからすれば、その内実は悟性的思惟の産物でしかないのである。

 とはいえ、カントとヘーゲルとでは、「理性概念の機能の捉え方」が、もともと決定的に異なっているのだから、二律背反を引き起こしているカント的理性の内に、消極的ではあるにしても、ヘーゲル的理性の胞芽が認められるとするヘーゲルの主張は、行き過ぎであると言わざるをえない。むしろ、両者の根本的な差異は、思惟規定の捉え方にこそあると言うべきである。

 ところで、以上の批判、とりわけ思惟規定をめぐる批判は、カント哲学に対する極めて重大な批判となっていると言わざるをえない。批判哲学は、人間理性(感性・悟性・理性)に関する哲学的批判理性の超越論的な反省的思惟を通じて、認識可能なものと不可能なものとを絶対的に分かつ(κρινω)ことをその使命としており、感性に関して言えば、現象と物自体との超越論的区別は、批判理性の反省的思惟の産物として絶対的に固定されるべきものである。しかし、ヘーゲルからすれば、現象と物自体とをかく絶対的に分裂せしめる批判理性の超越論的な反省的思惟は、所詮悟性的な思惟にすぎないのであって、批判理性が人間理性を批判するという、理性の自己批判としての批判哲学においては、「悟性による分裂の絶対的固定化に反対する」ような理性(=ヘーゲル的理性)が全く登場していないことになる。即ち、哲学的批判理性は、超越論的な反省的思惟を行いつつも、その反省的思惟そのものの本性を考察することを欠いているという、致命的欠陥を有することになる。その結果、カント哲学は「悟性規定の有限性」にとどまる「消極的弁証法」でしかないことになる。このようなヘーゲルのカント批判は、その超越論的な反省的思惟を通じて、批判理性が人間理性の諸要素の権利を確定し固定するという、批判哲学の方法そのものを根底から覆すような批判となっているからである。

   5.

 ヘーゲルは『哲学的諸学のエンチクロペディー』において、二律背反的な事態が三つの仕方で解釈されうることを指摘している。その内の一つは、それを偶然的な事態と捉え、他の二つは、それを必然的な事態と捉えるものである。即ち、(1)このような事態の原因を「推論や論証における主観的な誤謬」という「偶然的な過ち」に帰する古代形而上学の解釈の仕方(これはカントの表現を用いれば、「理性推論の形式における誤った仮象を暴露する」「論理的弁証論」の立場である)、(2)現象と物自体との区別を超えて、無制約者の綜合的認識をも要求する人間「理性の本性に起因する」「不可避な」事態であるとするカントの解釈の仕方(これはヘーゲルからすれば悟性的な「思惟そのものの本性」に帰していることになる)、(3)そこに「思惟の弁証法的運動」を見るヘーゲルの解釈の仕方が、それらである。

 では、二律背反的事態の偶然性を主張する古代形而上学は別として、この事態の必然性を主張するカントの立場とヘーゲルの立場との、何れが正当な解釈なのであろうか。この問いは、《主語と述語を区別し、基体としての主語を述語が固定的に規定する、カント的な悟性的思惟の論理か、それとも「規定の自己関係の論理」というヘーゲル的な弁証法の論理か》という問いである。この問いは、今もなお真摯に問われなければならない問いである。

 

( 1) カントの著作からの引用はアカデミー版(Kant's gesammelte Schriften, hrsg. von Preußischen Akademie der Wissenschaft)に依る(以下K.G.S.と略す)。ローマ数字は巻数、アラビア数字は頁数を表す。ただし、『純粋理性批判』からの引用は、慣例に従い巻数を略し、その頁数を第一版をA、第二版をBとして示す。Vgl.K.G.S., W,S.338.

( 2) K.G.S., ]U,S.257f.Nr.820.

( 3) K.G.S., ][,S.69,Nr.5037.

( 4) 二律背反問題を1769年の「大いなる光」より前に認めるか、それとも1772年の演繹問題の解決をもって初めて可能な問題と見なすかに関しては、諸説がある。この点に関しては、下記の論文が参考になろう。J.Schmucker, "Zur entwicklungsgeschichtlichen Bedeutung der Inauguraldissertation von 1770", Kant-Studien, Sonderheft, 1974,S.263-282.

( 5) ヘーゲルからの引用は G.W.F.Hegel. Werke,hrsg. von E.Moldenhauer u. K. M.Michel, Suhrkamp. に依る(以下H.W.と略す)。ローマ数字は巻数、アラビア数字は頁数を表す。H.W., [, S.128,126.

( 6) H.W., W, S.414.Vgl.X, S.225f.

( 7) W・レェート『弁証法の哲学 -- T近代』、武田趙二郎・池田俊彦・高月義照共訳、以文社、1984年、75頁。

( 8) K.G.S., A299=B355f.

( 9) K.G.S., A307=B364.

(10) K.G.S., A644=B672.

(11) Vgl.K.G.S., A307f.=B364,A409=B436, A497=B525.

(12) 周知の如く、カントは、魂・世界・神の三理念が超越論的定言・仮言・選言推論の形式をとることの根拠を、超越論的な理性と論理的な理性との機能の類比或いは両者の自然的関係に求めている(Vgl. K.G.S., A299=B356,A333=B390,A336=B393.)。だが、この理念の主観的導出には問題がある。この点に関しては、拙論「カントの『先験的弁証論』」、『哲学論叢』(大阪大学文学部哲学・哲学史第二講座発行、第14号、1984年)を参照されたい。

(13) K.G.S., A339=B397.

(14) K.G.S., A402,B411.

(15) K.G.S., A733=B761,A736=B764.

(16) Vgl. K.G.S., A271=B327,A43=B60.

(17) Vgl. K.G.S., A271=B327.

(18) K.G.S., X,236,Vgl.A233=B285.

(19) K.G.S., A255=B311.

(20) K.G.S., A461=B489.

(21) Vgl.,K.G.S., A417f.=B445.

(22) K.G.S., A519f.=B547f.

(23) K.G.S., A422=B450.

(24) K.G.S., A703=B731.

(25) K.G.S., A789=B817.

(26) K.G.S., A406=B433.Vgl.A407=B434, A421=B448,A641=B669,A673=B701.

(27) 高橋昭二著『カントの弁証論』(創文社、1969年)所収の論文「カントの弁証論」は、この点を明確にしている。

(28) K.G.S., A497=B525.

(29) K.G.S., A504f.=B532f.

(30) K.G.S., A503f.=B531f.

(31) K.G.S., A503=B531.

(32) K.G.S., A505=B533.

(33) K.G.S., A503=B531.

(34) K.G.S., A504=B532.

(35) W・レート、前掲書、86頁。

(36) K.G.S., ]], S.291.

(37) K.G.S., A504=B532.

(38) K.G.S., A529=B557.Vgl.A543=B571.

(39) K.G.S., A528f.=B556f.

(40) K.G.S., A530=B558.

(41) K.G.S., A532=B560.

(42) K.G.S., A529=B557.

(43) K.G.S., A420=B448.

(44) K.G.S., A530=B558.

(45) K.G.S., A535=B563.

(46) K.G.S., ]], S.291.なお、ミヒャエル・ヴォルフ著『矛盾の概念』(山口祐弘・山田忠彰・河本英夫共訳、学陽書房、1984年)は、カントの弁証論的対立を反省論理学的基体の過剰規定と過少規定として明確化した興味深い書物であり、大いに参考となる。

(47) K.G.S., A530=B558.

(48) K.G.S., ]], S.273.

(49) Vgl. H.W., W,S.95,185,187,188,X, S.216f.,219ff.,272ff.,Y,S.440f., [, S.129 usw.

(50) Vgl. H.W., W,S.184,407,414, X,S. 217,271,[,S.127f.usw.

(51) Vgl. H.W., U,S.319f.,330, X,S.217f.,225ff.,276,Y,S.172, [,S.128 usw.

(52) H.W., W,S.55f. Vgl.[,S.126. なお傍点は筆者が付加したものである。

(53) H.W., X,S.217.

(54) Vgl. H.W., W,S.86.なお、海老澤善一氏の論文「〈方法〉としての弁証法」(加藤尚武・安井邦夫・中岡成文編『ヘーゲル哲学の現在』、世界思想社、1988年)は、カントの二律背反論に言及しつつ、ヘーゲルの弁証法を「規定の自己関係の論理」(同書,201頁)として明確化している。氏の論文に教えられるところは大であった。ここに記して謝意を表したい。

(55) Vgl. H.W., W,S.92f.

(56) Vgl. H.W., W,S.96.

(57) H.W., W,S.415.

(58) H.W., W,S.407.

(59) H.W., [,S.127.

(60) H.W., W,S.407.

(61) Vgl. H.W., X,S.111,227, Y,S.172, [,S.172,174 usw.

(62) レート、前掲書、87頁。

(63) H.W., U,S.22.

(64) H.W., [,S.173.

(65) H.W., W,S.91.

(66) H.W., [,S.128.

(67) K.G.S.,A333=B390. Vgl. A298=B354.

(68) K.G.S.,A339=B397.

(69) H.W., [,S.128.

(70) H.W., [,S.128.

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