理性の事実とIntelligenz

   ――哲学的理性の実践的反省と実在性の問題――

                                                                              山本博史

   序

 カントの『純粋理性批判』におけるIntelligenz概念に関して、我々は次の三点を指摘しうる。(@)我々理性的存在者は、経験的所与表象を限定する思惟の具体的な働きに即しつつ、自己活動性(自発性)を純粋に知的に(intellectuell)、また直接的に意織している。しかもこの働きの意織には、感性的には限定されていないが、従って経験的実在性を有するものではないが、自己の実在的な存在の意織、即ち自己の叡智的な(intelligibel)存在の知的直接的意識が常に不可分に結合している。この両者を同時に意識している存在者が、第一義的な意味においてIntelligenzと称される。(A)しかし、これらを意識している主体はあくまでも個体である。(B)それ故、純粋統覚がüberindividuellな形式的規範的意識として成立しうるためには、individuellな「この私の意識を他の物へと転移すること」(A347=B405――傍点筆者)、しかも「我々の意識の定式(Formel)」(A354――傍点筆者)、つまり「内容において全く空虚なIchという表現」(A355)を転移すること、換言すれば、個別的意識主体が他我一般をIntelligenzとして形式的に一方的に承認することが要求される。
 さて、Intelligenzのこの自己活動性の知的意識は「ある種の自由の意識」と称されうるであろう。しかしこの自由は、第三アンチノミーで問題となっている「先験的自由」(A446=B474)ではない。先験的自由は、木来的宇宙論的意味においても類比的意味においても、単に諭理的可能性を有するものとして想定されたにすぎず、そこでの批判的解決は、「自由の現実性」(A557=B585)をも実在的可能性という意味での「自由の可能性」(A558=B586)をも主張するものではない。先験的自由、従ってまた叡智的原因(causa noumenon)は、かく諭理的可能性を有するにすぎぬが故に「空虚」(X,  62)である。これに対してIntelligenzの自己活動性の知的意識は、Intelligenzが自己の叡智的存在を「何か実在的なもの(etwas Reales)」(B419,  B423 Anm.)として自覚するものである限り、実在的なものである。それは力学的実在性」(A641=B669)の知的意識なのである。この点で両者は区別される。しかし他方、Intelligenzの自己活動性のこの知的直接的意識を直ちに実践的自由の意識と同一視することは避けねばならない。「自由の最初の概念は否定的である故、我々は自由を直接的に意識することはできない」(X,  34――傍点筆者)と、また道徳律が自由の「可能性のみならず現実性を証明する」(X,  54)と言われているからである。
 Intelligenzとして自己活動性・力学的実在性を自覚している哲学的理性は、この自覚と先験的自由の空虚さの自覚の故に、理論理性の領域から実践理性の領域へと移行し、実践理性に関する哲学的反省を通じて、かの空虚さを実践践的自由として「補完」「充実」(X,  54, 55, vgl. 63)するに至る。小論は、哲学的理性の実践的反省の過程の一部分を考察することにより、『実践理性批判』及び『道徳の形而上学の基礎づけ』におけるIntelligenz概念の意義を、道徳律及び実践的自由との関係において、また理論理性の領域との関係において明療にすることを意図するものである。

   一

 我々は自己の行為を必ずしも常に自覚しているとは限らない。しかし我々は、道徳的であると否とに拘わらず、如何に行為すべきかを問題とする限り、自己に『注視(achthaben)」(W,  263,282, X,  90)し哲学的反省を遂行しなければならない。『純粋理性批判』において先験的反省を遂行する哲学的理性は、認識可能なものと不可能なものとを分かつ(κρινω)が故に、「批判理性」(A270=B326)と称されたが、それと同じ意味において、即ち道徳的絶対的価値を有するものと有さぬものとを分かつという意味において、実践理性に関する哲学的反省主体もまた批判理性と称されうるであろう。ところで反省主体たる哲学的批判理性は、「理性と意志とを有する存在者」(W,  251, vgl.X,  37)即ち理性的存在者であると言われるが、ここには二つの差し当っては言葉上の問題がある。一つは実践理性と意志との関係に関する問題である。カントは意志を、「表象に対応する対象を産出する能力であるか、もしくは(物理的能力が十分であるにせよ、ないにせよ)この対象を生ぜしめるように自己自身を、即ちその原因性を限定する能力である」(X,  16)と定義する。そして実践理性がこの意志を限定すると言う。そうであるならば、実践理性は意志とは異なったものとなろう。それにもかかわらず、カントは両者をしばしば同一視しているからである。今一つは、実践理性に関する哲学的反省において問題となる理性が実践理性に限られるかどうか、という問題である。それ故筆者は、意志と実践理性と理論理性との関係を、哲学的理性の実践的反省に即して考察することにする。
 カントは『基礎づけ』において仮言的命法を、行為の意図の可能性及び現実性という観点から、蓋然的・実践的原理たる「熟練の命法(die Imperativen der Geschicklichkeit)」と実然的・実践的原理たる「怜悧の命法(die Imperativen der Klugheit)」とに二分する(vgl. W,  272, 276)。そして「技巧的(technisch)」(W,  274)命法と称される前者を、意図の可能性の故に、「もし我々がこの客体を欲するならば、我々はかくかくの行為を行うべきである」(W,  303)と定式化し、「実用的(pragmatisch)」(W,  274)命法と称される後者を、意図の現実性の故に、「我我はこの客体を欲するが故に、我々はかくかくの行為を行うべきである」(W,  303)と定式化する。前者はまた意図の可能性の故に、「事実上無限に多く」(W,  272)存在すると言われる。他方、我々の幸福への意図は 「現実的」(W,  273)であるが、「全知(Allwissenheit)」(W,  276)を有さぬ我々は、経験的諸要素から幸福概念を構成しえぬが故に、幸福概念は「無規定(unbestimmt)」(W,  275)にとどまらざるをえない。換言すれば、「ある絶対的全体、即ち私の現在並びにあらゆる将来の状態における快適の極大」(W,  275)がその本質を成している幸福概念は、「構想力の理想」(W,  276)にすぎない。従って後者の命法は、行為者が無規定な幸福概念を「主観的・偶然的制約」(W,  274)の下で規定する限りにおいて成立するものであり、それ故命法というよりはむしろ「理性の勧告(Anratungen; consilia)」(W,  276)と称される。ところで、意図の可能性及び現実性に基づく仮言的命法のこの区分法は、『実践理性批判』には見られず、更には『判断力此判への第一序論』において訂正されている。即ち、熟練の命法を蓋然的命法と呼ぷのは誤りであり、怜悧の命法と共に「技巧的命法」(X,  183 Anm.)と呼ぶべきであると訂正されている。そこでは意図の可能性(蓋然性)と現実性(実然性)との区別は、もはや命法の形式的区別を成してはいないのである。しかしこの訂正の根拠は、『基礎づけ』の中に既に存していたと考えられる。何故ならば、カントは命法のこの形式的区別と同時に、「一切の命法は仮言的に命令するか定言的に命令するかである」(W,  271――傍点筆者)という命法の様相に関する主張をも為していたからである。元来、定言的・仮言的・選言的という術語、また蓋然的・実然的・必当然的という術語は判断の関係及び様相を表現する術語であり、それらが命法の区分のために用いられたと考えられるが、カントは『基礎づけ』の段階では命法の様相に関して明確な見解を持っていなかったために、かかる訂正を為さねばならなかったのであろう。それ故、筆者は後に技巧的命法と名付けられたものの再構成を試み、この命法の様相について論ずることにする。
 刺激(stimulus)に起因し、しかも「対象の明晰な感性的認識に先行する感性的欲求」たる感性的衝動によって、動物的感性的意志(arbitrium brutum sensitivum)は「強制(neccessitieren)」(A534=B562)される。かかる意志は明確な「意識をもって欲求する]ことがなく、従って自ら「規則を持つことなしに行為する」にすぎない。倫理学において先ず第一に問題となるのは、かかる無自覚的・無意図的行為ではなくて、少なくとも意図的行為である。意図的行為においては、行為の根拠(意図あるいは目的)と行為との間に原因・結果(前提・帰結)の諭理的関係が何らかの意味で必然的なものとして成立し、行為者は実践的推論によって前者から後者を導出する。そしてこの関係の必然性の故に、意図的行為に関しては規則性(一般性)が成立する。さてカントは、連鎖推論の第一の大前提を表すsententia maximaに由来する格率(Maxime)という術語を、「行為を行うための主観的原理」(W,  278 Anm.vgl. 257 Anm.)と定義している。ところで、「概念によって特殊を普遍の内に認識する場合のような認識」が「原理からの認識」(A300=B357)と称されることから明らかであるが、原理とは、従ってまた格率とは推論の大前提を意味する。それ故、以下においては先ず、格率から如何なる実践的推論によって行為が為されるに至るかを考察するが、『基礎づけ』において仮言的命法と名付けられた熟練の命法を範型とすれば、意図的行為の格率は次の如きものとなろう。《もしAを欲しているならば、私はある行為Bを行う》。この格率(大前提)に対して、《私はAを欲している》が小前提を成し、大前提の前件を肯定することによって、即ち小前提の個別性が大前提の前件の普遍性(一般性)に包摂されることによって、結論《私はBを行う》が得られる。ところで、ただ一つの推論のみから行為が行われることは実際には極めて稀である。通常は、ある格率より導出された結論を大前提の前件とする仮言的推論、即ち《もしBを行うことを欲しているならば、私はある行為Cを行う》を大前提とする仮言的推論がこれに続き、以下同様にして推論は連鎖する。推論のこの連鎖は、推論]からの結論《私はある行為Zを行う》において、行為者が行為Zに対する「物理的能力」(X,  16)を有すると判断した場合に停止し、行為Zが開始されることになるが、それを有さぬと判断した場合には、行為Zに対する、従ってAに対する意欲(Wollen)は「単なる願望(ein bloßer Wunsch)」(W,  250)にとどまる。この場合には実行可能な行為を規定すべく、推倫は更に連鎖されることになる。ところで、各推論の大前提の後件におけるB・C・D……は、ある目的に対して手段となるような行為(例――殺人)とは限らず、ある目的に対する具体的手段をも同時に提示している場合(例――ピストルによる殺人)等々も考えられるが、目的・手段関係の点では同一である故、以下においては区別をしない。
 さて、形式的にかかる格率及び推論に基づいて行為が行われたとしても、それは直ちに理性的行為であるとは言いえぬ。格率そのものの実質が非理性的である場合が考えられるからである。それ故行為主体は、理性的行為を意図する限り、格率の実質に関する反省を遂行しそれを理性的なものとしなければならないが、それは感性及ぴ悟性に関係するような反省である。(イ)「カントの欲求論は快楽主義である」と言われるが、快感情の獲得を根拠とする個別的欲求を確実に充足するためには、行為主体は何よりも先ず自己の個別的欲求そのものを、またそれが快・不快の感情を根拠としていることを自覚していなければならない。感性に関するこの自覚は、先の連鎖推論で言えば、最初の小前提《私はAを欲している〉で表明される。更に行為主体は、(ロ)目的Aと手段B・C……との間の困果結合の必然性を自覚していなければならない。ところで、(ハ)因果結合の点では等しく必然的であるような目的Aに対する手段が、B・B′・B″……という具合に複数成立する場合には、「手段の選択」(W,  273)という事態が生ずる。選択された手段によって期待される快の「量に関する比較」(X,  26, vgl. 29)が問題となるからである。それ故、行為主体はまた手段の選択の必然性をも自覚しなければならない。以上の自覚を通じて、行為主体は目的・手段の因果結合の必然性を「べし(Sollen)」という語で表現し、《もしAを欲しているならば、私はある行為Xを行うべし》という命法を自らに課す。ここに所謂熟練の命法が一応成立する。かかる命法も、行為がそれに基づいて実際に行われる際には実践的推論の大前提となる故、また先の推論の連鎖性がこの命法には内在している故、格率と称されうるであろう。かかる命法が単なる格率と区別されるのは、行為主体がその実質に関してかく必然性を自覚している限りにおいてである。ところで、ある手段に対する物理的能力を有するとの自覚が行為主体に存しなければ、推論が更に連鎖し行為が開始されえないのと同様、物理的能力に関する自覚が存しなければ、この命法は実行不可能な行為を命ずる空虚な命法となる。それ故、この命法が真に命法たりうるためには、(ニ)ある行為Xに対する物理的能力に関する行為主体の自覚が更に存しなければならない。更に、我々は以上の自覚にもかかわらずこの手段Xとは別の手段Yをもなお選択し意欲しうる。何故ならば、我々の「理性は欲求能力を完全に支配し」(W,  257 Anm.)「行為に対して決定的な影響を及ぼす」(W,  275)訳ではないからである。かかる理性(ここでは理論理性)の影響力とは無関係にも選択(Kur)しうる意志を、カントはWillkürと名付ける。従って命法の成立に関する以上の議論は、「目的を欲する人は……その目的のために必要不可欠であり自分の左右しうる手段をも欲する」(W,  275)ということを、「実践的推論の暗黙の前提もしくは規則」としていると考えられる。それ故、(ホ)行為主体は更に、欲求能力Willkürに対する埋性の非決定的影響力をも自覚していなければならないであろう。後述するが、かの因果結合の必然性の意識は、この自覚の故に、行為主体に対して命法という形を何としてもとらざるをえないのである。
 既述の如く、カントは『基礎づけ』において可能的(蓋然的)意図に関する熟練の命法を「もし我々がこの客体を欲するならば、我々はかくかくの行為を行うべきである」というWenn......, so......の形式で示していた。しかし、この命法が行為主体によって具体的に措定される場面においては、行為主体は意図をあくまでも具体的・現実的なものとして自覚していなければならない(上述(イ)参照)。そうであるならば、「我々はこの客体を欲するが故に、我々はかくかくの行為をなすべきである」という怜悧の命法に割り当てられたWeil......, so......の形式が、熟練の命法に関しても成立することになるであろう。即ち、Wenn......, so......の形式は具体的場面においては常にWeil......, so......の形式に転換するのである。従って、意図の可能性と意図(幸福)の現実性という観点から直ちに熟陳の命法と怜悧の命法とを形式的に区別するという、『基礎づけ』の区分法は正しくはないが、では何攻カントは熟練の命法をWenn......, so......の形式で示したのであろうか。その理由は二つ考えられるであろう。(一)具体的に命法を措定する場合、意図は常に現実的意図でなければならないが、命法を措定し自己の行為を規定する過程そのものを行為主体が反省する場合、意図の現実性・具体性は捨象され、意図は可能性・任意性・一般性を有するものと考えられる。意図のこの任意性・一般性に着目するならば、熟練の命法はWenn......, so......の形式で表現しうるからである。(二)我々は、格率に従う行為を行う度毎に格率の実質の理性性に関して反省を反復し命法を措定する必要はない。具体的な命法が一度確定されたならば、この命法が成立する具体的・個別的状況を一般化し、それを逆に任意の個別的状況に適用すればよい。従って、具体的・個別的状況の一般化とその適用という点に着目するならば、熟練の命法はWenn......, so......の形式で表現しうるからである。
 ところで、これまでは個別的欲求を規定根拠とする格率及び命法のみを問題としてきたが、我々は通常同時に複数の欲求を有する。それらをすべて満足させることを、我々は「幸福という名の下に総括している」(W,  261)。しかし快を追求する個々の格率は.行為主体自身において相互に制限・対立しうるものである。それ故、行為主体はより高次の格率によってこれらの格率を統制し.若干の傾向性を「制限」(W,  255)しなければならない。行為主体はここでも「量に関する比較」を行うが、行為主体が「全知」を有きぬ限り絶対的に確実な量比較は成立しえず、従って幸福概念は「無規定」なものにとどまらざるをえぬ。それ故、行為主体は「快適な状態を平均して最もよく増進させる」(W,  276)と判定される自己及び他者の「経験的的勧告」(W,  276)に従うより外はない。(ヘ)この経験的勧告に従う量比較の必然性を行為主体が自覚することによって、Weil......, so......の形式で表現される怜悧の命法は成立する。しかし、行為主体が「主観的・偶然的制約」の下で何らかの経験的勧告を選択し、それを自己の幸福にとって必然的であると一度自覚したならば、行為の意図あるいは意欲の対象は既に具体的に規定きれてしまっている。そうであるならば、かく具体的に規定された個別的意図を逮成する手段を規定する場面では、熟練の命法が成立することになる。即ち、Weil......, so......の形式で表現される怜悧の命法は、幸福を具体的に実現せんとする場面では、Wenn......, so......の形式で表現される熟練の命法に転換するのである。そしてこの熟練の命法は、既述の如く、再び前者の形式に転換するのである。
 以上の如くWenn......, so......という形式とWeil......, so......という形式とは相互転換するものであり、両命法は快を欲求能力の規定根拠としている限り「同一種」(W,  26, vgl. W,  275)である。両命法は、『第一序論』で訂正された様に、目的に対して手段を規定する技巧に関する命法、即ち技巧的命法である。筆者は以下において両命法を区別せずに論ずるが、ではこの訂正された意味における技巧的命法は様相の点では一体如何なるものであろうか。換言すれば、仮言的(hypothetisch)命法(=技巧的命法)の仮言性は、感性的欲求及びその対象を仮定(Hypothese)するという点にのみ存するのであろうか。
 技巧的命法は、手段Xと目的Aとの因果結合の必然性の自覚(上述(ロ))を前提とするものであった。ところで、数学・自然学における実践的命題、即ち公準(Postulat)もまた技巧的と称されるが(vgl. X,  183)、 それは「原因と結果との結合を言表する一切の命題と同様、理論的な」(X,  29 Anm. vgl. 12 Anm.,35)命題である。この「技巧的・実践的」命題と同様、技巧的命法においても「原因性を規定する概念」は「自然概念」(X,  240)である。それ故両者は「内容上」(X,  180)区別されえず、共に自然認識に基づく技巧的・実践的命題である。しかし技巧的命法における困果結合は、公準におけるそれが有するが如き「必当然的確実性」(X,  12 Anm.)を有しえぬ。技巧的命法は、経験的対象及びその表象の主観に対する経験的関係たる快感情を意欲の規定根拠としておリ、また快感情は「常に経験的にしか認識されえない」(X,  24)が故に、そこにおける目的・手段の因果結合は経験的悟性認識に基づかねばならないが、そこに成立する経験的「綜合命題」(W,  275)は蓋然性しか有しえない。それ故、行為主体は自己の主観的・偶然的制約の下でこの因果結合を蓋然的に必然的であると自覚するにすぎないのである。つまり技巧的命法に含意されている、因果結合に関する理論的命題は、行為主体の意志とは無関係な理論的命題としては蓋然的である。ところでかかる蓋然性は、個別的な目的と手段との因果結合に関してのみ成立するものではあるまい。既述の如く技巧的命法には、手段の選択における快の量比較(上述(ハ))、物理的能力の有無(上述(ニ))、経験的勧告に基づく快の量比較(上述(ヘ))、これらに関する行為主体の理論的判断もまた含意されているが、これらの理論的命題もまた経験的悟性認識に基づき蓋然的である。さて注意を要することであるが、技巧的命法に含意されている理論的命題の様相(蓋然性)と技巧的命法そのものの様相とは異なる。カントは『純粋理性批判』において、様相の範疇は「認識能力に対する関係のみを表現する」(A219=B266)と言っているが、それとの類比において言うならば、命法の様相は欲求能力に対する関係のみを表現すると言いうるであろう。従って技巧的命法の様相は、そこに含意されている理論的命題と感性的に触発される経験的意志との関係のみを表現するものであろう。では両者は如何なる関係にあるのか。技巧的命法に含意されている理論的命題が経験的綜合命題であるのに対して、技巧的命法は分析的であると言われる(vgl. IV,  275f. ) 。既に引用した「目的を欲する人は……その目的のために必要不可欠であり自分の左右しうる手段をも欲する」という命題は、対象を意欲することにおいて手段の使用の意欲が「既に考えられており」対象の概念から手段の概念を「引き出す」が故に、「意欲に関しては分析的」(IV,  275)であると言われる。技巧的命法は、この分析的命題を暗黙の前提としているが故に分析的なのである。しかしこの分析的命題は、「自ら常に理性に従うとは限らない依存的意志」(IV,  271Anm. )即ちWillkürに対しては必ずしも妥当しない。それ故、欲求能力(Willkür)に対する理性(ここでは理論理性)の非決定的影響力を自覚している行為主体(実践理性)は、この分析的命題の妥当性を自らの欲求能力に対して仮定(Hypothese)した上で、また仮定するが故に、理論理性のかの理論的命題と欲求能力との関係を、前者の後者に対する命令であると規定し自覚するのである。技巧的命法が「仮言的に(hypothetisch)命令する」と言われる場合、それは命法のかかる仮言的な様相を示しているのである。理論的命題が行為主体にとってSollenという語で表現される命令とならざるをえない根拠、また仮言的命法の仮言的命法たる所以は、まさにこの分析的命題の妥当性を仮定する点にある(23)。また「内容上」区別されえないと言われた公準と技巧的命法とは、前者が意志規定とは無関係であるのに対して(vgl. V,  29 Anm. )、後者がこの分析的命題の妥当性を仮定するという「定式(Formel)」(V, 180)を有する限りにおいて、区別されるのである。
 さて、かかる技巧的命法を自己に対して措定する反省的行為主体(哲学的理性)は、この実践的原理及びそれに基づく行為の道徳的価値の相対性を自覚することになる。何故ならば、この場合意欲の規定根拠は快感情であるが、快感情は「あらゆる理性的存在者に対して同じ仕方では妥当しえない」(V,  24, vgl. 65)ばかりか、「同一の主体においてすら」 (V,  29)同じ仕方では妥当しえず、従って相対的だからである。だがそもそも快感清のこの相対性を、行為主体は具体的に如何に自覚するに至るのであろうか。行為主体が自己のある技巧的命法(実践的原理)を(a)自己の内部で、また(b)自己を超えて一切の有限的理性的存在者へと普遍化する場合、この普遍化された実践的原理は、(@)自己の他の実践的原理及び他者の実践的原理と「偶然的な仕方で」「調和する」(V,  32, vgl. 29)こともありうるが、(A)原理(格率)自身が「内的不可能性」即ち論理的自己「矛盾(Widerspruch)」 (Y,  282)を有する場合も、(B)自己の他の実践的原理及び他者の実践的原理との実在的な「対立(Widerstreit)」 (W,  288)が生ずると推測されるが故に、その実践的原理を「意欲することが不可能」 (W,  281)である場合も成立する(24)。それ故、技巧的命法は普遍妥当性を有しえず、個別的対象を意欲する個別的行為主体との関係においてのみ、即ち相対的にのみ妥当するにすぎない。行為主体は、技巧的命法の相対的妥当性をかく自覚するが故に、自己の意欲の根拠たる快感清の相対性をも具体的に自覚するのである。だがそれと同時に、経験的意志に関する経験的な哲学的反省を通じて技巧的命法の道徳的価値の相対性を自覚するに至った行為主体(哲学的理性)は、道徳性が「妄想(Hirngespinst)」(W,264) (25)でない限り、自らの格率に普遍妥当性を与えるためには欲求能力の実質をすべて「分離し」(X,31) (26)「捨象し」(W,286) (27)なければならないことを、従って実践的普遍的法則には「普遍的立法という単なる形式」(X,31)以外には何も残存しないことを、今や自覚しているのである。ところで、ここで欲求の実質(対象)あるいは傾向性の分離・捨象が問題となるが、「自分自身の幸福を確保することは(少なくとも間接的には)義務である」(W,255)と言われていることからも明らかな様に、それは実在的なものでは決してない。『純粋理性批判』における「分離」「除去」「孤立化」等の語と同様 (28)、それは哲学的理性の反省過程における論理的抽象作用を意味する。即ち、「実際にまたあらゆる意欲は対象を、従って実質を持たねばならない」(X,39――傍点筆者)と言われている様に、実践的法則においても、それが「実践的法則の可能性の制約として」(X,38)「前提」(X,40)されるのでなければ、経験的実質が「介在(dazwischen)」(X,36)あるいは「付加」(X,40)していても何ら差し支えないのである。



 経験的意志に関する経験的反省を通じてかかる自覚に到達した行為主体は、普遍的立法形式のみを自らの規定根拠とする意志の性質を、またそのような意志を必然的に規定する法則を、見出すことが自らの「課題(Aufgabe)」(X,32f.)であると、今や自覚している。哲学的理性の反省は、この課題性の自覚を通じて、純粋意志に関する反省へと移行する。かの分析的命題を前提するところに成立する仮言的(技巧的)命法は、蓋然的に認識されるにすぎないとはいえ、自然に関する理論的命題を合意するものであった。そして、反省的行為主体は仮言的命法の妥当性が相対的であることを自覚するが故に、その否定的思惟を通じて、欲求の経験的実質(現象)を一切論理的に捨象しなければならなかった。そうであるならば、経験的実質を自らの規定根拠から捨象したところに成立する純粋意志は、現象の自然法則から全く独立していると「考えられ」(X,33)ねばならない。この独立性は、欲求能力に対する理性の非決定的影響力の故に行為主体に意識される「心理学的」(X,103)(30)自由とは異なり、「厳密な、即ち先験的意味における自由」(X,33)と称される。しかし純粋意志のこの自由は差し当りまた、「あらゆる規則の導きからの解放」(A447=B475)を意味するにすぎない無差別の自由(liberum indifferentiae)であり、「自ら自己を限定する」(A534=B562)という積極性を欠くが故に、「消極的な(negativ)意味における自由」(X,39――傍点筆者)(31)である。それはまた、反省的行為主体の論理的抽象作用によって成立するにすぎぬが故に、論理的可能性を有するにすぎないという意味でも否定的(negativ)である。それ故、反省的行為主体は純粋意志及びその自由を更に積極的に(positiv)規定すべく、反省の始元を求めなければならないが(32)、それは道徳律に求められる。何故ならば、個々の具体的な仮言的命法の相対性を自覚するに至った反省的行為主体は、経験的実質の分離・捨象という否定的思惟を通じて自己の格率に必然性・普遍妥当性を付与せんとするが、行為主体が否定的思惟とそこに成立する客観的必然性とに「注視する(achthaben)」限り、即ち自己の経験的意志に関する具体的反省過程を反省する限り、個々の具体的な道徳律は「直接的に意識」(X,34)されているからである。しかし反省的行為主体は更に、相対性を有する個々の仮言的命法(格率)の個別性を捨象し、論理的に一般化された格率一般の普遍化を求めるような格率を、即ち「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」(X,35)(33)という格率を、自己に対して措定する。これは、個別的な道徳法則(道徳律)が個別的な仮言的命法の相対性の自覚によって直接意識されるのに対して、個別性を捨象され一般化した仮言的命法一般の相対性の自覚に基づいているが故に、個別的な道徳法則一般に妥当するところの、従ってそれらの根拠(Grund)を成しているところの「根本法則(Grundgesetz)」(X,35)である。
 ところで仮言的命法は、行為主体が自らにとって他なる経験的実質(目的)を、また自己の意志(Willkür)にとっては他なる上述の分析的命題を前提する限りにおいて成立するが、行為主体(実践理性)はその際、この分析的命題を前提するが故に「自己自身を超え出」(W,300)て、自己の意志(Willkür)にとっては他なる、しかし目的・手段の因果関係に関する自らの理論理性の自覚によって、自らの意志(Willkür)を限定する。即ち仮言的命法は、かかる三様の他者を媒介とする実践理性(行為主体)の自己限定であり、それ故意志の他律(Heteronomie)と称される。これに対して、上述の根本法則は、行為主体(理性)が一切の経験的実質を捨象し、従って自己の感性のみならず理論理性をも顧慮することなく自体的に、普遍的な仕方で自己限定するところに成立するものであり、従ってそれは意志の自律(Autonomie)と称される。ここでは理性(行為主体)は、自己の感性及び理論理性から独立して、経験的実質の分離・捨象によって成立する「理性的存在者の意欲という」純粋なüberindividuellな「概念」とindividuellな自らの「行為の意欲」とを「直接的に」(W,278 Anm.)綜合し、自らの意志をindividuellであると同時にüberindividuellな純粋意志として限定するが故に、「それだけで独立して実践的(für sich allein praktisch)」(X,36)(34)である。即ち純粋理性は純粋意志と同一であり、純粋意志として働く限りそれは実践理性である(35)。反省的行為主体は、かの根本法則を措定することを通じて、このことを自覚するのである(36)。ところで根本法則は、一切の経験的実質を、従って「意志のあらゆる主観的差異」、即ち個々の経験的実質と個々の行為主体との関係の個別性を捨象したところに成立する故、有限的であると無限的であるとを問わず「すべての理性的存在者」(X,37)に妥当すること、このことを反省的行為主体は今や自覚している。しかし同時に、「欲求や傾向性から全く自由ではありえぬ」という自己の「弱さ」(X,93)をも自覚している。それ故かの根本法則は、自らの経験的意志をも自覚している反省的行為主体にとっては「強制」(X,37)として、しかも上述のニ者を仮定するところに成立する仮言的命法とは異なり、行為者が命令された行為とは別の行為を選択(Kür)することがあるとしても成立する、無条件的(kategorisch)な命令として自覚される。即ち行為主体は、かの根本法則を定言的(kategorisch)命法であると自覚するのである。
 さて、カントは「この根本法則の意識」を差し当り「理性の事実」(X,36, 48)と名付けている。しかし行為主体がそれを意識するのは、既述の如く行為主体が反省的抽象作用に基づき自らをア・プリオリに実践的であると「考察する(betrachten)」(X,37, vgl. 36, 51)ことを通じてであった。そうであるならば、この根本法則は客観的妥当性という意味で「客観的実在性」(X,51)を有するにせよ、やはり単に論理的可能性を有するにすぎないであろう。このことは、個々の道徳律に関しても純粋意志に関しても言いうることである。実際カントは、「意志は……純粋意志としては、法則の単なる形式によって規定されると考えられ(gedacht)、この規定根拠はあらゆる格率の最高の制約であると見なされる(angesehen)」(X,35, vgl. 57――傍点筆者)とか、「純粋理性は実践的であり……うる」(X,48――傍点筆者)と言っている。また反省的行為主体は根本法則の自覚を通じて自らを「経験的領域とは全く別の領域に措く(setzen)」(X,39)(37)が、かかる自己措定も差し当っては単に論理的なものにすぎないであろう。それ故カントは、根本法則の「思想(Gedanken)」は「単に蓋然的(problematisch)」(V.36)であると言う。即ち根本法則の「現実性」(V,52――傍点筆者)――『純粋理性批判』の範疇表に従えば現存在――は、今なお問題的(problematisch)である。反省的行為主体は根本法則の自覚と共にこの問題性をも自覚しているのである。
 ところで、かの根本法則は単に論理的可能性を有するにすぎぬものではあるまい。行為者は「あることを為すべし(sollen)と自覚するが故に、それを為しうる(können)と判断する」(V.35, vgl, 105, 171)という主張において、Sollenの自覚が、普遍妥当性を有する根本法則(及び個々の道徳律)の論理的に可能的な客観的必然性の自覚を意味し、Könnenの自覚が、「思志の能力(Vermögen)」(V.52)の自覚ではなくて、道徳的絶対的価値を有する行為の論理的可能性の自覚を意味するにすぎないとするならば、道徳律やそれを自己立法する純粋意志は単なる思惟物(ens rationis)にすぎなくなるであろう。また定言的命法は、単に論理的に可能であるにすぎぬ行為を命ずる空虚な命令となるであろう。それ故、Könnenの自覚が論理的可能性の自覚にとどまらず、Wollen(意欲)の、「現実性」(V.53)を有する能力の自覚、即ち力学的実在性あるいは実在的可能性の自覚をも意味しなければならないのであれば、Sollenの自覚もまた根本法則(及び個々の道徳律)の論理的に可能的な客観的必然性以上のものを、即ちその現実性の自覚を意味しなければならないであろう。更に、道徳律は自由の「可能性」のみならず「現実性」(V.54)をも証明するが故に「自由の認識根拠(ratio cognoscendi)」(V, 4 Anm.)であると言われるが、道徳律(及び根本法則)が単に論理的可能性しか有さぬとするならば、このことは決して成立しえぬであろう。カントは、道徳律が論理的可能性のみならず現実性をも有することを、「道徳律は……純粋理性の事実として言わば与えられて (gegeben)いる」(V, 53――傍点筆者)と表現する。道徳律は、普遍妥当性という意味での客観的実在性を有しうるものとして考えられて(gedacht)いるのではなく、現実性という意味での客観的実在性を有するものとして与えられてgegeben)いるのである。即ちここで理性の事実と言われているものと先に言われていたものとは異なる。だが、道徳律がかく現実性を有することは、一体如何なる根拠に基づいているのであろうか。単に理性の事実と称して済ませることは許されないのではあるまいか。否、そもそも理性の事実とは何を言うのであろうか。
 哲学的理性は仮言的命法の相対性を自覚するが故に、一切の経験的実質を、またそれと個別的経験的意志との関係の個別性を捨象したが、そこに成立する純粋意志はindividuellであると同時にüberindividuellな性格を有するものであった。それ故この純粋意志の概念には、自己と自己をも含む理性的存在者一般との直接的綜合関係が含まれている。ところで道徳律に、従ってまた純粋意志に現実性を認めることは、理性的存在者の叡智的原因性に現実性を認めることを意味する。だが、そもそも理性的存在者の叡智的存在は現実性を有するのであろうか。即ち、純粋意志の概念に含まれている先の関係から生ずる問題であるが、自己及び自己以外の理性的存在者一般(他者一般)の叡智的存在は何らかの現実性を有するのであろうか。自己の認識能力(理論理性)に関して反省を遂行する哲学的理性は自己をIntelligenzであると自覚していた。即ち、思惟の純粋な自己活動性を知的に直接的に意識し、またそれに即して同時に自己の叡智的存在を「何か実在的なもの」として知的に直接的に意識していた。ところで思惟する存在者としての他我(有限的理性的存在者)は、カントに依れば、自己の叡智的存在を実在的(現実的)なものとして自覚している哲学的理性が、individuellな自己の叡智的存在の現実性の知的意識を、自己を超えて(über)、経験的実在性(現実性)を有する他の物に「転移(Übertragung)」(A347=B405)することによって初めて、他我として承認される。かく承認される限り、überindividuellな思惟する存在者としての他我一般もまた、自己の叡智的存在の現実性を自覚している。さて、自己の認識能力(理論理性)に関して反省を遂行する哲学的理性は、自己の欲求能力(実践理性)に関して反省を遂行する哲学的理性と、反省主体としては同一である(vgl.IV, 247, V, 100,131)。そうであるならば、後者もまた意志する存在者としての自己の叡智的存在の現実性を自覚しているはずである。ところで、思惟する存在者と意志する存在者との、理論理性と実践理性との同一性が哲学的理性(自我)の側に成立するならば、そして思惟する存在者としての他我が他我として承認されるならば、この同一性は他我の側においても成立しなければならないであろう。そうであるならば、überindividuellな意志する存在者としての他我一般もまた、自己の叡智的存在の現実性を自覚していることになるであろう。では、無限的理性的存在者(神)の場合はどうであろうか。無限的理性的存在者が思惟物(Gedankending)であり単なる論理的可能的存在者(物自体)である限り、また哲学的理性による先の承認が経験的実在性(現実性)を有する物(現象)に叡智的実在性(現実性)を承認することである限り、哲学的理性は、他我の場合の如き転移によって、それを経験的にも叡智的にも現実性を有するものとして承認することはできない。即ち、哲学的理性は自己と他我との関係との「類比(Analogie)」(V, 64)において、従って第二義的な意味において、無限的理性的存在者をもIntelligenzと称することはできようが、この場合のIntelligenzは自己の叡智的存在の現実性を決して自覚したりしてはいないのである。以上のことから明らかであるが、道徳律は、自己の叡智的存在の現実性を自覚している、従って自己を第一義的な意味においてIntelligenzであると自覚している、有限的理性的存在者に対してのみ現実性を有するのである。(実践的自由の現実的な主体に関してもこれと同一の事態が当然成立する)。また道徳律の現実性の根源的根拠は、哲学的理性が自己の叡智的存在の現実性を自覚していること、またその知的意識を転移することによって他の有限的理性的存在者の叡智的存在の現実性を一方的に承認することにある。哲学的理性はかかる一方的承認によって、単に論理的可能性を有するにすぎなかった道徳律という「思想」に現実性(実在性)を付与し、それを「実在化する(realisieren)」(V, 55)のである。そしてそれと同時に哲学的理性は、個別的経験的意志のかの個別性を捨象して道徳律を論理的に可能的なものとして自ら自己に対して措定し、更に自己の叡智的存在の現実性を根拠としてそれをかく実在化するが故に、理論理性に関する哲学的反省においては「何か実在的なもの」「何か実体的なもの」としか規定しえなかった自己の叡智的存在を、道徳的絶対的価値を現実に有する存在であると、今や自覚しているのである。即ち哲学的理性は、道徳律にかく現実性を付与することを通じて、自己をこの現実性を有する道徳律の「主体」(V, 96)であると自覚し、尊厳(Würde)という「我々自身の超感性的な現実存在(Existenz)の崇高性」を「感知している(spüren)」(V, 97――傍点筆者)のである(38)。ところで、理論理性に関する反省において内容的に無規定・空虚であった叡智的存在が、実践理性に関する反省において初めて、道徳的絶対的価値存在という内容的積極的親定即ち「意味(Bedeutung)」(V, 56)を獲得すること、このことは理論理性の根底には実践理性が存すること、理論の根底には実践が存し理性は根源的には実践理性であることを意味するであろう。そして、自らの叡智的存在の実在性あるいは事実性に関する、またその確実性に関する哲学的理性の自覚を純粋理性の事実と称することが許されるならば、これこそが「純粋理性の唯一の事実」(V, 36)であると言いうるであろう(39)。そして、かの実在化に基づかざるをえぬ道徳律の現実性・事実性に関しては、それがこの唯一の事実を根拠とする実在化に基づかざるをえぬ限り、「純粋理性の事実として言わば (gleichsam)与えられている」(傍点筆者)としか、やはり言いえないであろう(40)。
 さて、以上の議論はIntelligenzの叡智的存在の側面に関することである。だがカントのIntelligenz概念の特徴は、叡智的存在の知的意識と純粋な自己活動性の知的意識とが直接的に合一している点にあった。それ故、その知的作用の側面に関しても、以上の議論と同様のことが成立するはずである。
 それが単に論理可能性を有するにすぎないにせよ、また現実性を有するにせよ、道徳律は、先験的自由が論理的に成立しえないとすれば直ちに廃棄される(vgl. A534=B562)。即ち先験的自由は道徳律の論理的「存在根拠(ratio essendi)」(V, 4 Anm.)である。理論理性に関する反省を遂行した哲学的理性は、このことを既に自覚していた。だが実践理性に関する反省を遂行している哲学的理性は、道徳律が現実性を有することを今や自覚しているが故に、道徳律のこの現実性を根拠にして「自由の蓋然的(問題的)概念」に実在性(現実性)を付与し、またその実在性を「保証(Sicherung)」(V, 55)することによって、同時にその問題性を解決するのである。即ち現実性を有する「道徳律が、この法則が自己を拘束するものであると認識している存在者(哲学的理性――筆者付注)において、自由の現実性を」(V, 54)証明するのである。そしてその限りにおいて、哲学的理性は、現実性を有する道徳律が自由の現実性の「認識根拠」であることを自覚する。しかしそれと同時に哲学的理性は、逆に現実性を有する自由が道徳律の実在的「存在根拠」であることを自覚することになるであろう。だが、この後者の自覚は一体何を意味するのであろうか。既述の如く、理論理性に関する反省を遂行する哲学的理性は、自由の現実性も実在的可能性も主張しえず、先験的自由の論理的可能性を主張するにすぎなかったが、思惟という自己活動性を知的に直接的に意識していた。ところで思惟能力は、元来現象のみに制限されることはなく、感性的制約を超え、それから独立して物自体にまで及びうるものである。この独立性の故に、この自己活動性の知的意識は「ある種の自由の意識」と称されうるであろう。思惟のこの自由は、感性的制約からの独立性という点では、なるほど先験的自由と同一の構造を有している。とはいえ、前者は実在的可能性あるいは力学的実在性を有しており、その点で論理的可能性しか有さぬ後者と決定的に異なっている。それというのも思惟は現実的能力だからである。ところで哲学的理性は、自らの思惟の自由を自覚している限り、この自覚を根拠として、従って全面的にではないにせよ、先験的自由に実在性(現実性)を付与しうるであろう。しかし思惟の自由は、力学的実在性を有するとはいえ、かの独立性以外には何一つ内容的規定を有さず、従って空虚である。だが道徳律の現実性を自覚するに至った哲学的理性は、この空虚な自由の意識に対して、自律的自己限定(Selbstbestimmung)という「意味」、即ち道徳律を自ら措定し、自らそれに従うことを自己の道徳的使命(Bestimmung)とするという「意味」を、内容的「積極的規定」(V, 54)として付与し、その空虚さを実践的自由として「補完」「充実」することを通じて、自らを実践的自由の現実的な主体であると自覚するのである。(当然のことであるが、理論理性と実践理性との関係に関する上述の事態はここにも現れる)。道徳律の実在的「存在根拠」に関する上述の自覚は、哲学的理性が、論理的可能性を有するにすぎず空虚であった自由を、現実的で内容の充実した実践的自由として自覚すること、このことを意味しているのである。
 ところでカントは、道徳律及び実践的自由は「客観的なそして単に実践的であるにすぎないとはいえ、それにもかかわらず疑いえない実在性(objektive und, obgleich nur praktische, dennoch unbezweifelte Realität)」(V, 55)を有すると言う。確かに道徳律も実践的自由の概念も、論理的にはあらゆる理性的存在者に対して必当然的な[疑いのない](apodiktisch)妥当性(実在性)を有している。だが、「単に実践的であるにすぎない実在性」を有するとは、如何なる意味であろうか。また「疑いえない実在性」とは、先のことだけを意味しているのであろうか。理論理性の領域において、自己の叡智的存在に関する哲学的理性の直接的意識は、「純粋に知的」であるとはいえ、「何らかの経験的表象なくしては『我思う』という働きはやはり生じないであろう」(B423 Anm.)と言われる如く、経験的表象を限定する働きに即して成立する「綜合の意識」(B133, vgl. B158 Anm.)であった。即ち、それは経験的表象を綜合統一する作用から実在的な意味において独立しては成立しえぬものであった。そうであるならば、実践理性の領域においてもこれと同様のことが成立するであろう。道徳律の論理的可能性の意識は、経験的格率を措定する働き、即ち経験的意志の働きに即して成立するものであった。従って欲求の経験的実質の、意志の規定根拠からの分離・捨象は単に論理的なものにすぎなかったし、また、道徳律は経験的意志に関する具体的反省過程を反省する限り「直接的に意識」されるのであった。だが「内在的(immanent)」と「超越的(transzendent)」(V, 54)との限界に立つ哲学的理性は、自己の感性的存在の現実性と同時に自己の叡智的存在の現実性を自覚しているが故に、道徳律及び実践的自由の現実性(実在性)を保証することができた。その限りにおいて、現実性を有する道徳律及び実践的自由は経験的意志の働きから実在的な意味において独立している。ところで哲学的理性は、この現実性の保証に際して、überindividuellな「理性的存在者の意欲という概念」とindividuellな自らの「行為の意欲」とを「直接的に」綜合し、自らの意志を自ら限定するのであった。そうであるならば、道徳律及び実践的自由の現実性(実在性)は、この直接的綜合による自律的自己限定という実践的な働きに即して成立するものである。従って、道徳律及び実践的自由が「単に実践的であるにすぎない実在性(現実性)」を有すると言われる時、それはこのことを意味しているのである。また、道徳律及び実践的自由の現実性は、自己の叡智的存在の現実性に関する哲学的理性の自覚、即ち純粋理性の事実性の自覚を根源的根拠としているが故に、それらは「疑いえない実在性(現実性)」を有すると言われるのである。



 以上の如く、道徳律及び実践的自由の現実性は、哲学的理性のIntelligenzたることの自覚、まさにそれこそが純粋理性(=Intelligenz)の唯一の事実と称されるべき、自己の叡智的存在の事実性の自覚に基づいている。だが哲学的理性の上述の実践的反省には問題がないわけではない。
 先ず第一に、哲学的理性の自己同一性に関する問題がある。(イ)先に筆者は、理論理性に関する反省主体と実践理性に関する反省主体との同一性を根拠として、また自己の叡智的存在の現実性に関する前者の自覚を根拠として、それに関する後者の自覚を導出せんとした。しかしむしろ逆に、叡智的な現実存在の自覚の同一性を根拠として初めて、両反省主体の、また理論理性と実践理性との同一性の自覚は成立するのではないだろうか。そうでないとすれば、哲学的理性の自己同一性は一体如何なる根拠に基づいているのであろうか。だが、もしそうであるとしても、哲学的理性が実践理性の領域においても自己の叡智的な現実存在を自覚していることが、理論理性の領域とは無関係に主張されねばならないが、それは如何にして主張されるのであろうか。(ロ)更に、叡智的な現実存在の自覚の同一性から理論理性及び実践理性としての哲学的理性の自己同一性を仮に導出しうるとしても、なお問題は残る。この自己同一性の自覚は、それが自己の叡智的な現実存在を自覚している限りにおいてのみ成立するにすぎない。ところで、自己同一的であるとはいえ、哲学的理性は理論理性及び実践理性として差異性をも有している。既述の如く、理論理性の根底には実践理性が存しているのであるが、また両理性は「適用においてのみ区別され」(IV, 247) ると言われるが、この適用に基づく差異性は一体如何なる適用から、また如何なる根拠に基づいて生ずるのであろうか。カントは理論理


性と実践理性との同一性を最初から前提し、そしてそれらを別々に論じているが、両者の関係についてはカント自身
も明確にしえていない。それは、「共通の原理」から理論理性と実践理性とを「統一」し、「純粋な理性能力全体」
の「完全に体系的な統一性」を未だ「洞察」するには至っていないという、カント自身の告白から明らかである (vgl. IV, 247, V, 100)
。我々はここにカントの批判哲学の一つの重大なアポリアを認めることができよう。
第二に、カント(哲学的理性)の実践的反省のindividuellな性格に関する問題がある。既述の如く、自己の叡智
的な現実存在に関する哲学的理性の知的直接的意識はindividuellな「この私」の意識であった。勿論哲学的理性は、
他の物にそれを転移することによってuberindividuellな有限的理性的存在者(他我)一般を自己と同一のIntelligenz
であると承認しうるのであったが、その実践的反省にはなおindividuell な性格が残存している。「カントは
快楽主義の原理を利己主義と同一視している。幸福を求めることと自己自身の幸福を求めることが……暗黙のうちに

同一視されている」(41)(傍点筆者)とL・W・ベックが述べている様に、カントはその実践的反省の過程において、叡
智的存在の場合とは異なり、自己の感性的存在の個別性に固執している。それ故、小論では触れることができなかっ
たが、幸福であるに値することとしての徳と幸福との実在的な綜合続一たる最高善の概念もまたindividuellな性格
を有している(vgl. V, 120ff.)。即ち、『単なる理性の限界内における宗教』において主張されている「共同的な
(gemeinschaftlich)善」(VI, 242)としての最高善の問題は、カント自身にとって未だ明確なものにはなっていな
い。それ故、この問題はカントの将来の内面的発展にとって一つの新たな課題を形成することになるのである。



(1)カントの著作からの引用はカッシーラー版 (Immanuel Kants Werke, hrsg. von E. Cassirer)に基づく。『純粋理性批判』からの引用のみ巻数を略し、第一版をA、第二版をBとしてその頁数を本文中に記した。他の著作からの引用は、巻数をローマ数字で、頁数をアラビア数字で表わし本文中に記した。
(2)『純粋理性批判』におけるIntelligenz概念の意義に関しては、『哲学論叢」第十号及び第十四号(大阪大学文学部哲学哲学史第二講座発行、昭和五十七年、五十九年)所載の拙論「カントの理性批判と批判理性」及び「カントの先験的弁証論」で既に論じている。参照していただければ幸いである。
(3)H.Heimsoeth, Persönlichkeitsbewußtsein und Ding an sich in der Kantischen Philosophie, Kant-Studien, Ergänzungshefte 71, Bouvier, 1971, S. 251.
(4)先験的自由のニつの意味に関しては前掲の拙論「カントの先験的弁証論」参照。
(5)カントは力学的(dynamisch)という語を数学的(mathematisch)という語と対にして用いる。後者が「直観にのみ関係する」場合の用語であるのに対して、前者は「現象一般の現存在」(A160=B199, vgl. B110) にも関係する場合の用語である。ここでは叡智的であるとはいえ、実在的な自己の現存在を自覚しつつ自己活動することが問題となっているのだから、その自己活動性は、先の用法との類比的な意味で力学的実在性を有すると言いうる。このような自己活動性を、カントは端的に「悟性と意志」(A627=B655)と言う。また、通常カントは実在性という語を大旨妥当性という意味で用いるが、この場合は異なり、後述する実践的実在性の場合と同様に現実性を意味する。即ち力学的実在性及び実践的実在性という語は、自己の叡智的な現実存在に即した、悟性及び意志の働き(能力)の現実性を意味する。なお 『純粋理性批判』における力学的実在性という語の用例はこの一例のみである。Vgl. H. Heimsoeth, Transzendentale Dialektik, Walter de Gruyter, 3. Teil, 1969, S. 545.
(6)小論では、『実践理性批判』「分析論」第二章「純粋実践理性の対象の概念について」及び第三章「純粋実践理性の動機について」において問題となる、純粋実践理性と悟性及び感性との関係に関する実践的反省の過程、及び「弁証論」における実践的反省については論じない。別の機会に論じたい。
(7)Vgl. A787=B815, A744=B772, IV, 8.
(8)Vgl. IV, 270, 300, 308, 318, V, 62 usw. Vgl. auch L. W. Beck, A Commentary on Kant's "Critique of Practlcal Reason.",The University of Chicago Press, 1960, pp. 37-40, 75-76.
(9)Vgl. IV, 251, 255, 289, v, 28, 29.
(10)Vgl. L. W. Beck, Apodictic Imperatives in the "Studies in the Philosophy of Kant.", The Bobbs-Merrill Company.Inc., 1965, pp. 177-199.
(11)Kants gesammelte Schriften, hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaft, Bd. XW, S. 448, Refl. 1008.
(12)Kants gesammelte Schriften, Bd. XV, S. 448, Refl. 1008.
(13)Kants gesammelte Schriften, Bd. XIX, S. 228, Refl. 7020.
(14)L. W. Beck, A commentary on Kant's "Critique of Practical Reason.", p. 81.
(15)また、推論が省略された形で為されることも、行為者が推論を明確に自覚していないことも、実際には決して稀ではない。
Vgl. B. Aune, Kant's Theory of Morals, Princeton University Press, 1979, pp. 12-16.
(16)Vgl. V, 16, 22, 23, 43, 50, 52, 64, 73 usw.
(17)L. W. Beck, ibid., p. 92.
(18)純粋実践理性の場合も考えられる。
(19)L. W. Beck, ibid., p, 85.
(20)両命法の形式の転換に関しては、小西国夫著『カントの実践哲学』(創文社、昭和五十六年)に教えられた。ここに記して謝意を表したい。
(21)Vgl. B. Aune, ibid., p. 13.
(22)Vgl. IV, 255, V, 81, 135, 159.
(23)技巧的命法におけるSollenという語は、上述の因果結合の必然性の自覚を表現すると同時に、この分析的命題の妥当性を自己のWillkürに対して仮定せざるをえないという必然性の自覚をも表現している。
(24)カントは、格率それ自身の論理的自己矛盾と意欲の実在的対立という観点から、完全義務と不完全義務とを区別する。
(25)Vgl. IV, 258, 279, 304.
(26)Vgl. IV, 257, 322, V, 34.
(27)Vgl. IV, 292, 296, 300, 248, 256, 261, usw.
(28)absondern (A21=B35, A22=B36), abtrennen (A22=B36), abstrahieren (A27=B43, A32=B49), aufheben (A31=B46), weglassen (B5), wegnehmen (A31=B46), wegfallen (A31=B46), isolieren (A22=B36, A62=B87, A305=B362)usw.
(29)この点に関して、「私は友人達に快く尽すが、しかし悲しいかな私はそれを快適の念をもってするのである。……」というシラーのかの有名な風刺詩が、冗談か真面目かは別として、当を得ていないことは明らかである。Vgl. H. J. Paton, The Moral Law, Hutchinson, 1948, p.19., S. D. Ross, Kants Ethical Theory, Oxford University Press, 1954, pp. 16-17.
(30)Vgl. V, 105, 106, 110.
(31)Vgl.V, 34, 49, 54.
(32)V, 33のanhebenという語、 V, 52のanfangenという語等を参照。
(33)Vgl. IV, 279, 295, 296, 297.
(34)Vgl. IV, 268, 285.
(35)Vgl. IV, 270, 300, 308, 318, V, 62.
(36)小論では触れる余裕はないが、この純粋意志が善意志であることの自覚は、純粋実践理性と悟性との関係に関する哲学的反省を通じて初めて成立するものである。前註(6)参照。
(37)setzen, versetzen, verlegenという語は、IV, 313, 314, 317, 318, V, 48, 50, 55, 56に見られる。
(38)この語(spüren)は、カント本来の意味における認識(erkennen)を意味するものでは決してなく、神的知的直観とは区別された意味における知的直観を意味するものである。カントはかかる知的直観をfühlen (IV, 309), sich bewußtsein (IV, 321, V, 48, vgl. V, 108), glauben (IV, 319) といった語でも表現している。なお理論理性の領域においては、何れも本来の意味とは異なるが、Wahrnehmung(A343=B401, B422 Anm., B423 Anm.), erkennen(A546=B574), Gefühl(IV, 87 Anm.)といった語が用いられている。前掲の拙論「カントの理性批判と批判理性」参照。
(39)カント自身は実際には、奇妙な表現ではあるが、道徳律が与えられて(gegeben)いると見なさ(ansehen)れることを「純粋理性の唯一の事実」であると言っており、筆者の解釈とは一致していない。
(40)gleichsamの付加した例としては、他にV, 62, 100, 114等が挙げられる。
(41)L. W. Beck, ibid., p. 100.

(研修生)

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