カントの「先験的弁証論」
    ――先験的反省とIntelligenzたることの自覚――

                                           山本博史

 カントの「純粋理性批判」は、哲学的理性による理性の自己批判を叙述したものである。哲学的理性は先験的反省を通じて自己(人間理性)を批判する。小論の意図は、哲学的理性の先験的反省という観点から「先験的弁証論」を考察し、哲学的理性が無制約者に関する先験的反省を行なわざるを得ない根拠は、また哲学的理性が二律背反を解決し実践理性の領域へと移行せさるを得ない根拠は、そのIntelligenzたることの自覚に存するということを、明らかにする点にある。

   一 先験的反省と根拠の問題の自覚

 カントは、形式的「論理的能力」としての理性と実在的「先験的能力」としての理性とを包括する「より高次な概念」としての「理性一般」を、「原理の能力」(A299=B355f.)(1)と名付ける。理性一般は、多様な悟性認識を「推論の素材」とし、「制約の制約」へと「前三段論法」を連鎖させて進み、それを「最小眼の原理(普遍的制約)」に帰することを自己の「論理的格率」(A307=B364)とする。それ故、数学の公理や全称命題も「相対的」な意味では原理と称され得るが、「端的に」(A301=B358)原理と称される純粋理性の原理とは、概念からの純粋な綜合的認識のことである。かかる原理は、「もしh被制約者が与えられているならば、相互に従属せしめられている諸制約の全系列、この系列は従ってそれ自身無制約的であるが、この系列もまた与えられている」(A307f.=B364)ということを想定する。この「一つの与えられた被制約者に対する諸制約の総体性の概念」(A322=B379)が、或いはこの総体性を可能ならしめるのは無制約者である故、無制約者の概念が純粋理性概念、即ち先験的理念である。先験的理念は、「分割的統一(die distributive Einheit)」たる悟性統一を、「虚焦点(focus immaginarius)」(A644=B672)としてのそれへと「漸近的に」(A663=B691)接近させつつ統制すべく人間理性に課されているところの「推論された概念」(A333=B390)である。また先験的理念は無制約者の表象である眼り、「それに対応する如何なる対象も感官に与えられ得ない」「極大の概念」(A327=B383f.)である。しかし、それを要求することが人間理性に本性的に課されているが故に、先験的理念は「先験的(主観的)実在性」(A339=B397)を有する。即ち、それは課題としては人間理性にとって「内在的」「土着的」(A643=B671)である。とはいえ人間理性が、課題として「課せられている(aufgegeben)」にすぎない先験的理念を「与えられている(gegeben))」と臆断し(Vgl.A497f.=B526)、その主観的実在性を客観的実在性にすり換え、それを客観的構成的に使用するならば、それは有限(現象)と無限(物自体)との間の「深淵(Abgrund)」(A575=B603Anm.)或いは「裂け目(Kluft)」(A629=B657) を「理念の翼に乗って」(A630=B658)「飛び越える(uberfliegen)」(A296=B352)ことになる。即ち、かくすり換えられることによって先験的理念は「飛翔的(uberfliegend)」「超験的(transzendent)」(A643=B671)となり、先験的仮象を生ぜしめることになる。先験的仮象は「理性の本性に起因する」「不可避な」(A339=B397)仮象であるが、哲学的理性はこの仮象を暴露することにより「先験的すり換え(transzendentale Subreption)」(A509=B537)に基づく「思弁的」(A634=B662)認識を批判するのである(Vgl.A297f.=B354)。
 さて、カントは表象の有する三つの関係、(@)「主観に対する関係」(A)「現象における客観の多様に対する関係」(B)「あらゆる物一般に対する関係」に基づいて次の三理念を提示する。(@)「思惟する主観の絶対的統一」を含む「魂の理念」(A)「現象の諸制約の系列の絶対的統一」を含む「世界の理念」(B)「思惟一般のあらゆる対象の制約の絶対的統一」を含む「神の理念」がそれであるが、カントはこれらを形式論理学における「三推論様式」(A333f.=B390f.)に関係させる。即ち、魂の理念は先験的定言推論、世界の理念は先験的仮言推論、神の理念は先験的選言推論の形態をとる。カントは「先験的分析論」において、判断における悟性の論理的機能から範疇を形而上学的に演繹したが、ここではそれと「類比的に」(A299=B356)(2)推論における理性の論理的機能から三理念を形而上学的に演繹せんとしているのである。先験的理念は、既述の如く理念である限りそれに対応する可能的経険の対象を有さず、従って先験的理念に関しては「客観的演繹」(A336=B393)は勿論成立し得ない。しかし、カントが主張する如く理性の論理的使用と先験的使用との間に「自然な関係」(A333=B390)が成立しているとすれば、それを根拠にして先験的理念を「主観的に導出すること」(A336=B393) は可能であろう(3)。
 ところで、魂・世界・神の三理念が特殊的形而上学(metaphysica specialis)の、従って「先験的弁証論」の主題となるのは、そもそも何故にであろうか。筆者はそれを哲学的理性の先験的反省という観点から考察するが、そのためには「先験的分析論」までの先験的反省の過程を今一度概観しておく必要があろう(4)。哲学的理性は先験的反省的思惟において批判する理性と批判される理性とに分裂する。批判理性は、批判される理性たる人間理性の認識諸要素、即ち感性と悟性とを孤立せしめ、両要素のア・プリオリな形式を分離する。かかる孤立化或いは分離は批判理性の反省的抽象作用を意味するものである。さて、(@)「先験的感性論」において批判理性は感性を孤立化せしめ自体的に考察し、空間・時間を感性的直観一般の純粋形式として直覚的に定立する。そして批判理性は、感性的所与と人間感性一段との関係に関係する先験的反省を通じて現象と物自体との「先験的区別」(A45=B62)を措定する。(A)「先験的分析論」においても批判理性は悟性を自体的に考察し、悟性機能の根源的根拠を純粋統覚に見出す。ところで、悟性の孤立化が可能であるためには、その根拠たる純粋統覚の定立が可能でなければならないが、純粋統覚に関する思惟は「絶えざる循環」(A346=B404)に陥る。だが批判理性は、先験的反省の主体として自ら自発的に働き自己を観察しつつ、その働きに即して、またその働きを直接的に意識し、また自己の現存在を「或る実在的なもの」(B423Anm.)として直接的に意識している。それ故、批判理性はかかる「Intelligenz」(B158Anm.)として働きつつ純粋統覚を直覚的に定立するのである。そして批判理性は、純粋統覚をかく自体的に考察する限り、現象と物自体との先験的区別を捨象し論理的に一般化した物、即ち物一般(Dinge uberhaupt)を純粋統覚の対象として措定する。(B)さて現象は、一者性を有する純粋統覚への関係なくして自体的に考察する限り、「我々にとっては無」(A191=B236)である。純粋統覚もまた、感性的表象への関係なくして考察する眼り、「あらゆる表象の内で最も貧しい表象」(B408)である。両者は孤立したままでは認識を成立せしめ得ず、従って綜合されねばならない。ところで、現象は「我々の表象の単なる戯れ」(A101)にすぎない。それ故、現象の綜合的統一を、従って経験的実在性を保証するものが客観の側に存するのでなければならない。「表象の対象」として、しかも「或るもの一般=X」(A104)として現象に「常に一様に」(A109, Vgl. A253)対応する先験的対象がそれである。さて、「統覚の統一の相関者」(A250)として先験的対象を措定するのは感性ではない。現象が現象ならざる根拠を指示するということは、反省的思惟において初めて生ずる事態であり、従って感性の関知し得ぬことだからである。さりとて純粋統覚が先験的対象を措定するのでもない。純粋統覚は、それが純粋である限り、感性に関するかかる先験的反省には関知し得ぬからである。先験的対象を純粋統覚の相関者として措定するのは、自らが感性及び悟性として働くことを自明のこととしており、Inteligenzとして純粋統覚を直覚的に定立する批判理性である。(C)さて、抽象的自己意識たる純粋統覚は、思惟内容を感性的表象に「制限される」ことによって具体的自己意識として「実現する」(A146=B186)。認識においてかく実現した具体的自覚たる先験的統覚は、一者性を欠く断片的経験的統覚とも具体的内容を欠く純粋統覚とも異なり、自らが感性及び悟性として働くことを自覚している。即ち先験的統覚は、自らの純粋統覚の対象である物一般を現象体(phaenomenon)と叡智体(noumenon)とに区別して思惟するが、消極的にのみ解されるべき叡智体を「蓋然的(problematisch)」概念として措定することによって自らの「感性の越権」(A255=B310f.)を制限すると共に、自らの悟性の限界をも自覚しているのである。さて、先験的統覚が自らの悟性の限界を自覚するとは、自らの悟性が「一つの自然」(A216=B263)を構成するためには感性的所与を(先験的には時間を)彷徨せざるを得ないということ、即ち自らの悟性が比量的(diskursiv)たらざるを得ないということを自覚することを意味する。そして先験的統覚は、かく「限界概念」(A254=B310, Vgl. A256=B312)を措定することを通じて批判理性と合一するのである。(D)このことは批判理性の側から言えば、あらゆる表象が感性及び悟性において占める「先験的場所」(A268=B324)を限定することを通じて、批判理性が自らを、認識可能なものと認識不可能なものとを分かつ理性、即ち「批判理性」(A270=B326) であると自覚することを意味する。(E)先験的反省的思惟において批判する理性と批判される理性とに分裂していた哲学的理性は、ここにおいて一者性を回復する。
 さて、感性及び悟性に関するかかる先験的反省によって、我々の感性が物自体にまでは及ばぬことが、また我々の悟性がその思惟内容を感性的所与に制限される限りにおいて自然の「創始者」(B127)たることが自覚された。そしてその限りにおいて、理性の自己認識が部分的にではあるが成立している。だが、哲学的理性が先験的反省の対象とすべき問題がなお残っている。消極的意味に解された叡智体は、経験的実在性を有するものでは勿論ないが、論理的には無矛盾な可能的概念である。それ故、叡智体は経験的実在性以外の何らかの実在性を有しはしないかということが問題的(problematisch)となる。叡智体が「感性的直観の制約から全く解放された対象が存在しはしないだろうかという課題」(A287=B344)を示す表象であると言われるのは、この意味においてである。つまり、かの具体的自覚においては現象界の限界の自覚と共に、この問題性・課題性もまた自覚されているのである。ところで、消極的意味に解された叡智体は、先験的統覚が感性的直観の対象ならざる物として措定したものである故、批判理性が現象の先験的根拠として措定した先験的対象とは区別される。しかし、先験的対象を「その表象が感性的でないが故に叡智体と称する」(A288=B345)ことは許される、とカントは言う。叡智体が課題表象である限り、このことは先験的対象の根拠としての課題性を意味するのでなければならない。具体的自覚に到達した先験的統覚は、批判理性と合一することにおいて、批判理性が措定した先験的対象を、今や自らが自らの純粋統覚の相関者として措定したものであると自覚している。だが先験的統覚は、更にこの先験的対象をも叡智体として表象することによって、自らが措定した先験的対象が現象の客観の側における先験的根拠としてはなお問題を残していることをも自覚しているのである。ところで、「対象が必然的たらしめる統一は、表象の多様を綜合する際の意識の形式的統一にほかならない」(A105)と言われるように、先験的対象は言わば客観の側に投影された純粋統覚にほかならない。それ故、先験的対象の根拠としての問題性は、逆にその相関者である純粋統覚が、現象の綜合的統一の主観の側における先験的根拠としてはなお問題を残していることを意味するであろう。先験的統覚は自らがIntelligenzたることを今や自覚している。即ち、自らの純粋統覚の「無制約的な」(A401)働きを、またこの働きに即して自らの現存在を直覚的に意識している。とはいえ、そこで意識されている現存在はunbestimmtなものにすぎないが故に、この現存在をかかる無制約的な働きの無制約的な基体(Subjectum)として、しかも感性的直観の制約から独立して bestimmenし得るかどうかが問題となる。即ち先験的統覚は、感性的直観の多様を綜合的に統一する先験的根拠である縦粋統覚が単に形式的・機能的な無制約的根拠にすぎないことを自覚しているが故に、その実在的・実体的な無制約的根拠を更に問わねばならないのである。ここに先験的統覚(哲学的理性)が魂の理念を問題とする根拠がある。
 ところで先験的統覚はまた、空間・時間という直観形式を直覚的に定立する限り、自らの経験的直観表象(現象)が何れもこの感性形式によって「全く必然的に」(A160=B199)、しかも量的に制約されていることを自覚している。しかし、個々の現象の量はそれ自体偶然的である故に、それを必然化すべく先験的統覚は、感性形式によって量的に制約されている個々の現象の量的に無制約な根拠を「数学的無制約者」(A420=B448)として求めざるを得ない。先験的統覚はまた、「可能的経験的直観の客観の現存在の制約は、それ自体偶然的なものにすぎない」(A166=B199)ということをも自覚している。それ故先験的統覚は、現象の現存在に関する偶然性を必然化すべく、被制約的・偶然的な現象の現存在の必然的・無制約的根拠として「力学的無制約者」(A420=B448)を求めざるを得ない。ここに先験的統覚が世界の理念を問題とする根拠がある。更に、この世界の理念を「介して」(A337=B394, Vgl.A408=B435f.)、また更にそれを超えることによって神の理念は問題化する。先験的統覚は既述の如く自らをIntelligenzとして自覚しているが、Intelligenzが結合すべき多様に関しては、それが内官と名付ける制限的な制約に従属している」(A158Anm.)ことをも自覚している。即ち先験的統覚は、自らの純粋統覚が所与表象を汎通的に限定する働きにおいて無制約的であることを自覚すると同時に、自らの感性が所与質料を前提せざるを得ぬこと、即ち質料に関する感性の被制約性(受動性)をも自覚しているのである。つまり、自らを「受動的主体」(B153)であると自覚しているのである。しかし、この受動的主体の自覚とは何を意味するのであろうか。一つの自然は先験的統覚によって認識される限り可能的には汎通的必然性を有する。だが、先験的統覚が認識の「質料的制約」(A218=B266――傍点筆者)たる感性的所与に関する自らの被制約性を自覚している限り、自然の汎通的必然性は「汎通的偶然性」(A562=B590)へと転落するであろう。それ故、先験的統覚はかかる「質料の偶然性」(A627=B655)を、従ってまた自然の汎通的偶然性を必然化することを課題として自らに課すのである。即ち先験的統覚は、質料に関するこの被制約性を超えている(従って自らを超えている)ような無制約的存在者を、思惟可能な一切のもの(物一般)の「質料的制約」(A576=B604――傍点筆者)を自らの理想として要求せざるを得ないのである。先験的統覚が世界全体の質料的・無制約的根拠として神を問題とするのは、他の理念の場合と同様、先験的統覚が自らの感性の質料に関する被制約性を自覚しているからである。
 以上の如く、三理念は何れも先験的統覚(哲学的理性)が無制約的な根拠の問題を自覚することにおいて初めて主題的となるのである。ところで、根拠は常に或るものの根拠であり、根拠と根拠づけられるものとの間には一つの関係が成立する。(例えば魂の理念に関して言えば、合理的心理学は思惟内容とその担い手との関係を属性と実体性との関係として把握せんとする)。それ故、哲学的理性は根拠の問題を自覚すると同時に、根拠と根拠づけられるものとの関係を関係の範疇でもって思惟するのである。さて、無制約者は「あらゆる理性概念の共通の名称」(A324=B380, Vgl.A322=B379)であるとカントは言う。そうであるならば、理性の先験的使用と論理的使用との間には自然的関係が成立している故に、三理念は形式論理学における三推論形態から主観的に導出されるとのカントの説明は、如何にも不自然なものであろう。むしろ、元来唯一の無制約者(無制約的根拠)の概念と関係の範疇とからカントは三理念を導出しているのである(6)。哲学的理性が無制約的根拠を三つの関係の範疇でもって把握せんとするが故に、それらの先験的推論の大前提は定言・仮言・選言判断を形成し、従ってそれらの推論は定言・仮言・選言推論を形成するのである。
 哲学的理性は今やかかる根拠の問題を自覚しているが故に、自らの感性及び悟性を孤立せしめて考察したのと同様に理性を「孤立せしめ」(A305=B362)、そこに思弁的認識が成立するか否かを考察しなければならない。即ち「先験的弁証論」は、「理性自体は、純粋理性はア・プリオリに綜合的原則及び規則を含むか否か」(A306=B363――傍点筆者)を問題とするのである。哲学的理性はこの先験的反省においても再び批判理性と批判される理性(狭義)とに分裂するが、一者性が再び回復された時に初めて理性の自己認識は全き意味において成立し、その意味もまた明らかになるであろう。

   二 弁証と理性の自己分裂

 三理念の先験的推論は以下の如く示される。

魂の理念の先験的推論
大前提 「主語としてより外には思惟され得ないものは、また主語としてより外には存在せず、従って実体である。」
小前提 「さて、思惟する存在者は、単にかかるものとして考察されるならば、主語としてより外には思惟され得ない。」
結論 「故に、それは単にかかるものとしてのみ、即ち実体としてのみ存在する。」(B410, vgl.A348)

世界の理念の先験的推論
大前提 もし被制約者が与えられているならば、制約の系列の絶対的総体性たる無制約者もまた与えられている。
小前提 さて、感官の諸対象は被制約的なるものとして与えられている。
結論 故に、かの無制約者もまた与えられている。(Vgl.A409=B436, A497=B525)

神の理念の先験的推論(7)
大前提 神は全実在性を有するか、個々の実在性を有するかである。
小前提 さて、神は個々の実在性を有するものではない。
結論 故に、神は全実在性を有する。即ち、神は存在する。

 さて、これらの先験的推論は何れも「媒語二義の誤謬推論 (sophisma figurae dictionis)」(A402, B411) である。理性推論は大前提における普遍と小前提における個別とを両前提に共通する、従って一義的な媒語を介して間接的に綜合し結論するものである。しかるに、魂の理念の推論は媒語であるSubjektを大前提では物一般の意味に、小前提では現象界における思惟の恒常的な論理的主語の意味に解している。世界の理念の推論も媒語である被制約者を大前提では範疇の先験的意味において、小前提では範疇の経験的意味において解している。神の理念の推論も媒語である個々の実在性を大前提では範疇の先験的意味において、小前提では範疇の経験的意味において解している。だが媒語はかく二義的に解される眼り媒語としての機能を果し得ず、推論は誤謬推論たらざるを得ない。それ故、上述の先験的推論が成立すると理性が臆断する場合、理性は媒議を二義的であるにもかかわらず一義的に解している。即ち、理性は媒語の一義性を臆断することによって、大前提の普遍(物自体)と小前提の個別(現象)とを結論において 「直接的に」(A733=B761, A736=B764)綜合しているのである。純粋理性による物自体(無限)と現象(有限)とのこの直接的綜合こそカントの言う「弁証」の意味である。
 ところで、元来二義的な嫌語を一義的と臆断するとは、現象と物自体との先験的区別を無視し、両者の間に連続性を認め、両者を混淆することを意味する。その際、混淆による有限と無限との直接的綜合には次の二つの立場が可能である。(@)物自体は、それを連続的に縮小すれば現象に到達すると臆断する立場と(A)現象は、それを連続的に拡大すれば物自体に到達すると臆断する立場との二つである。前者は感性的表象を「知性化」(A271=B327)し、それを悟性の、従って物自体の「混乱せる表象」(A43=B60)であると解する立場である。即ち「現象を物自体であると」(A264=B320)解する大陸合理論の立場である。後者は「悟性概念を概念発生論(Noogonie)の体系に従って……ことごとく感性化する、即ちそれを経験的或いは抽象的反省概念にほかならぬと称する」(A271=B327)立場である。即ち物自体を現象であるとする英国経験論の立場である。理性はこの二つの立場をとるが、それに応じて同一の先験的推論から以下に示す如き二つの相反する結論を得る。それ故、弁証が無制約者と被制約者とのかかる直接的綜合である限り、純粋理性は何れの理念に関しても「自己分裂する(sich mit sich selbst zu entzweien)」(A461=B489) のでなければならない。即ち、弁証は常に二律背反構造を示し、従って先験的仮象は常に「理性を分裂せしめる仮象」(A516=B544)でなければならない。ところで、後述する如くカントは二律背反を世界の理念に限定してはいるが、各理念に関する二律背反を具体的に示せば以下の如きものとなるであろう(8)。

魂の理念に関する二律背反

定立(唯心論)
(関係)魂は思惟実体である。
(質)魂は単純体である。
(量)魂は単一である。
(様相)魂は不死である。

反定立(唯物論)
魂は経験的実体である。
魂は複合体である。
魂は数多である。
魂は不死ならず。

世界の理念に関する二律背反

定立(プラトン主義)
(量)世界は時間的空間的に限界を有する。
(質)世界における一切のものは単純体より成る。
(関係)世界には自由による原因性あり。
(様相)世界原因の系列において必然的存在者あり。

反定立(エピクロス主義)
世界は時間的空間的に無限である。
世界には単純体は存せず、一切は複合体である。
世界には自由は存せず、一切は自然法則に従う。
世界原因の系列において必然的なるものは存せず、一切は偶然的である。

神の理念に関する二律背反

定立(有神論)
(量)神は一にして全である。
(質)神は単納体の単純体である。
(関係)神の思惟は即ち創造である。
(様相)神は不死なる必然的存在者である。

反定立(無神論)

 ところで、カントは「心理学的及び神学的理念は二律背反といったものを全く含まない」(A603=B701)と言い、二律背反を世界の理念にのみ眼っている。例えばカントは、魂の理念に関しては唯心論の立場が「単に一面的な仮象」(9)として生ずるのみで、唯物論の立場を主張する仮象が理性概念から少しも生じないのは「奇妙である」(A406=B433)と言う。神の理念に関しても、無神論は「理性の純粋な思弁によっては」(A641=B699)不可能であると言う。だが、既述の如く弁証が物自体と現象との混淆に起因する限り、それは原理的には常に二律背反構造を示すはずであった。それ故、カントは一方では二律背反を世界の理念に限りながらも、他方では唯心論と唯物論との争いを、また有神論と無神論との争いを提示し、「純粋理性が否定する側(即ち反定立の立場――筆者付注)に立って、肯定(即ち定立の立場――筆者付注)の根拠に近いようなことを何か言い得るのでありさえすれば、ここには勿論真の対立が見出されるであろう」(A741=B769)と言う。即ち、両理念に関しても二律背反が原理的には成立することを、カントも一応認めているのである。とはいえ、二律背反は事実としては世界の理念に関してのみ成立するとカントは考えているのである。では、カントが二律背反を世界の理念に限った理由は一体何であろうか。カントは今引用した箇所の直後で次のように言う。即ち、「これらの命題(唯心論並びに有神論の命題――筆者付注)には、やはり少くとも理性の関心という長所があるが、これに反対する者(唯物論者並びに無神論者――筆者付注)はこの理性の関心を引き合いに出すことは決してできない」(A741=B769)と。理性の関心という問題は、確かに「真理の論理的基準」という問題とは別問題であり、定立と反定立との「争われている権利に関しては何らの決定をももたらさない」 (A465=B493) が、先の問題を解明する一つの機縁となるであろう。
 世界の理念に関する二律背反の定立の側は「道徳と宗教との礎石」として理性の「或る実践的関心」(A466=B494)を有するが、反定立の側はかかる関心を有さぬ(Vgl.A468=B496)、とカントは言う。魂及び神の理念に関しても二律背反が成立するならば、理性はやはり定立の側である唯心論及び有神論に実践的関心を持つと言い得るであろう。しかし、哲学的理性が「先験的弁証論」で問題にしているのは理論理性の思弁性の可否なのであるから、ここで問題となっている理性の関心は実践的関心ではあり得ぬ。それは思弁的関心でなければならない。ところで、世界の理念に関する二律背反の定立の側は、「無制約者から始めることによって諸制約の全連鎖を完全にア・プリオリに把握し、被制約者を導出する」(A467=B495)という「理性の思弁的関心」(A466=B494)を有する、とカントは言う。かかる思弁的関心は唯心論にも有神論にも同様に見出されるであろう。即ち、唯心論の立場に立って被制約者を導出するとは合理論的Noogonieを意味し、有神論の立場に立って被制約者を導出するとは合理論的Kosmogonieを意味するが、理性はそこに思弁的関心を抱くであろう。さて、これに対して世界の理念に関する二律背反の反定立の側は、「非常に魅惑的であり、かつ理性の理念を説く独断論者(定立の立場に立つプラトン主義者――筆者付加)が約束し得る利点をはるかに凌ぐ利点を理性の思弁的関心に対して供する」(A468=B496)、とカントは言う。即ち、反定立の側に立てば、「悟性は常に自己特有の地盤、即ち全く可能的経験だけの領域に立ち、経験の法則を探求し、これを介して自らの確実にして明白な認識を無際眼に拡張し得る」(A468=B496)という利点がある。だが先の引用箇所に従えば、唯物論及び無神論は世界の理念の反定立の側に認められたこの思弁的関心を引き合いに出して、唯心論及び有神論に対抗することができないのである。ここに世界の理念と他の二理念との相違が認められるのであるが、唯物論及び無神論がこの思弁的関心を持ち得ぬのは一体何故であろうか。
 理性は与えられた被制約者から高次の制約へと前三段論法を連鎖せしめて上昇し無制約者を求めるのであった。そうであるならば、三理念に関する先験的推論は何らかの意味で経過的性格を有するはずである。それ故、先験的推論のこの経過的性格という観点から世界の理念に関する二律背反を今一度簡単に考察してみたい。理性推論は二つの悟性判断から新たな判断を導出する論理的操作であるが、悟性判断は綜合判断である限り「あらゆる綜合判断の媒語」(A155=B194)である時間を介しており、かかる悟性判断を基礎とする経験的理性推論は前進的であれ背進的であれ常に継時的性格を有する。ところで、既知の経験的被制約者から未知の経験的制約者へと背進する経験的遡源推論の結論において、制約者は常に再び被制約的である故に、更に高次の制約者が求められる。ここに経験的遡源推論の無際限な連鎖、即ち遡源的な、しかも無際限な連鎖式(sorites)の成立する根拠がある。ところで、先験的遡源推論は「我々が知っている(kennen)或るもの」(10)から結論を導出するとはいえ、「如何なる経験的な前提をも含まない」(A339=B397)。それ故、先験的遡源推論が何らかの経過的性格を有するとしても、それは経験的遡源推論の有する経過的性格である単なる経時性や無際限な連鎖性とは異なる。先験的遡源推論の経過的性格とは、それが経験的遡源推論の具体的な連鎖を下敷きにしているということである。さて、定立の側は現象を連続的に拡大すれば物自体に到ると臆断し、無制約者(物自体)は与えられていると結論するのであった。即ち、理性は経験的遡源推論の連鎖を下敷きにしつつも、現象(被制約者)を物自体たらしめることによってこの無際限な連鎖を一頃において独断的に断ち切るのである。他方、反定立の側は物自体を連続的に縮小すれば現象に到ると臆断し、無制約者は与えられていないと結論するのであった。即ち、物自体を現象たらしめるが故に、結論において無制約者(物自体)と考えられていたものが再び被制約者(現象)となり、理性は更に高次の制約を求めざるを得なくなる。かくして遡源は「潜勢的に無限」(A418=B445)となるのである。だがこのことは、理性が経験的遡源推論の連鎖を先験的遡源推論の下敷きにしているが故に、その無際限な連鎖性が表面化することを意味する。そしてそれが表面化する限りにおいて、反定立の立場は定立の立場に対抗するのである。従って二律背反とは、現象と物自体との混淆に由来し、理性が(@)経験的遡源推論の無際限な連鎖を基盤としつつもその連鎖性を断ち切り、先験的遡源推論を「無限への遡源(Regressus in infinitum)」と臆断する立場と(A)経験的遡源推論を基盤とするが故にその無際限な連鎖性が表面化し、先験的遡源推論を「不定への遡源(Regressus in indefinitum)」(A519f.=B547f.)と臆断する立場とに自己分裂することであると言い得る。このことは、理念が先験的遡源推論に基づく限り、原理的には三理念のすべてに妥当するはずである。即ち、魂の理念に関しても神の理念に関しても原理的には世界の理念と全く同じ二律背反構造が成立するはずである。
 ところで、魂の理念に関して言えば、思惟する我を純粋統覚の意味に解しそれを実体化する唯心論も、またそれを経験的統覚の意味に解しそれを実体化する唯物論も、思惟主観を絶対化するものである限り思惟主観の形式的統一性の根拠として絶対的統一性を主張しなければならない(11)。確かに、魂の理念の先験的遡源推論は原理的には世界の理念の場合と同様に経験的遡源推論を基盤としていると考えられる。だが、唯心論は経験的遡源推論を基盤とすることなく思惟主観を純粋統覚と解し、そこからkategorischに[無条件に――定言的に]絶対的統一性を結論するのである。また唯物論は、思惟主観を経験的統覚と解し、そこから経験的遡源推論を基盤として遡源しつつも絶対的統一性には到らぬ故に、遡源そのものを超えてkategorischに絶対的統一性を結論するのである。即ち、唯心論は経験的遡源推論を実際には基盤としていないが故に、また唯物論は基盤としての経験的遡源推論を超えているが故に、先験的遡源推論の経過的性格はここには全く見られないのである。絶対的自発性の能力たる理性は、確かに唯心論の如く、経験的遡源推論を基盤とせずとも自らの先験的遡源推論を無限への遡源であると断言することはできよう。だが、理性が唯物論の立場に立つ場合、それは経験的遡源推論を超えているが故に、経験的遡源推論の無際限な連鎖性を根拠にして自らの先験的遡源系列の無際限性を主張することはもはやできないのである。即ち反定立の立場は、無限への遡源の立場に十分対抗し得るような不定への遡源の立場としてはもはや成立しないのである。同様の議論は神の理念についても成立するであろう。これに対して世界の理念は、現象の絶対的総体性の概念である限り、その先験的遡源推論は常に経験的遡源推論を基盤としている。それ故、不定への遡源の立場が無限への遡源の立場に対抗して成立するのである。従って、先験的遡源推論の経過的性格が明白である場合にのみ、二律背反は無限への遡源の立場と不定への遡源の立場との背反という最も鋭い形で現われると言えよう(12)。世界の理念の反定立の側に認められた理性の思弁的関心が唯物論及び無神論に認められなかった理由も実はこの点にある。唯物論及び無神論においては先験的遡源系列の無際限性(不定への遡源)が成立しないからである。何れにせよ、現象の絶対的総体性の概念という世界の理念の他の理念とは異なった性格の故に、カントは二律背反を世界の理念に限ったと考えることができよう。

    三

   (イ)二律背反の解決

 さて、二律背反は上述の如く三理念の何れに関しても成立する。批判される理性は今や定立の立場と反定立の立場とに分裂しているが、両者は同一の先験的推論に基づき互いに相手の不当性を指摘し、そうすることによって自己の正当性を「間接的に (apagogisch)」証明する。それ故、この背反が解消されない限り、批判される理性は哲学的批判理性と合一し得ない。この背反は如何に解決されるのか、また解決の根拠は何処にあるのか。このことを明らかにするために、先ずこの背反的対立が如何なる対立であるかを、世界の理念に関する第一の二律背反を例に考察してみたい。
 現象の総体性としての世界が、現象の系列を我々が遡源することから「独立して (fur sich selbst)」(A505=B533)存立するとすれば、即ち世界が「物それ自体である」(A504=B532)とすれば、《世界は量的に無限(unendlich)である》という肯定判断(反定立の立場)と《世界は量的に無限ではない(nicht unendlich)》という否定判断(定立の立場)とは「矛盾対立 (kontradiktorisches Gegenteil)」(A503=B531)の関係にある。即ち、Die Welt ist unendlich oder nicht unendlich.という命題は「正しい選言命題」(A536=B564)であり、一方が否定されれば直ちに他方が肯定される。つまり「分析的対当」(A504=B532)関係においてはdas Entweder-Oderが成立する。そしてその限りにおいて、両判断は自己の正当性を主張せんと真に対立しているかのように見えるのである。だが世界を物自体と見なすことは「不当な制約」(A503=B531)(13)であり、「世界は現象の系列の経験的遡源の内にのみ存する」(A505=B533)という「第三の立場(ein Drittes)」(A503=B531) がなお存立する。この第三の立場からすれば、《世界は量的に無限(unendlich)である》という肯定判断(反定立の立場)と《世界は量的に非無限(nichtunendlich)である》という無限判断(14)(定立の立場)とは単に「反対対当(contrarie oppositorum)」(15)の関係、「弁証的対当」(A504=B532) の関係にあるにすぎず、しかもその制約の不当性の故に両判断は偽である。つまり、弁証的対当関係においてはdas Weder-Nochが成立するのである。このことは、カント自身が主張しているように世界の理念の他のすべての二律背反にも妥当するばかりでなく(Vgl.A505=B533)、魂及び神の理念に関しても二律背反が成立する限り、二律背反に一般的に妥当するものでなければならない。ところで、世界の量が現象の系列の経験的遡源に依存するという第三の立場とは、人間感性に依存する現象(被制約者)とそれから独立して存在する物自体(無制約者)とを分かつことに外ならない。「先験的分析論」においては、批判される理性(広義)の側に具体的自覚が成立するが故に、それは哲学的批判理性と合一し自己還帰し得た。だが「先験的弁証論」においては、定立の立場と反定立の立場とに分裂している批判される理性(狭義)は、それが自体的に考察される純粋理性である限り人間感性に関係するこの区別には関知し得ず、従って自ら背反的対立を解消し哲学的批判理性と合一することはできない。感性及び悟性に関する先験的反省を既に遂行し終えた哲学的批判理性(先験的統覚)は、この区別を自覚しているが故に、批判される理性が陥っている背反的対立の仮象性を暴露し、それを解消し得るのである。つまり、現象と物自体とを分かつことが直ちに二律背反の「批判的解決」(A497=B525――傍点筆者)となるのである。そして、哲学的理性はdas Weder-Nochを主張するとはいえ、エレアのゼノンの如き「懐疑論」(A507=B535)に陥るのではなく、むしろ「両刀論法」によって現象の、また時間・空間の先験的観念性を今一度「間接的に証明する」(A506=B534)のである。
 ところで、世界の理念に関する先験的遡源の綜合において、それが数学的であるにせよ力学的であるにせよ、被制約者とその制約とが時間・空間という感性的制約に従う「同種的」なものと見なされる限り、その遡源系列は「常に一つの系列」(A528=B556――傍点筆者)であり、この系列は「単に量的にのみ考量される」(A529=B557)。即ち、数学的理念に関する遡源系列も力学的理念に関するそれも形式的には「すべて同種的」(A530=B558)である。それ故、「あらゆる先験的理念を一般的に表象する」(A529=B557, Vgl. A543=B571――傍点筆者)限り、das Weder-Nochはすべての二律背反に妥当するはずである。しかし、数学的理念と力学的理念との間には内容的には「本質的な区別」(A529=B557)が存する。カントは狭義の「世界概念」と「超越的自然概念」との区別を「特に重要な」(A420=B448)区別であると言う。後者の表現の内に既に示唆されていることではあるが、力学的遡源においては感性的制約の系列は唯一の系列を成すのではなく、それは叡智的制約を「この系列の外に」(A530=B558――傍点筆者)超越的制約としてなお「許す(zulassen)」(A530=B558,A531=B559)のである。それは、経験を超越し、経験的に無制約的であるという意味において感性的制約とは「異種的な制約」(A530=B558)である。力学的二律背反において定立の側が主張せんとしているのはかかる超越的制約である。それ故、力学的理念において問題となっているこの内容に注目する限り「遡源系列の量をも捨象し得る」(A535=B563)のである。かく継時的遡源の量を捨象し得る限り、力学的遡源においては数学的時間的第一起始はもはや間題たり得ない。そこで問題とされるのは原因性の面からの力学的起始である。教学的理念と力学的理念との本質的区別はまさにこの点にある。
 さて、力学的遡源においては感性的制約とは異種的な叡智的制約もまた許されるとは如何なることを意味するのであろうか。哲学的理性は人間感性に関する先験的反省を通じて現象と物自体との先験的区別を措定したが、それは哲学的反省以前においては区別されぬ「同一の物」(B][)を「二重の観点から考察する」(B]\Annm.)ところに成立する区別である。現象がerkennbarであるのに対して、物自体はdenkbarである。ところで、このdenkbarという性格は(@)触発者としての物自体にも(A)物一般にも(B)否定的並びに肯定的意味における叡智体にも(C)先験的対象にも(D)無制約者としての物自体にも共通する性格である。これらの意味するところは勿論すべて異なるが、これらは感性的表象ならざるものとしては何れもdenkbarという性格を少くとも有している。つまり、自体的存在者という概念は常に「論理的可能性」(B]]YAnm.)を有する概念である。それ故、力学的遡源においても同様に、叡智的制約は論理的に可能なるものとして許容されるのである。だがそうであるならば、哲学的理性は物(及びその原因性)を二重の観点から考察することによって力学的二律背反に「全く新たな展望」(A529=B557)を開くこととなろう。数学的二律背反においては、定立の立場も反定立の立場も遡源系列の量を自体的に与えられているとして絶対化する点で共に偽であった。とはいえ反定立の主張の内容は、制限された形でではあるが、批判的解決における統制的原理の経験的使用という思想の中になお保存されている。即ち、悟性綜合の無際限な連続性を意味する「世界に間隙なく、飛躍なく、偶然なく、運命なし(in mundo non datur hiatus, non datur saltus, non datur casus, non datur fatum.) 」(A229=B282) という命題は現象界においては絶対的に真である。これに対して、哲学的理性は力学的理念に関しては、かの二重の観点に立つことによって、叡智的制約を論理的に可能なるものとして措定する。それ故、力学的二律背反においては定立の立場も反定立の立場も、確かに自己の主張のみを真であるとすれば共に偽であるが(即ちdas Weder-Nochが成立するが)、「双方とも真たり得る」(A532=B560) のである。即ち、das Sowohl-Alsauchという「第三の立場」が両者を「和解させる(vergleichen)」(A530=B558) 立場として論理的に可能である。そしてそこに、哲学的理性は二律背反の新たな解決を見出すのである。

   (ロ)先験的自由

 ところで、異種的叡智的制約を論理的に可能なるものとして想定することは如何なる意味を有するのであろうか。このことを明らかにするためには、我々は先ず力学的二律背反の定立の側において本来何が主題となっているのかを明確にしておく必要があろう。現象的実体の状態の変化の系列において、実体の或る状態の存在(結果P)と他の状態の存在(原因Q)との力学的結合は、Q→Pという知覚表象闇の継時的関係と無時間的な原因性の範疇との類推 (Analogie)に基づく。その限りPは先行状態Qから必然的に帰結するが、この必然性は「仮言的な(hypothetisch)」(A228=280)必然性にすぎない。即ち力学的結合Q→Pの有する必然性はQを前提した上での必然性にすぎない。それ故、原因Qの非存在が思惟可能である眼り(即ち原因がQではなくてX或いはY……であるということが思惟可能である限り)、結果Pの非存在もまた思惟可能であり、従ってPは偶然性を有する(Vgl.B291, A458=B486)。勿論力学的結合の系列(……P←Q←R……)の何れの項もこの「経験的偶然性」(A458=B486, Vgl.A635=B663)を有する。即ち世界変化或いは世界運行に関して、世界の諸実体の如何なる状態も経験的に偶然的な被制約的な原因性を有するにすぎない。それ故、第三の二律背反の定立の側はこの偶然性を必然化すべく、世界変化を自ら開始するような無制約的原因性として「先験的自由」(A446=B474)を想定するのである。また世界の諸実体の状態の変化の系列において、系列の各項が経験的偶然性を有する限り、この変化の系列そのものも経験的偶然性を有する。それ故、第四の二律背反の定立の側は系列全体のこの偶然性を必然化すべく、世界の必然的実体の無制約的な現存在を論理的に可能なものとして想定するのである(16)。即ち(@)世界そのもの(A)世界における或るもの(B)世界原因(Vgl.A488=B516)という必然的存在者(実体)の無制約的な現存在を想定するのである。カントはこれらの下で(@)「内含的体系(systema inhaerentiae)」或いは「スピノザ主義」(17)における絶対的必然的存在者(ens absolute necessarium)(A)ストア学派の宇宙論における根源的存在者(ens originarium)としての「世界霊(Weltseele)」(A641=B669)(18)或いはアナクサゴラスの「第一運動者」(A450=B478)としての知性(ヌース)(B)プラトンの宇宙論における「世界建設者」と「彼が加工する素材」(19)(A627=B655)を考えているのである。従って、第三・第四の二律背反の定立の側が問題としているのは、「世界状態の変化に従い世界状態の偶然性から」「第一原因」(A457=B485)を無制約的なものとして想定することである。確かに、「世界の偶然性からの(a contingentia mundi)」(A604=B632)議論によって必然的存在者の現存在を論証することは神学的問題でもある。だがカントは、必然的存在者が「世界そのものであるか、それとも世界とは別のものであるかを未決定のままに」、(A456=B484)し、宇宙論的な問題として取り扱うのである。ところで、この第一原因の原因性の結果としての世界変化は自然法則に従う秩序 (κοσμοσ)である。従って、第一原因及びその原因性としての先験的自由の問題は、この世界変化或いは世界連行の秩序の生起――それは世界そのものの生起では決してない――という問題に外ならない。即ち、それはKosmogonie(=κοσμοσ+γενησισ) というあくまでも宇宙論的な問題なのである。
 この本来宇宙論的な問題領域においては、カントは力学的第一起始という語を単数形で用いる。ところで、必然的存在者及びその原因性は感性的制約とは異種的な制約として想定されたのであった。だがそのように想定することは、「連続量(quanta continua)」(A169=B211) たる時間に制約された「持続」(A183=B226)とは異種的な持続性を、即ち「叡智的持続(duratio numenon)」を想定することに外ならない。それ故、必然的存在者と継時的な世界変化の系列のあらゆる項との間には常に力学的関係が成立し得る。そうであるならば、力学的起始及び力学的系列の複数性ということが成立するはずである。だが、この力学的起始の単数性と複数性とは本来何を意味するのであろうか。それは、単に世界変化の系列の外にあるのではなくて、「世界とは別のもの」という意味で世界の外に存する世界原因を取り扱う神学的理念の問題領域において明確なものとなる。即ち、神を「世界創造者」(A627=B655)してのみ考察し、神による世界(宇宙)そのものの創造という意味でのKosmogonieを問題とするならば、力学的起始は単数性を有するものと解され力学的第一起始と称される。だが、「神学的道徳」(A632=B660Anm.)が主張するように神を持続的な「世界統治者」(A632=B660Anm..A818=B846)として考察するならば、力学的起始は複数性(持続性)を有するものと解される(22)。必然的存在者に関する宇宙論的な議論と神学的な議論との間には本質的な差異があるが、宇宙論的な議論における力学的起始の単数・複数という両義性の問題は神学的議論におけるこの問題との連関の内で理解されるべきであろう。
 さて、確かに必然的存在者の問題と叡智的原因性たる先験的自由の問題とは宇宙論的議論としては相互に連関する問題であり、それらはまた神学的議論とも連関する問題である。だが、力学的起始の問題はかかる連関とは全く無関係にも論じられ得る。現象的実体は感性的制約の系列に醸しており、その限りでは感性的に制約された原因性しか有してはいない。しかし、叡智的実体(原囚)の現存在を想定することなく叡智的原因性のみを異種的な制約として想定し得る限り、「世界の諸実体」は「世界の運行のまっただ中において」「様々な系列を」「一つの新しい系列」(A450=B478)として開始せしめ得るであろう。そうであるならば、そこに力学的起始及び系列の複数性が成立し得るはずである。それは、必然的存在者の持続的叡智的原因性とは異なり、あくまでも世界の諸実体の持続的叡智的原因性を意味する。両者のこの類比的関係の内に、カントは「意志の自由に関する問題において古来思弁的理性を非常に困らせてきたもの」(A448=B476)を見出したのである。従って、「自由の先験的理念はHandlungの帰責性の本来の根拠であるHandlungの絶対的自発性という内容のみを構成する」(A448=B476)というカントの言葉も、この類比的関係が成立する限り二義的に解される。即ち先験的自由の問題は、必然的存在者による世界秩序の形成・維持作用(Handlung)と悪の起源という本来的宇宙論的な(更には神学的な)問題を意味するが、それはまた類比的な意味では意志の自由に基づく行為(Handlung)と帰責という実践理性の問題の根拠を成すような問題である(23)。そこに類比的関係が成立するのは、哲学的理性が叡智的原因性(制約)を、従ってduratio noumenonを論理的可能性を有するものとして想定するからである。

   (ハ)先験的自由と実践的自由

 既述の如く先験的自由はその本来的宇宙論的な意味においても、また類比的な意味においても、単に論理的可能性を有するものとして想定されたにすぎない。即ち、das Sowohl-Alsauchという解決は「自由の現実性」(A557=B585)を主張するものでも実在的可能性という意味での「自由の可能性」(A558=B586)を主張するものでもない。とはいえ、先験的自由が廃棄されれば実践的自由もまた同時に廃棄される(Vgl.A534=B562)。それ故、類比的意味における先験的自由と実践的自由との関係もまた問題となろう。しかしその前に、カント自身の叙述は不明確ではあるが、実践的自由という概念を明確に規定しておく必要がある。先験的自由は、本来的宇宙論的意味においては単に消極的に自然必然性からの独立性を意味するのではなく、世界秩序を「自ら開始する」という積極的意味を有している。それと同様に、実践的自由も単に感性的衝動による強制からの独立性(自由)を意味するのではなく、自ら自己を限定する、即ち自ら自己に使命を与える(sich von selbst zu bestimmen)(Vgl.A534=B562)ということを、従って自律ということを意味する。即ち、実践的意味において自由意志とは、単に無差別の自由意志(liberum arbitrium indifferentiae)を意味するのではなく、「知的自由意志(arbitrium liberumintellectuale)」(24)を意味する。勿論、「技巧的ー実践的」(25)な理性使用に関しては感性的自由意志(liberum arbitrium sensitivum)もまた問題とはなり得よう。だが思弁的な問題領域においては、カントは「より高くより遠い作用因に関してはこれまた自然」(A803=B831)であり得ると解しているのである。つまり、カントは実践的自由の概念の下で「道徳的ー実践的」(26)自由を、自律としての自由を理解しているのである。
 類比的意味における先験的自由は世界のあらゆる実体に対して想定されたのであった。これに対して、カントは実践的自由を世界の諸実体の内で人間にのみ限定し、「生命なき自然、或いは単に動物的生命を持つにすぎない自然」 (A546=B574)には拒否する。この限定は、知的意志を有するか否かという区別に基づく、従って実践的問題領域における限定であり、それ自体思弁的問題とは無関係である。だが、カントは類比的意味における先験的自由を人間にのみ「適用」(A537=B565)し、実践的自由と連関せしめるのである。ところで、かかる限定的適用に基づく両者の連関が成立し得るためには、その根拠が理論的問題領域の内にも存しなければならないのではないだろうか。即ち、論理的可能性を有するにすぎない先験的自由と実践的客観的実在性を有する実践的自由とを結ぶ紐帯が、理論理性の内にも求められるべきではないだろうか。

   (ニ)Intelligenzとしての物自体――結び

 既述の如く、哲学的理性は自らがIntelligenzであることを直覚的に自覚しているのであった。自らをIntelligenzであると自覚するとは、一方では自らのintellectuellな直観様式を、他方ではこの直観様式が把握する自らのintelligibleな存在を自覚することである(Vgl.B312Anm.)。確かにカントは人間理性に根源的・知的直観を認めてはいない。だが、神的知的直観とは別の意味で知的直観を認めているのである。Intelligenzは、感性的直観の対象ではあり得ぬという意味では物自体と称され得よう。それはunbestimmt或いはunerkennbarという点では他のあらゆる物自体概念と共通する性格を有している。とはいえ、それは次の点で他の物自体概念とは決定的に異なる。即ち、Intelligenzはunbestimmtではあるにせよ「何か或る実在的なもの(etwas Reales)」(B419,B423Anm.)、「実際に存在する或るもの(etwas, was in der Tat existiert)」(B423Anm.)、「存在者そのもの (das Wesen selbst)」(B429)或いは「実体的なもの (das Substantiale)」(B427,A414=B441) であり、また自らをそのようなものとして自覚しているという点においてである。Intelligenzは他の物自体概念の如く単に論理的可能性(及び論理的必然性)を有しているにすぎないのではない。それは、経験的実在性では決してないが、「力学的な諸々の実在性」(A641=B669――傍点筆者)を有している。即ち、「悟性と意志」(A627=B655――傍点筆者)という自発的原因性の実在性を有している。哲学的理性は、自らの自発的思惟作用のみならず自発的意志作用をも実在的なものとして自覚しており、またかかる作用の実在性に即して自らをunbestimmtではあるが実在的なものとして自覚しているのである。そして、哲学的理性は自らの自発的思惟作用並びに自らの存在の実在性を自覚しているが故にかの限定的適用を可能たらしめるのである。このことは、統覚の自発性の意識が「或る種の自由の意識」(27)であることを意味するであろう。だが、先験的自由は理論理性の問題領域においてはあくまでも論理的に可能であるにすぎず、従って「空虚」(28)である。それ故、Intelligenzとして自らの自発的意志作用の実在性をも自覚している哲学的理性は、この空虚さを実践的自由として「補完」「充実」(29)すべきことを、従って実践理性の問題領域へと移行すべきことを自覚するに到るのである。
 さて、哲学的理性は自らをIntelligenzであると自覚しているが故に魂の理念を問題としたのであった。そして今、哲学的理性は全く同じ自覚を根拠として実践理性の領域へと移行すべきことを自覚している。だが、この移行は先験的自由という宇宙論的理念に関する先験的反省からのみ生ずるのではない。それは魂及び神の理念に関する先験的反省の結果との連関において初めて生ずるのである。魂の理念に関しても二律背反が可能であり、統覚の自我は思惟実体でも経験的実体でもない (das Weder-Noch) という第三の立場が成立する。哲学的理性は魂の理念に関する先験的反省を通じて、自らがあくまでも実体的なものにすぎないことをはっきりと自覚する。ところで、自らがIntelligenzであることを、またその自発的活動性を哲学的理性が直覚的に意識しているとはいえ、またその確実性を意識しているとはいえ、それはやはり意識にすぎない。それ故、有神論が成立し神の意志決定に必然性に一切が拘束されるとするならば、自己活動性の意識はかかる必然性に関する単なる無知に外ならないということになるであろう。だが、哲学的理性は神の理念に関する先験的反省を通じて、有神論も無神論も成立し得ぬこと(das Weder-Noch)を自覚しているのである。それ故、かく自覚する限りにおいて哲学的理性はかの移行の必然性を自覚すると言い得よう。理論理性の領域における理性の自己認識は、現象界の限界の自覚と理念が統制的に使用されるべきことの自覚とこの移行の必然性の自覚でもって終りを告げるのである。
 無制約者を巡る哲学的理性の先験的反省は、自らがIntelligenzであることの自覚に始まり、その自覚でもって終るのである。更に、悟性を巡る哲学的理性の先験的反省において純粋統覚を直覚的に定立する根拠が既述の如くIntelligenzたることの自覚であったことを考えれば、先験的反省を終始貫通しているものはこのIntelligenzたることの自覚であると言い得よう。そしてIntelligenzたることの意味内容は更に実践理性の領域で探求されるのである。
                                                             (了)



(1)カントの著作からの引用はカッシーラー版(Immanuel Kants Werke, hrsg. von E. Cassirer)に基づく。「純粋理性批判」からの引用は巻数を略し、第一版をA、第二版をBとしてその頁数を本文中に記した。
(2)Vgl. auch A321=B378, A335=B392, A577=B605.
(3)N・K・スミスが指摘しているように、また後述するように、形式論理学における三推論様式からの三理念の形而上学的演繹は「全く人為的(wholly artificial)」であり、三理念をカントが導出した真の方法を隠す結果になっている。Vgl. N. K. Smith, A commentary to Kant's critique of pure reason, Macmillan, 1979 (2nd ed. 1923), p. 450.
(4)以下の(@)ー(E)の論述は、筆者が以前に「カントの理性批判と批判理性」(『哲学論叢』第十号、大阪大学文学部哲学哲学史第二講座発行、昭和五十七年)で述べたものの概略である。
(5)Vgl. Kant, Werke, Bd. II, S. 422.
(6)注3を参照。
(7)神の実在性を存在論的に証明するこの推論が選言推論の否定的肯定式(modus tollendo ponens)であること、また肯定的否定式(modus ponendo tollens)をとれば無神論の推論となることは、伊達四郎「Kritik からDialektikへ」(『別離の論理』、誠信書房、昭和四五年、所収)及び高橋昭二「カントの弁証論」(『カントの弁証論』、創文社、昭和四四年、所収)に教えられた。
(8)魂の理念及び神の理念に関する二律背反の表は、高橋教授の前掲論文に示されているものを使用させていただいた。なお、カントは無神論或いはそれに類する語を著作全体を通じて九回しか用いていず、その意味内容ははっきりとしない。
(9)A406=B433, Vgl. auch A407=B434, A421=B448.
(10)ここでカントがerkennenではなくてkennenという語を用いていることは注意すべきである。哲学的理性が自らをIntelligenzであると直覚的に意識するが故に魂の理念は問題化したが、この直覚的意識はカント本来の用語法に従う限りerkennenとは言い鴇ず、せいぜいkennenとしか言い得ぬからである。なお、ハイムゼートはこの或るものの具体例を簡単に挙げている。Vgl. H. Heimsoeth, Transzendentale Dialektik, Walter de Gruyter, I. Teil 1966, 2. Teil l967, 3. Teil 1969, 4. Teil 1971, 1. Teil, S. 73.
(11)例えば、B418Anm.の「唯物論者が……統覚の形式的統一性を保持しつつ、自己の原則を合理論者とは対立する使用に用いるという同じ冒険を犯すのが何故いけないのか」という文章を参照。
(12)カントが二律背反を世界の理念に限った理由を先験的推論の経過的性格の問題から解明することも、高橋教授の前掲論文に教えられた。
(13)Vgl. auch Kant, Werke, Bd. IV, S. 96.
(14)無限判断が「ア・プリオリな純粋認識の領域」において、従って「先験的弁証論」において重要な意味を持つことはA73=B98で既に言われている。Vgl. auch H. Heimsoeth, ibid. 2 Teil, S. 306.
(15)Kants gesammelte Schriften, hrsg. von der Koniglich Preusischen Akademie der Wissenschaft, Bd. ]], S. 291.
(16)A452=B480の定立の命題では(@)世界の部分としての、(A)世界の原因としての必然的存在者が語られ、A454=B482では(@)全世界系列そのものとしての、(A)その一部分としての必然的存在者が語られているが、これら二つの区分を合すればA488=B516の三区分が成立する。
(17)Kant, Vorlesungen uber die Metapkysik, hrsg. von K. H. L. Politz, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 1975 (zuerst 1821), S. 330.
(18)Vgl. auch Kant, Vorlesungen uber die Metaphysik, S. 338.
(19)この場合、必然的存在者は複数になる。カントは世界原因の複数性を十分念頭に置いている。例えばカントは、「一つの崇高にして賢明な原因(或いはいくつかの原囚)」(A625=B653――傍点筆者)や「最も盲目的な多神教」(A590=B618)について、これらは宇宙論的な問題領域には属していないが、語っている。
(20)Vgl. A445=B473, A448=B476, A449=B477, A450=B478 usw.なお、このことは必然的存在者の単数性を意味しない。
(21)H. Heimsoeth, ibid. 2. Teil, S. 375.
(22)後述する類比的意味においてではあるが、例えばA466=B494には「諸々の叡智的起始(intellectuelle Anfange)」という表現が見られる。
(23)第三の二律背反の本来的宇宙論的意味とその類比的意味とを区別すべきこと、また本来的宇宙論的意味においては第三の二律背反は第四の二律背反との連関において考察されるべきこと、このことに関してハイムゼートは次のように言っている。「自由のアンチノミーの問題の根源は人間的な領域の内にではなくて、まさに宇宙論的な領域の内に存する。……自由のアンチノミーは実際第四アンチノミーとの根源的な連関の内で、言わばそれとの協働の内で見てとられねばならない」と。Vgl. H. Heimsoeth, Zum kosmotheologischen Ursprung der Kantischen Freiheitsantinomie, Kantstudien, Erganzungshefte 100, H. Bouvier, 1970, S. 250.
(24)Kant, Vorlesungen uber die Metaphysik, S. 182.
(25)Kant, Werke Bd. X, S. 240, Vgl. auch S. 29 Anm.
(26)Kant, Werke Bd.X, S. 240.
(27)H. Heimsoeth, Personlichkeitsbewustsein und Ding an sich in der Kantischen Philosophie, Kantstudien, Erganzungshefte 71, Bouvier, 1971, S. 251.
(28)Kant, Werke Bd. V, S. 62.
(29)H. Heimsoeth, ibid. S. 251.


(博士課程学生)


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