カントの理性批判と批判理性
                                    山本博史

         序

 カントの理性批判には、それが人間理性一般の批判であるという側面と、批判を遂行する主体が個別的な哲学的理性であるという側面とが同時に存在する。即ち、哲学的理性が、人間の「理性能力一般の批判」(1)(A]U)を遂行するのである。理性批判が「理性の自己認識」(2)と称されるのは、かかる意味においてである。
 さて、カントは、我々のあらゆる認識が「経験と共に」(B1, Vgl.B161)始まることを事実として承認するが、理性批判の目指すところは、認識を可能ならしめている諸要素の権利を限定することである。それ故、哲学的理性は、化学者の分析的方法を範として(3)、具体的認識活動の有するこの「共に」という性格を解体し、それを可能ならしめている人間理性の諸要素を「孤立(isolieren)」(A22=B36)せしめて考察するのである。ここで、要素の孤立化とは、哲学的理性の行なう先験的反省の論理的抽象作用そのものを意味している。が、このことだけからしても、理性批判において哲学的理性という契機が軽視し得ぬものであることは明らかである。ところで、自己観察者である「探求し吟味する理性」(A744=B772)、即ち哲学的理性は、人間理性に関する先験的反省を行なうにせよ、そのことの故に直ちに「批判理性(Die kritische Vernunft)」(A270=B326)と称されるのではない。「理性の自己認識」が成立した時に初めて、哲学的理性は、自らを批判理性として自覚するのである。
 小論の意図は、『純粋理性批判』における「物」概念と「自我」概念との多義性を、哲学的理性の反省的思准との関係において考察することによって、上述のことを確証すると共に、その問題点を明確にすることにある。

   一

 哲学的理性は、「先験的感性論」において、心性の受容性の能力たる感性を、具体的認識活動から抽象し孤立せしめる。感性を受容性の能力として考察するとは、感性における経験的表象を与えられた(gegeben)ものとしで考察することであるが、感性的表象の所与性は経験的事実として成立しでいるのである。さて、カントは経験的所与表象を、即ち「経験的直観の未限定な(unbestimmt)対象」(A20=B34)を現象(Erscheinung)と名付ける。その対概念が所謂物自体である。この現象と物自体との「先験的区別」を、それらの「経験的」(A45=B62)区別に対比させることによって、カントは両者の差異を明確に規定するのである。経験的区別における『現象』は、「あれこれの感官の特殊な位置或いは組織に対してのみ妥当する』(A45=B62)表象の意に解されている。即ち、個別的主観の感性における常に主観的・偶然的表象(カントはこれをロックの第二性質と解ずる)の意に解されている。その際、対慨念である『物自体』は、主観一般の感性即ち「あらゆる人間感性一般」(A45=B62)に対して妥当する、主観的・偶然的ではあり得ぬ表象(第一性質)の意に解されている。それは、個別的主観の感性の有する主観性・偶然性への関係を有さぬという意味で、自体(an sich)と称されるのである。言うまでもなく、無反省的・具体的認識活動においては、経験的意味における『現象』と『物自体』とは不可分ではあるが、前者がindividuellな主観性・偶然性を免れぬという経験的反省を通じて、両者は分離されるのである。即ち、経験的区別は、個別的主観の感性の主観性・偶然性に関する哲学的理性の経験的反省によって成立する区別である。この反省が経験的であるのは、それが未だ我々の認識能力(感性一般)との関係において為されていず、個々の主観の表象を単に経験的に比較し、その主観性・偶然性を捨象するにすぎぬからである。これに対して、カントは、ファィヒンガーの指摘する如く、『現象』と『物自体』との経験的区別を(ロックの第一性質と第二性質との質的区別を)das Individuell-Subjektiveとdas Allgemein-Subjektiveという主観性の内部における量的区別と解し、後者を人間感性一般との関係において現象と名付けるのである。従って、先験的意味における現象の慨念は、哲学的理性の先験的反省によって成立するものである。
 ところで、現象という語の語義からして、それ自身現象ではあり得ぬが現象において現象する当のものを想定することは必然的である。そうでなければ、「現象する或るものなくして現象がある」(B]]Yf.)という不合理な命題が成立することになるからである。では、かかるものとして想定される物自体とは、一体如何なるものなのだろうか。Ding an sichという表現は、プラウスの指摘する如く、Ding als an sich betrachtetの縮約形と解されるべきである。即ち、an sichはDingを規定するのではなく、「物」に関する哲学的理性の反省作用を意味するbetrachten(od. wagen)を規定するのである。反省の仕方を規定するこの語句an sichは《それ自身に即して、従って他の如何なるものにも即することなく》という否定的意味を有するものである。換言すれば、an sichとはohne Rucksicht auf etwasということを意味しているのである。従って、このetwasを規定することなくしては、所謂物自体の意味は不明である。哲学的理性は、経験的反省の段階においてはこのetwasを個別的主観の感性の主観性・偶然性と解したのである。だが、経験的反省を前提とする先験的反省の段階においては、それを人間感性一般と解するのである。つまり、先験的意味における物自体とは、「理性(即ち哲学的理性)によってそれ自体として、即ち我々の感性を顧慮することなく考究(erwägen)された」(A28=B44――傍点筆者)物である。即ち、哲学的理性の先験的反省により否定的に、つまり表象と人間感性一般との関係を捨象しで考察された物である。さて、an sichという語句が否定的意味を有する限り、物自体は常に否定的な性格を有するのでなければならない。現象が悟性綜合に関してunbestimmtであるとは言えbestimmbarであるのに対して、物自体はun-bestimmbarである。哲学的理性は、その反省的思准において物自体をunbestimmbar=unbekanntと限定するのである。以上のことから、我々は次の如く言い得る。哲学的反省以前においては無反省であるが故に何ら区別されることのない、従って「同一の物」(B][)を、哲学的理性は先験的反省を通じて「二重の観点から考察」(B]\Anm.)し、かの先験的区別を定立するのである。
 さて、カント解釈史上絶えず争われてきた触発の問題は、かかる観点からすれば如何に解されるべきであろうか。既にファイヒンガーがTrilemmaという語で示した如く、我々は、超験的(transzendent)触発の立場を採るにせよ、経験的触発の立場を採るにせよ、また二重触発の立場を採るにせよ困雅に陥る。だが、カントは、実際多くの箇所で物自体による触発について語っているのである。しかし、だからと言っで超験的触発を直ちにreellな関係と解するならば、先験的観念論は先験的実在論に堕するであろう。では、触発・被触発とは何を意味するのであろうか。後述する如く、純粋統覚は、その純粋性の故に思惟において「無制限の領城」(B166 Anm.)を有する。それ故、その形式たる範疇は、認識するためにではないにせよ、思惟するために物自体に適用し得る。であるならば、哲学的理性もまた、その先験反省的思惟において物自体に実在性及ぴ実体性の範祷を適用し、それを「思惟的実在(ens rationis)」(A290=B347)として思惟し得る。そして、この思惟的実在と現象との関係を、哲学的理性は現象間の因果関係との類比(Analogie)において定立するのである。「類推によって、私は私にとって絶対に未知なる物の関係概念を与え得る」とカントが言う様に、触発・被触発の関係は、哲学的理性の類比的思惟により成立するideellな関係である。勿論このことは、「先験的感性論」の問題領域においては、外的触発に対しても内的(自己)触発に対しても、同様に妥当するのでなければならない。
 ところで、このように解することによって、触発・被触発の問題――それは現象の経験的実在性の根拠の問題に他ならぬ――が解決されたのであろうか。否。「先験的感性論」においては、哲学的理性は触発・被触発の関係を定立したにすぎぬ。その真の解決は、後述する如く、「先験的対象」に関する議論において初めて与えられるのである。

   二

 「先験的分析論」においても、哲学的理性は悟性を心性の他の要素から孤立せしめて、悟性を「それだけとして考察」(B153)する。そして、悟性機能の根源的根拠を、「我々の全ての表象に対する相関者」(A123)であり、「あらゆる他の表象に伴わざるを得ず、かつあらゆる意識において同一である我思うという表象すらをも生み出す」(B132)純粋統覚に見出す。それは、「自発性の作用」(B130)として「断片」(A156=B195)的なる知覚を統一しつつ、その働きに即して自己の「汎通的同一性」(B133)を自覚する純粋なる自己意識である。ところで、悟性を孤立せしめて考察し得るためには、我々は何らかの仕方でその根拠たる純粋統覚を定立し得るのでなければならぬ。だが、純粋統覚について何らかのことを思惟せんとするならば、「絶えざる循環」(A346=B404)に陥らざるを得ぬという困錐に我々は直面するのである。では如何にして、それは定立されるのであろうか。
 カントは、自己に注視し、自己を観察する哲学者という意味での「知性(Intelligenz)」(B158 Anm.)に関して次の如く言う。「『我思う』は、私の現存在を限定する働きを表現する。従って、それによって既に現存在は与えられているが、私が現存在を限定する仕方は……それによっては未だ与えられていない」(B157 Anm.――傍点筆者)と。即ち、哲学的理性は、自発的に働き自己を観察しつつ、その働きに即して、またその働きを直接的に意識しつつ、自己の現存在を「或る実在的なるもの(etwas Reales)」(B423 Anm.――傍点筆者)として直接的に意識しているのである。勿論、そこには自己直観が欠如しているが故に、現存在を限定する仕方、即ちこの実在的なるものが何(was)であり如何に(wie)在るかは「未限定(unbestimmt)」(B422f. Anm.)にとどまる。即ち、was及びwieに関しては空虚(leer)にとどまる。とは言え、カントが、「我思う」は「我思いつつ存在す」と『同語反復的」(A355)と、或いは「同一(B422 Anm.)と言う場合、それは、哲学的理性の自発的働きとその存在との直接的合一を意味しているのである。哲学的理性は、経験的統覚の客観としての断片的自我(内官の対象としての現象我)と経験的統覚の主観としての断片的自我と純粋統覚の自我とを厳密に区別しつつも、自らの働きと存在との直接的意識において、即ち自らの「力学的実在性」(A164=B669)の直接的意識においてそれらの同一性を自覚しているのである。また同様に、理論理性と実践理性とを区別しつつも、それらが「同一の理性」であることを自覚しているのである。
 ところで、個別的自我の「現実性を直接的に言表する」(A355)この意識は、直接的であり「純粋に知的」(B423 Anm.)であるとは言え、「限定する働きに先立って」(B158 Anm.)成立するものではない。「何らかの経験的表象なくしては、『我思う』という働きはやはり生じないであろう」(B423 Anm.)と言われる如く、それは経験的表象を限定する働きに即して成立する「綜合の意識」(B133)なのである。従って、それは、「多様なるものを意識の統一へと綜合する持殊な働き」(B139)を必要とせず、直観することによって直ちに対象そのものを「与え」「創造する(hervorbringen)」(B145)が故に、物自体を直接的に認識し得るような「根源的直観」(B72)、神的直観ではない。だが、勿論それは感性的自己直観でもない。カントは、このフィヒテ的な知的直観を以下の如く様々に表現している。即ち、「私の現存在の知的な意識」(BXL Anm.)、「内的知覚」(A343=B401)、「未限定な経験的直観即ち知覚」(B422 Anm.)、「未限定な知覚」(B423 Anm.)、「思惟する主観の自己活動性の単に知的な表象」(B278)、「単なる統覚により自己自身を認識する」(A546=B574)こと、「現存在の感情」等々と。これらの表現における「知覚」や「認識」といった語は、カントの通常の語の用法に反するものであるが、これらの表現は上述の意味に解されねばならない。戊程、カント自身は、この純粋に知的な意識が「決して直観ではない」(B278)ことを強調する。だが、その直接性の故に、直観という語は避け難いであろう。哲学的理性は上述の如き知性であり、知性として働きつつ純粋統覚をかかる意味における知的直観によって直覚的に定立するのである。カン卜は、『形而上学講義』において、「心理的意識」或いは「主観的意識」と「論理的意識」或いは「客観的意識」とを区別する。そして、後者は「自己自身に還帰した意識であり、それは比量的ではなく直覚的(intuitivである」と、同様のことを主張するのである。ところで、哲学的理性が純粋統覚を直覚的に定立することそれ自体は、individuellなことである。即ち、この現存在の知的な意識は、individuellなこの「私の現存在」の意識なのである。そして、後述する如く、哲学的理性は、このindividuellな意識を他の物に「すり換える(unterschieben)」(A353)ことによって、überindividuellな規範的的意識即ち意識一般(Bewustsein uberhaupt)を言わば要請するのである。
 さて、かかる哲学的理性の直覚的定立との関連から、第二版の「先験的演繹論」において主張されでいる自己触発の概念に言及しておかねばならないであろう。「注意(Aufmerksamkeit)という名々の活動は、それ(即ち自己触発――筆者付注)の例証を与え得る」(B156f. Anm.)と言われる場合の自己触発の概念は、「先験的感性論」における自己触発の概念とは異なる。カントに従えば、何らかの結合せる表象において或るものを孤立せしめ、それ以外の或るものを捨象する即ち度外視する(von etwas abstrahieren)とは、或るものに注意し、それ以外のものに「注意しない」ということを意味する。即ち、注意及ぴ「負の注意」という語は、カントにおいては、かかる孤立化と捨象という反省的抽象作用を意味するものである。従って、感性に関する哲学的理性の反省的思惟そのものが、ここでは自己触発と言われていると考えられる。これに対して、「先験的感性論」においでは、哲学的理性によって二重の観点から考察された現象我と自我自体とのideellな関係概念が、外的触発の場合と同様の意味において自己触発と言われたのであった。従って、両者には、決定的な意味の差異が存するのである。更に、かかる意味での自己触発の意識も、先の直覚的定立の場合と同様に、individuellな意識である。それ故、カントは、「これ(即ち注意という働き――筆者付注)によって、心性が通常如何に屡々触発されているかということを、各人は自らの内において知覚し得るであろう」(B157 Anm.――傍点筆者)と言うのである。

   三

 哲学的理性は、感性一般を考察したのと同様に、純粋統覚を直覚的に定立しそれを上述の如くすり換えることによって論理的に一般化したuberindividuellな「意識一般」(B143)、「統覚一般」(B143)を考察する。それは、überindividuellである限りにおいて認識の普遍妥当性の一源泉たり得るのである。さて、この場合も、哲学的理性は、あらゆる感性的制約を「分離」(A147=B186)、「捨象」(A247=B304)することによって純粋統覚を自体的に考察する。そうであるならば、純粋統覚は、現象と物自体との先験的区別に関係なく「あらゆる物に無差別に(ohne Unterschied)」(A288=B344)関係し得るであろう。それ故、哲学的理性は、先験的区別そのものを捨象することによって論理的に一般化された物を、即ち「物一般」(B128)を純粋統覚の対象として措定するのである。従って、その形式たる範疇も自体的には、即ち純粋範疇としては思惟において「無制限の領域」を有し、如何なる表象であれ、それを「一つの意識」(A104)へと結合し概念把握するという「論理的意味」(A248=B305)を有するのである。即ち、純粋範疇は、「客観一般の思惟を種々の様相に応じて表現」(A247=B304)しているのである。
 だが、純粋統覚は、それが純粋である限り思惟内容を欠く空虚な表象である。純粋統覚は、自体的に、即ち感性的表象への関係なくして考察するならば、「あらゆる表象の内で最も貧しい表象」(B408)なのである。他方、現象を自体的に、即ち一者性を有する純粋統覚への関係なくして考察するならば、それは「私にとって客観となり」(B138)得ず、「我々にとって無」(A191=B236)である。それ故、認識が成立するためには、両者は綜合されねばならない。未限定的なる現象は、生産的構想力の形像的綜合(synthesis speciosa)即ち覚知・再生の綜合によって「限定された直観」(B154)へと綜合されねばならない。そこに知覚が成立する。だが、形像的綜合は、自体的に、即ち統覚の統一への関係なくして考察するならば、盲目的な綜合にすぎない。形像的綜合を自体的に考察する限り、そこにおける知覚の客観は「表象の無規則な累積」(A121)、即ち断片的な像(ein Bild)にすぎず、知覚の主観たる経験的統覚の自我もまた断片的像に応じて「常に可変的」(A107)であり、「それ自体ばらばらになっている」(A120, B133――傍点筆者)のである。それ故、形像的綜合は、統覚の悟性綜合(synthesis intellectualis)との綜合、即ち「構想力の先験的綜含(B153)により統一性を獲得せねばならない。そこに、客観の側においても主観の側においでも、具体的統一が成立する。客観の側においては、「一つの自然」(A216=B263――傍点筆者)が成立する。それは、未限定な多様体たる現象や、隈定を経たとは言え断片的像にすぎない知覚の対象とは異なり、かかる多様体の綜合的統一体である。主観の側においては、後述する如く、具体的自覚が成立する。
 さて、一つの自然がかく成立するにしても、現象は、意識の対象としては「我々の表象の単なる戯れ」(A101)にすぎない。それ故、現象が単なる仮象に、従って自然が単なる虚構に転落しないためには、その経験的実在性を保証するものがなければならない。筆者は、それを「先験的対象」或いは「先験的客観」と考える。現象は、それが単なる表象である限り、現象ならざるものへの関係を指示し、自らに対応し、自らに客観的実在性を与え、そのことによって主観と客観との関係を与えるような対象を指示する(Vgl. A104f.,A252)。かかる「表象の対象」(A104)として現象の客観的実在性を保証する先験的対象は、「感性的直観における多様なるものを統一するために、統覚の統一の相関者としてのみ用いることができる」(A250, Vgl. A105,109)と言われる。つまり、純粋統覚が、現象を綜合的に統一する際の主観の側における形式的な先験的根拠であるのに対して、先験的対象は、客観の側における先験的根拠なのである。前者が、限定的であるとは言えあらゆる被限定性を欠く「思想の先験的主観(主語)=X」(A346=B404)であるのと同様、その相関者たる後者もまた被限定性を欠く。それ故、先験的対象は、現象に「常に一様」(A109 Vgl.A253)に対応する「或るもの一般=X」(A104)である。だが、現象が現象ならざるものを指示することは、感性自身の関知せぬところである。また、先験的対象は純粋統覚の相関者であると言われるが、現象がかかるものを指示することは純粋統覚自身にとっても関知せぬところである。感性をも悟性をも考察する哲学的理性が、現象の経験的実在性を保証するものを先験的対象として要請し、それを純粋統覚の相関者として措定するのである。だが、両者が相関することは何を意味するのであろうか。
 カントは、実質的観念論を独断的・心理学的観念論と蓋然的観念論とに区分し(Vgl. B]]]\Anm., B274)、外的現象(外界)の存在を「疑わしく証明し得ぬ」(B274)とする後者を、特に「観念論論駁」の章において論駁する。その論駁は、自己の現存在の経験的に限定された意識、即ち自己認識において成立する具体的自己意識が、外的現象の現存在を前提し、要求することを論証することによって為される。その論証を概略すれば以下の如くである。

 我々は、自己の具体的な現存在を時間において限定されたものとして意識するが、あらゆる時間限定は、直観表象外の持続的なるもの(ein Beharrliches)を時間限定の「realな根拠として前提する。というのは、構想力の形像的綜合が継時的(sukzessiv)な綜合であるが故に、それによって成立する知覚表象もまた継時的であり、絶えず変易し、時間限定の基体たり得ぬからである。先験的対象は、表象の対象としては表象外に存するが、それが根拠づけるものは、個別的な具体的な対象として表象内に存する。かかるものとして、先験的対象は時間限定の本来的基体である。
 ところで、内官の「本来的素材」(B67, Vgl. B]]]\Anm.)は外的直観表象に他ならぬ。それ故、先験的対象は、内的直観表象並びに外的直観表象の先験的根拠であるとは言え、それが根拠づける個別的対象は、直接的には外的直観形式たる空間において表象されるのでなければならない。従って、自己認識における具体的な、時間限定を経た自己意識が成立するためには、外的現象の現存在を「要する(erfordern)」(B278)。

自己認識が成立するためには外的現象の現存在を要するというこの論証の核心は、現象の経験的実在性を保証する先験的対象を要請(要求)する。しかも純粋統覚の相関者として要請する点にある。それを要請することによって、先験的観念論は上述の誤った観念論から自らを区別するのである。即ち、純粋統覚と先験的対象との相関関係は、先験的観念論と経験的実在論との「相互浸透」を意味しているのである。
 さて、哲学的理性は、「先験的感性論」において、物自体と現象との関係を触発・被触発というideellな関係として定立したにすぎなかった。だが、今や先験的対象を現象の経験的実在性の先験的根拠として要請するのである。それは、純粋統覚に相関するものである限り、「先験的感性論」における物自体とは異なる。そこにおいては、統覚の問題は、哲学的理性にとっては自明のことであるにせよ、未だ主題的とはなっていないからである。哲学的理性が先験的対象をかく要請するとは、現象としての物と自体的に考察された物とが二つの異なった物であるのではなく、たとえ後者が認識し得ぬにせよ、両者が「同一の物」(B][)であることを要請することである。この要請された同一性は、哲学的反省以前における同一性とは無論異なるものである。カントは、現象の経験的実在性の問題を、かかる要請によって解決せんとする。だが、要請そのものは如何なる根拠に基づいて為されるのであろうか。先験的対象は、哲学的理性が純粋統覚の相関者として要請し、措定したものであった。だが、このuberindividuellな純粋統覚そのものもまた、既述の如く、哲学的理性の自発性及び自己所与性のindividuellな知的直接的意識にその根拠を有するものであり、それを根拠として言わば要請されたものであった。そうであるならば、その相関者たる先験的対象もまたそうでなければならないであろう。哲学的理性は、知性としての自らの存在の確実性を根拠として、先験的対象を現象(議論の主題からすれば外的現象)の先験的恨拠として要請するのである。しかも、あくまでも未知なる根拠として要請するのである。純粋統覚は、「あらゆる統一の制約ではあるが、やはりそれ自身無制約的である」(A401)と言われるが、純粋統覚の自我を無制約者として求めんとするならば魂の理念が成立する。先験的対象もまた、純粋統覚の相関者たる限り、それ自身無制約者である。それ故、同様に「経験的対象から先験的対象へと上昇せんとする」(A545=B573)ならば、そしてそこに無制約者を求めんとするならば世界の理念が成立する。だが、両理念に関する先験的推論は「媒語二義の誤謬推理(sophisma figurae dictioni)」(A499=B528)に陥るからである。カントは、「我々の外なる物の現存在を……単に信仰(Glauben)に基づいて想定すること」を哲学の「醜聞」(B]]]\ Anm.)とし、それを上述の如く哲学的理性の自己に関する直覚知の確実性によって基礎づけんとするのである。

   四

 individuellな純粋統覚において自己の現存在が既に与えられているとは言え、自己認識は、内官の本来的素材が外的現象である限り、対象認識に即してのみ戊立するものである。即ち、一つの自然の成立に即してのみ成立するものである。このことこそ、「観念論論駁」の章及び「純粋理性の誤謬推理」の章において、カントが主張せんとしたことである。さて、抽象的自己意識たる純粋統覚は、思惟内容を感性的表象に制限(restringieren)されることによって、具体的自己意識として実現する(realisieren)(Vgl. A146=B185f.)。かく実現した自己意識は、統一なき経験的統覚とも、内容なき純粋統覚とも異なり、自らが感性及び悟性として働くことを、従って自らが自然の立法者たることを自覚しているのである。これまでは、感性も悟性も自体的に考察され、両者は互いに何ら関知せぬものとして考察されてきた。だが、今や哲学的理性にとっては自明のことであった感性と悟性とが「共に」働くことの自覚が成立しているのである。従って、この具体的自覚に到達した統覚は、哲学的理性と合一し、自己還帰せねばならない。
 哲学的理性は、その否定的思惟によって、現象に対して物自体を措定した。だが、今や具体的自覚に到達した先験的統覚は、自らの純粋統覚の対象即ち物一般を、現象体(Phaenomenon)と叡智体(Noumenon)とに区別して思惟する(「対象一般を現象体と叡智体とに区別する根拠について」の章)。現象体とは、先験的統覚により「範疇の統一に従って対象として思惟される限りの現象」(A248f.――傍点筆者)である。他方、現象たり得ない、従って現象体たり得ない叡智体は、その否定の仕方に応じて二義的に解される。即ち、叡智体は、消極的意味においては感性的直観の対象でない物を、積極的意味においては非感性的直観の対象を意昧する(Vgl. B307)。だが、既述の如く、カントは根源的・知的直観を人間には認めぬのであるからして、叡智体は消極的意味にのみ解されねばならない。かく解された叡知体は、客観的実存性を有するものではないが、論理的に無矛盾な可能的概念である。勿論、それは論理的可能性にすぎぬ故、叡智体が客観的実在性以外の何らかの実在性を有するか否かは、我々にとっては問題的(problematisch)である。叡智体は、かかるものとして、人間悟性が現象の領域外に蓋然的には拡張され得ることを示す「蓋然的(problematisch)」(B310)概念である。が、叡智体は、感性がかかる蓋然的概念にまでは及び得ぬことを示すことによって感性の越権(Anmaßung)を制限するとともに、悟性自身もそれを蓋然的に思惟し得るのみで認識し得ぬという悟性自身の限界をも示す「限界概念」(A254=B310, Vgl.A256=B312)である。ところで、その限界の意識は何処に成立するのであろうか。カントは、物自体を(@)「先験的感性論」における触発者としての物自体、(A)限界概念としての物自体、(B)「先験的弁証法」における無制約者としての物自体の三様に解する。それらは、現象に対して否定的に思惟された物としては同義であるが、それらの有する意味は何れも異なる。「先験的感性論」における物自体は、感性を自体的に考察する哲学的理性が、その否定的思惟によって措定したものであった。それ故、悟性がそれを思惟し得るということは、哲学的理性にとっては自明のことであるにせよ、感性自身にとっては未だ問題とすらなっていないのである。そうであるならば、限界の意識はそこにおいては成立すべくもない。これに対して、限界概念としての物自体(叡智体)は、感性に表象され得ぬ物自体を悟性が蓋然的にではあるにせよ思惟し得るという自覚に、従って感性と悟性とが「共に」働くことの自覚に成立するものである。即ち、上述の具体的自覚において初めて限界の意識が成立するのである。そして、限界概念を措定することを通じて、哲学的理性と合一するのである。
 ところで、叡智体は「課題(Aufgabe)の表象に他ならぬ」と言われる。即ち、それは、「感性的直観の制約から全く解放された対象が存在しないだろうかという課題」(A287=B344)を示すものである。勿論、具体的自覚においては、現象界の限界とともに、叡智体のこの問題性・課題性もまた自覚されているのである。が、「先験的弁証論」の世界の理念との関連において、次のことが特に重要であろう。限界概念としての物自体(叡智体)は、具体的自覚に到達した統覚によって感性的直観の対象ではない物として措定されたにすぎぬ故、現象の客観的実在性の先験的根拠という意味を有する先験的対象とは区別されねばならない(Vgl. A253)。だが、先験的対象を、「その表象が感性的でないが故に、叡智体と称する」(A288=B345)ことは許される。具体的自覚に到達した統覚は、哲学的理性と合一することにおいて、哲学的理性が要請した先験的対象を、今や自らが自らの純粋統覚の相関者として措定したものであることを自覚している。そして、この先験的対象をも叡智体として表象し、自らが要請した先験的対象の根拠としての課題性をも自覚しているのである。この課題性の自覚こそ、我々の理性をして「現象の諸制約の系列の絶対的統一」(A334=B391)を求めるべく「制約の制約」(A307=B364)へと上昇せしめるものである。
 さて、具体的自覚に到達した先験的統覚が、限界概念を措定することにおいて哲学的理性と合一することは、哲学的理性の側から言えば、哲学的理性がかかる現象界の限界の自覚を通じて自らを「批判理性」として自覚することを意味する。哲学的理性は、最初から自らを批判理性として自覚している訳ではない。批判理性という概念は、「反省概念の二義性について」という章に初めて登場する概念である。既に引用した箇所であるが、物自体が「理性によってそれ自体として考究された」物と言われる時、その理性は未だ「観察者(Zuschauer)」(B]]U Anm.)としての理性にすぎない。それは、「外的観察者(außerer Beobachter)」(A362)としてではなく、内的(自己)観察者としての理性にすぎないのである。哲学的理性は、その自己観察により、あらゆる表象の感性及び悟性に占める「先験的場所」(A268=B324)を限定する。表象の認識能力に対する帰属性をかく限定することによって、哲学的理性は認識可能なるものと不可能なるものとを分かつこと(Einteilung)」(A290=B346)を、従って現象界の限界を自覚するのである。そして、その限りにおいて、「先験的二義性即ち純粋な悟性の客観と現象との混同」(A270=B326)に基づく誤った綜合的原則を批判するものである。即ち、現象と物自体との先験的区別を論理的区別と解するライプニッツの「世界の知的体系」(A270=B326)を、またそれを経験的区別と解するロックの「精神発生論(Noogonie)」(A271=B327)を批判するのである。哲学的理性は、かかる先験的反省の運動において現象界の限界を自覚し、それを自覚することにおいて自己還帰し、自らが現象界と叡智界とを分かつ理性、即ち批判理性であることを自覚するのである。

   五

 以上の如く、カントの理性批判は、哲学的批判理性による先験的反省の運動の記述、理性の自己認識の記述と解される。ところで、哲学的理性の感性に関する反省的思惟そのものも、また純粋統覚の直覚的定立もindividuellな性格を有するものであった。かかる性格こそ、哲学が記述的でない限り学び得ず、「せいぜい哲学することを学び得るにすぎない」(A837=B865)と言われる所以である。だが、哲学的理性は、一般(überhaupt)という語で表現されるüberindividuellな感性及び悟性をその考察の対象とするのである。哲学的理性は、純粋統覚に関して言えば、それを直覚的に定立する。そして、既に少し触れておいたが、それを他の物へと「すり換える」ことによってüberindividuellな「思惟する存在者一般」(A347=B406)を、即ち規範的な意識一般を要請するのである。カン卜は、純粋理性の誤謬推理について」の章において、思惟する存在者としての他我の問題に言及し、次の如く、他我の承認がこのすり換えに基づくことを主張する。即ち、他の物が思惟する存在者として表象されるのは、「この私の意識を他の物へと転ずること(Übertragung dieses meines Bewußtseins auf andere Dinge)」(A347=B405――傍点筆者)によってのみである、と。哲学的理性は、成程外界の存在を保証し得る程確実な、自らの力学的実在性の知的直接的意識を有する。だが、それはwas及びwieに関しては空虚なものであった。この内容の空虚さの故に、「私は私自身を他者(即ち外的観察者――筆者付注)の観点から考察する」(A362, Vgl.A364)ことができるのである。即ち、思惟する存在者としてのこの私は、かかる空虚さの故に、直ちに「思惟するこの私、或いは彼、或いはそれ(物)」(A346=B404)でもあり得るのである。
 ところで、かかる哲学的理性による直覚的定立とすり換えは、純粋統覚に関してばかりではなく、「先験的感性論」においても暗黙の内に主張されているのではないだろうか。カントは、空間が経験的概念ではないことを次の如く論証する。

 (α) 「或る感覚が私の外なる或るものへと(即ち、空間中の、私自身がその内に存在しているのとは別の場所にある或るものへと)関係づけられるためには、また、私が、それらの感覚を相互に外在的或いは並存的なものとして、従って単に異なっているのではなく異なった場所にあるものとして表象し得るためには、空間の表象が既に根底になければならない」(A23=B38)。従って、空間は経験的概念ではない。

この論証は、個別的主観の感性における如何なる経験的表象も、即ち経験的直観表象も感覚表象も空間表象なくしては成立し得ぬという経験的事実に基づくものである。即ち、その前段は、具体的認識活動においては現象と不可分である感官の感覚表象が、感覚に対応する現象の質科に関係し得るためには空間表象を要するという事実を主張するものである。また、その後段は、感覚表象を相互に質的のみならず場所的に区別するためには空間表象を要するという事実を主張するものである。哲学的理性は、この経験的事実を承認する。経験は、空間表象を「除去しては考えられぬという必然性」を示すからである。勿論、時間に関しても同様の論証が成立する。ところで、私が、私の身体が空間中に占める特定の場所(視点)から、感覚表象を現象に関係せしめ、感覚表象を相互に区別するという場合、差し当って問題となっているのは、個々の経験的表象と個別的主観との関係によって成立するパースペクティヴを有する経験的な空間表象である。また、私自身を他者の観点から考察する場合、「その観察者が私をそこへと措く(setzen)ところの時間は、私自身の感性において見出される時間ではなくて、彼の感性において見出される時間である」(A363)と言われる。が、その場合の時間表象もまた同様の時間表象であろう。これに対して、「直観の公理」の章においては、一様な空間表象及び時間表象が語られる。純粋直観としての根源的量quantumと量の範疇quantitasとは、quantitasの図式たる「数(Zahl)」(A142=B182)を媒介として綜合され、部分としての「一定の空間或いは時間の表象が産出(erzeugen)」(B202)される。この「外延量」(A162=B203)としての部分空間及び形像化(空間化)された部分時間を産出する「集合(Aggregation)の綜合」(B201 Anm.)は、数を媒介とする綜合であるが(数とは「一(即ち単位――筆者付注)を(同種的なる)一に継時的に付加することを含む表象」(A142=B182)である。カントは、この同種的単位の継時的付加ということで、自然科学において計測される外延量としての部分空間及び部分時間の一様性を端的に主張しているのであろ。だが、集合の綜合が、「あらゆる綜合判断の媒語」(A155=B194)たる時間を媒介とする綜合である限り、その一様性は純粋直観としての時間にも基づくものでなければならない。だが、純粋直観としての時間が、また空間が一様であるとはどういうことなのであろうか。
 カントは、空間及び時間が経験的概念ではないことを論証した後((α)参照)、それらが経験的直観表象の根底に存するア・プリオリな必然的表象であることを、次の如く論証する。

 (β) (α)で示された経験的事実とは反対に、かの経験的表象から経験的なる感覚表象及び経験的なる現象の質科を全て分離・除去しても、空虚な、純粋な空間及び時間は「考え得る」(A29=B38)。従って、空間及び時間は云々。

さて、純粋な空間及び時間がかかる捨象の後にも残存し得ることは、何ら経験的事実ではない。また、哲学的理性がその構想力によりそれらを捨象するにせよ、それは不定へと(in indefinitum)進まざるを得ないであろう。そうであるならば、両者がかかる捨象によっても残存すると言われる時、それは、哲学的理性が直覚的に「構想的実在(ens imaginarium)」(A291=B347)として定立したのであると言わざるを得ないのではないだろうか。カントは、この論証に引続いて、空間及び時間は、部分表象を「自己の内(in sich)」(B40)に含む故に、直観表象であると論証し、両論証から空間及び時間が純粋直観(直観形式)であると結論する。

 ところで、哲学的理性は、個別的主観の感性における経験的表象を、差し当ってはその考察の対象とした。だが、哲学的理性は、かかる経験的表象において、経験的なる感覚表象を、それが主観性・偶然性を免れぬという経験的反省に基づき捨象するのである。そこに、先験的意昧における現象が成立するが、哲学的理性は、更に、経験的なる現象の質料をも捨象し、そこに残存するものを直覚的に定立するのである。が、かく直覚的に定立された純粋直観は、経験的なるものを全て捨象したものであるが故に、個々の現象の質料が有していた個別性を失っている。それ故、純粋直観は、如何なる現象の質料に対しても一様にその制約たり得るのである。即ち、純粋直観は、現象一般の形式、「感性的直観一般の純粋形式」(A20=B34――傍点筆者)なのである。また、それとともに、感覚表象及び現象の質料が有していた個別的主観に対する関係の個別性(パースペクティヴ性)をも失っているのである。それ故、純粋直観は如何なる人間感性に対しても一様にその制約たり得るのである。即ち、哲学的理性は、純粋直観を直覚的に定立することにおいて、それを他の感性にも適用し、純粋直観を人間感性一般の形式とするのである。
 さて、以上の如く、カン卜の理性批判には、純粋統覚に関しても純粋直観に関しても、哲学的批判理性の直覚的定立とすり換えが存するのである。が、そうであるならば、哲学的批判理性は、単に先験的反省を遂行しそれを記述する契機であるばかりでなく、理性批判全体をその根底から支えている契機であると言えよう。即ち、カントの先験的観念論を先験的観念論として支えているのは、哲学的批判理性であると言えよう。
 だが、そこには問題があるのではないか。カントは、かかる直覚的定立とすり換えによって、überindividuellな、規範的な純粋統覚及び純粋直観を言わば要請する。それは、「真の、或いは厳密な普遍性」(B3)を有するア・プりオリな綜合判断の事実性を承認するが故の要請である。勿論、この事実性も問題ではあろうが、ここでの問題はそれではない。純粋直観に関して言えば、経験的表象を全て捨象するという仕方で、我々はそれを果して考え得るであろうか。また、よしんば、「精神の働きそのものから……あたかも不変的な範型として、従って直観的に認識し得るものとして抽象された」と言われる如く、純粋直観が直覚的に定立されたものであるとしても、哲学的理性がそれを直覚的に定立し得るというその根拠は何なのであろうか。純粋統覚に関しても同様であるが、仮にその直覚的定立を認めるにせよ、そこにはやはり問題がある。哲学的批判理性によるすり換えは、「先験的弁証論」における「先験的すり挨え」(A619=B647)に比すれば、「合法的」と言い得るかもしれぬ。だが、individuellな純粋統覚のüberindividuellな純粋統覚へのすり換えが、哲学的批判理性による一方的な承認である限り、哲学的批判理性は自らのindividuellな性格を克服し得ないのではないだろうか。だが、それが克服し得るとしなければ、認識の普遍妥当性は成立しないのである。哲学的批判理性による直覚的定立とすり換えは、先験的観念論をその根底から支えるものではあるにせよ、かかる問題を孕んでいるのである。

   注

(1)カントからの引用は、カッシーラー版(Immanuel Kants Werke, hrsg. von E. Cassirer)に依る。『純粋理性批判』からの引用は、巻数を略し、その頁数を第一版をA、第二版をBとして本文中に記した。
(2)Kant, Werke, Bd. W, S.69, Vgl.A849=B877
(3)Vgl. B]]T Anm., Bd. W, S. 121, Bd. X, S. 175f., Bd. Y. S, 16 Anm., auch Vgl. H. Vaihinger, Kommentar zu Kants Kritik der reinen Vernunft, Scientia Verlag Aalen, 1970 (zuerst 1922), Bd.U. S, 120-23
(4)auch A62=B87, A305=B362, Vgl.B5, A21=B35, A22=B36, A27=B43, A32=B49 usw.特に、A27=B43, A32=B49において isolierenという語がabstrahierenと言い換えられている点に注意。
(5)auch A787=B815, Bd.W, S.8.
(6)Vgl. A28f., A45=B63.
(7)H. Vaihinger, Kommentar, Bd.U, S.460-466.既述の如く、経験的意味における「現象」と「物自体」とは、具体的認識活動においては不可分である。即ち、経験的直観表象が常に感覚を介するものであると言われる様に(Vgl.A20=B34)、その未限定なる対象たる現象は感覚表象と不可分である。が、感覚表象と直観表象とが区別される場合、それは単に量的区別であるばかりではなく、なお質的区別をも保存している。
(8)G.Praus,Kant und das Problem der Dinge an sich, Bouvier, Bonn, 2. Aufl., 1977, S. 13-23.
(9)カントは、an sichをohne Rucksicht auf...や、それに類する表現でもって説明することによって、その否定的意味を明確にしている。Vgl. A29=B44, A36=B52, A38=B55, A42=B59, A48=B65, B70Anm., A190=B235 usw.
(10)H. Vaihinger, Kommentar, Bd.U, S.53.
(11)Kant,Werke, Bd.W. S. 112 Anm.
(12)フィヒテも「知識学への第一序論」において、「知性(Intelligenz)は、かかるものとして自己自身を見る。そして、この自己自身を見るということは、知性であるところの全てに直接的に関係する。存在することと見ることとの直接的合一に知性の本性は存する」と言う。Fichte, Werke, hrsg. von I.H.Fichte, Bd. T, S. 435.
(13)Kant,Werke, Bd. X, S. 131.
(14)フィヒテも「哲学者は意識の事実としてのこの知的直観を……直接的に、自らの意識の孤立した事実として見出すのではない」と主張する。即ち、知的直鴇は、「盛性的直観との結合においてのみ可能」なのである。Fichte, Werke, Bd. T, S. 465 u. 464.
(15)Kant, Werke, Bd. W. S.87Anm.実践的的領域においても同様の表現が用いられる。実践的自由が「経験によって証明され得る」(A802=B830)とか、「理性的存在者の意志は……実践的なものにおいても……物の叡知的秩序において規定可能な自らの現存在を存在者それ自体として意識する」(Bd.X, S. 48)とか、「現存在の叡知的意識」(Bd.X, S. 108)といった表現が用いられている。
(16)H. Heimsoeth, Personlichkeitsbewustsen und Ding an sich in dar Kantischen Philosophic, Kantstudien, Erganzungshefte 71, 1956, S. 249 u. 254.
(17)Kant, Vorlesung uber dir Metaphysik, hrsg. von K.H.L.Politz, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 1975 (zuerst 1821), S. 135.
(18)フィヒテも知的直観に関して、「各人が直接的に自らの内に見出さねばならない」(傍点筆者)と言う。Fichte, Werke, Bd. T, S. 463.
(19)Kant, Werke, Bd. U, S.410.
(20)Kant, Werke, Bd. U, S.228.
(21)auch B132, A401.
(22)auch A139=B178, BXXVII, A35=B51, B113, B114, A108 usw.
(23)カントは仮象(Schein)という語を、(@)現象の対概念として、(A)真理の対概念として用いる。ここでは(@)の意。H. Vaihinger, Kommentar, Bd.U, S.488.
(24)H. Heimsoeth, ibid. S. 240.
(25)Kant, Werke, Bd. W, S. 68.
(26)カントは、この章を「付録(Anhang)」としている。だが、この章は、その直前の章「あらゆる対象一般を現象体と叡知体とに区別する根拠について」と同様、単なるまとめやや付録にすぎぬものではないと筆者は考える。それらは、現象界の限界の自覚を通じて具体的統覚が哲学的理性と合一することを主張せんとするところに、その意義を有するのである。
(27)「自己自身を思惟する存在者の位置に措く」(A353)、「あらゆる意識の定式と共に、我々自身をあらゆる他の知的存在者の位置に措く」(A354)、「自我という内容において全く空虚な表現を、私はあらゆる思惟する主観に適用(anwenden)し得る」(A355)といった同様の表現をも参照。
(28)H.Vaihinger, Kommentar, Bd. II. S. 188.
(29)Kant, Werke, Bd. II. S.422.
(30)H.Heimsoeth, Transtendentale Dialekiik, Walter de Gruyter, Berlin, 1966, 1. Teil, S. 111.

付記 本稿は一九八一年十月二四日、島根大学で行なわれた「関西哲学会第三四回大会」において「カントにおける物と自我」の表題で口頭発表したものを基に、改題し加筆したものである。

(博士課程学生)


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