カントにおける時間と空間との関係

                                           山本博史

 ギリシア語κρινω(分かつ)に由来するKritikは、「可能なるものと不可能なるものとに区分すること」(1)(A290=B346)を意味する。即ち、『純粋理性批判』は、認識可能なるものと認識不可能なるものとを分かちつつ、理論理性の範囲、妥当性、価値を限定することを本旨とする。ところで、カントに従えば、認識可能なるものは感性によって我々に与えられなければならない。現象と物自体との「先験的区別」(A45=B62)は、所与質料を前提せざるを得ぬという質料に関する感性の被制約性(所与性)にその根拠を有する。その感性の形式たる時間と空間とは本来並列的であるが、時間はあらゆる表象を(従って空間表象すらをも)自己内に包括する総括として空間に対して優位を占める。しかし、時間は形像化(空間化)されることによってのみ経験的に表象され得るという欠点を有する。時間限定は空間表象を欠いては不可能である。この点に於て、空間は時間に対して優位を占める。両者は、単に並列的なのではなくて相互限定的なのである。小論は、カントの時間論及び空間論をそのものとして考察するのではなく、かかる時間と空間との優位性の関係を考察するものである。即ち、小論の意図は、時間の優位性と空間の優位性とが如何なる根拠に基づき、如何に連関しているか、更にそれはカントの理論哲学に於て如何なる意味を有するのかを考察することにある。

   一

 周知の如く、カントに於て時間並びに空間は感性的直観の純粋形式である。時間は、それが我々のあらゆる表象を「自己の内に包括する(in sich begreifen)」(A216=B263)「総括(ein Inbegriff)」(A155=B194)である限り、あらゆる現象のア・プリオリな感性的、形式的制約であり、「あらゆる綜合判断の媒語としての第三者」(2)である。これに対して、空間は時間と共に直観形式でありながらかかる媒語たり得ない。このことは、時間と空間とがそれぞれ内的直観形式並びに外的直観形式としてただ単に並列的であるということを遥かに超えた事態を意味する。 時間は何らかの意味に於て空間に対して優位を占めているのである。時間のかかる優位性は、「先験的感性論」に於て一層明確に示されている。即ち、空間及び時間の「形而上的究明」に於て、空間が「あらゆる外的直観の根底に存するア・プリオリな必然的表象である(傍点筆者)」(A24=B38)と言われているのに対して、時間は「あらゆる直観の根底に存する必然的表象である(傍点筆者)」(A31=B46)と言われているのである。このことは、時間が空間表象の根底にすら存することを意味する。ところで、時間が何らかの意味に於て空間に対して優位を占めているということは、果して「先験的感性論」の論証法から薄出され得るのであろうか。或いは、時間と空間とが直観形式として並列的ではないということが導出され得るのであろうか。我々は、先ずこの点について考察しなければならないであろう。
 「先験的感性論」は先ず第一に、悟性が概念によって思惟する一切のものを経験的表象から「分離する(absondern)」ことによって感性を「孤立させる(isolieren)」(A22=B36)。このように感性を孤立させることは、悟性を孤立させること(或いは理性を孤立させること)と共に(3)、批判の本質的方法である。感性によって対象が我々に与えられ、悟性によってそれが思惟されるということの内には、言うまでもなくそれらの時間的前後関係は合意されてはいないo むしろ、「あらゆる我々の認識は経験と共に(mit)始まる」(B1)と言われる如く、「与えられる」と「思惟する」とは「共に」「同時に(zugleich)」(B161)成立するのである。それ故、我々の認識が有するこの「共に」という性格を解体し、認識を可能ならしめている要素に分かつことなくしては、批判は成立し得ない。感性を或いは悟性を孤立させるとは、かく分かつことを意味するのである。カントは、悟性に属する一切のものを感性から分離し感性を孤立させた上で、時間と空間とが直観形式であることを論証する。「形而上的究明」の論証法を極めて簡単に示せば以下の如くである。

(@)時間及び空間が経験的直観表象のア・プリオリな根拠であるということの論証。あらゆる悟性的要素を分離した後に残存する経験的直観表象から、感覚に属する一切のものを分離し(absondern)除去する(weglassen)(4)。そこになお残存する(ubrigbleiben)もの、即ち時間と空間とは、経験的直観表象から経験的(empirisch)なるあらゆる感覚的要素を除去しても、なお「構想的実在(ens imaginarium)」(A291=B347)として成立し得る。これに対して、如何なる経験的直観表象も時間及び空間なくしては成立し得ない。従って、時間及び空間は、あらゆる経験的直観表象のア・プリオリな根拠としてその根底に存する(zum Grunde liegen)。(A)時間及び空間が直観であるということの論証。概念は、形式論理学的な意味に於ては、多くの特殊からその共通の微表を抽象することによって構成されるものであり、従って多くの特殊をその構成要素として前提するものである。即ち、概念は、その部分表象を前提してのみ成立し得るのであり、それらを「自己の下に(unter sich)」(B40)包括している。ところで、時間及び空間はtotum(5)であり、それらの部分表象はtotumを前提し、それを限定することによってのみ可能である。即ち、totumはその部分表象を「自己の内に(unter sich)」(B40)包括している。従って、時間及び空間は概念ではなく直観表象である(6)。(B)「形而上的究明」の論証法は以上の如きものであるが、そこに於ては未だ時間及び空間が直観形式であることの論証は行われていないようにも思われる。そこで、それらが直観形式であることをカントが如何に論証しているかを、我々は考察しなければならない。さて、悟性的なるものの分離による感性の孤立化とは、既述の如く悟性的要素と感性的要素とを分かつことを意味するものであった。ところで、かく分かたれた感性的要素(経験的直観表象)に於て、感覚的要素を分離・除去し時間及び空間を残存せしめるということもまた同様に、そこに於て根拠ならざるもの(感覚的要素)と根処をなすもの(時間及び空間)とを分かつということを意味する。批判は、根拠ならざるものを枚挙しそれらを順次分離・除去することによって、それらを根拠をなすものから分かつという方法を、その本質的方法としているのである。「孤立させる」、「分離する」、「除去する」といった語は、かかる方法を明確に示しているのである(7)。さて、今一度論証(@)を論証(B)を加味してこの観点から図示すれば、以下の如く示される。(点線内)

        ┌悟性的要素(例、実体、力等)
経験的表象                                              ┌感覚的(経験的)要素(例、色、硬さ等)
(例、物体) └感性的要素=経験的直観表象
                            └アプリオリな直観表象=時間・空間

この論証(@)及び(A)から、時間と空間とがア・プリオリな直観表象であることが帰結する。更に、時間及び空間は経験的(empirisch)なる要素を全く除去しても構想的実在として成立し得るが故に、ただ単に「あらゆる経験に全く依存しない」(B3)という意味でア・プリオリな直観表象と術語づけられるばかりでなく、「如何なる経験的なるものもそれに混入していない」(B3)という意味で純粋(rein)直観と術語づけられる。ところで、根拠ならざるものと根拠をなすものとを分かつという上述の分析的方法に於ては、「二分法(Dichotomie)」(8)が本質的な区分法をなす。先の論証に於ては経験的とア・プリオリ(厳密には純粋)との二分法が成立していたのであるが、カントはそこに今一つの二分法を暗黙の内に持ち込んでいるのである。それは、「他の(先験的反省以外の――筆者注)あらゆる反省の根底に置かれる」ところの、「限定され得るもの一般」を意味する質料(Materie)と「その限定」を意味する形式(Form)との二分法である(A266=B322)。さて、経験的直観表象に於ける感覚的要素は、先の場合には経験的(empirisch)なるものとして考察された。ところが今や、この同じ感覚的要素は「現象に於いて感覚に対応するものを現象の質料と名づける」(A20=B34)ことによって質料として考察されるのである。かかる質料を全く欠く(従って空虚な)純粋直視は、この第二の二分法によってその純粋性が形式に置き換えられるのである。以上のことを第一の二分法の場合に対応させて図示すれば以下の如くである。

            ┌感覚的(質料的)要素
経験的直観表象
            └直観の形式=時間・空間

 さて、以上の方法によって論証されることは、(その論証の成否は別として)時間並びに空間が感性的直観の形式であるということにすぎない。更に、内的と外的という二分法によって内官と外官とが、内的直観形式と外的直観形式とが分かたれはするが、時間と空間との何れか一方が他方に対して何らかの意味に於て優位を占めるというようなことは、如何にしても論証され得ない。以上の論証法に従う限り、両者は本来的には、即ち直観形式としては内的と外的との違いこそあれ並列的でなければならないはずである。
 時間は空間に対して何らかの意味で優位を占める。しかし、それは如何なる意味に於てなのか。また如何なる根拠に基づいてなのか。冒頭に述べた如く、時間はあらゆる表象を(空間表象すらをも)自己内に包括するものである限りに於て、空間に対して優位を占める。ところで、時間が総括であるということの論拠は、我々のあらゆる表象はそれ自体「心性の諸限定」(9)或いは「心性の変様」(10)として心性の内的状態に属するということに尽きるであろう。しかし、それが論拠たり得るためには心性の諸限定を諸限定として、変様を変様として自覚することが前提されなければならない。即ち、何らかの統覚なくしては時間の優位はあり得ないのである。時間の空間に対する優位は、感性に対して何らかの統覚が働く限りに於て成立するものであり、統覚がその根拠である。がしかし、一体如何なる統覚が時間の優位の根拠たり得るのであろうか。さて、カントに於て統覚は経験的統覚、純粋統覚、先験的統覚の三様に解されている。それ故、我々はそれぞれの統覚について、それが時間の優位の根拠たり得るかどうかを順次考察しなければならない。
 カントに従えば、現象(Erscheinung)とは「経験的直観の未限定(unbestimmt)な対象」(A20=B34,Vgl.A69=B94)である。ここで未限定とは未だ如何なる綜合をも経ていないということを、即ち単なる所与性を意味するものである。かかる未限定な直観表象は、それを限定することによって「限定された直観」(11)表象へと綜合されなければならない。ところで、カントは「多様なるものを多様なるものが直観に現れるがままに結合する」(A129)という直観表象の直観に即した綜合を、生産的構想力の「形像的綜合(synthesis speciosa)」(12)と名付ける。(それは、時間が総括である限り、先験的意味に於ては時間表象の時間に即した綜合に他ならない。)限定された直視表象は、この形像的綜合によって「内官が限定されることを意識してのみ可能」(B154)なのである。ところで、形像的綜合は「自発性の行使」(B151)であるとはいえ、経験的所与たる直観表象に即した綜合である限り感性的なる綜合である。形像的綜合が感性的なる綜合であるということは先ず第一に、それが総括としての時間に即した綜合である限り、直観表象がその内に存するところの部分時間の相前後して継起する(nacheinander folgen)という性格を担わざるを得ないということを意味する。即ち、この綜合が覚知(Apprehension)再生(Reproduktion)という「継時的綜合」(B155Anm.)であることを意味する。第二に、形像的綜合は「悟性綜合(synthesis intellectualis)」(B151)の如き作用規則を、また作用の統一を有さないということを、従って「盲目的」(Vgl.A78=B103)なる綜合であるということを意味する。この構想力の形像的綜合に於て成立する統覚が「経験的統覚」(A107)なのである。経験的統覚は、経験的所与に即しているが故に自らもまた「単に経験的」(A107)であり、所与が可変的であるが故に自らもまた「常に可変的」(A107)である。さて、形像的綜合が統一なき盲目的綜合である限り、そこに成立する経験的統覚は経験的所与に全く没入し、意識される表象が凡て自らの表象であるという意識を欠いている。それ故、一つの意識という数的同一性を欠き「それ自体ばらばらになっている(an sich zerstreut)」(A120,B133)統一なき経験的統覚に於ては、個々の所与表象が意識と結合し知覚が成立するとしても、それはかかる個々ばらばらの意識と結合するにすぎず、従って常に「断片(eine Rhapsodie)」(A156=B195)でしかあり得ず、そのような「表象の単に無規則な累積(傍点筆者)」(A121)は「表象の盲目的な戯れ(傍点筆者)」(A112)にすぎない。さて、このように断片的なる経験的統覚に於ては、我々のあらゆる表象が心性の変様であるとは決して自覚され得ないことは言うまでもない。意識の統一性、自同性なくしては変様は変様として自覚され得ないからである。従って、経験的統覚は時間の優位の根拠たり得ない。
 さて、盲目的なる形像的綜合に於ては、意識も意識される表象も断片的であったが、個々の表象が凡て自らの表象であるということを、換言すればそれらの表象に於ける意識の同一性を分析的に再認(Rekognition)し得るのは、意識の綜合的統一を前提してのみである。かかる意識の綜合的統一の根源的根拠は、「我々の凡ての表象に対する相関者をなす、立ち続ける自我」(A123)の意識としての純粋統覚である。純粋統覚は、「あらゆる他の表象に伴わざるを得ず、かつあらゆる意識に於て同一である我思うという表象すらをも生み出す」(B132)自発性の作用の根源的根拠として、即ち悟性綜合の根源的根拠として形像的綜合に作用規則を、また作用の統一を与えつつ、そこに於て自己の「汎通的同一性」(B133)を自覚する。しかし、純粋統覚の純粋性が術語的には経験的所与としての直観表象を抽象することを意味する限り、それは「思惟する主観の自己活動の単なる知的表象」(B278)にすぎず、「空虚」(13)であり「あらゆる表象の内で最も貧しい表象」(B408)である。純粋統覚が盲目的なる形像的綜合に対して与える作用規則、即ち範疇はあらゆる感性的制約を「分離」(A147=B186)すれば多様なるものを一つの意識に於てア・プリオリに概念把握するという単なる思惟機能を意味するにすぎず、従って単に論理的(先験的)意味しか持たず(Vgl.A248=B305)、「客観的実在性を欠く単なる思惟形式」(14)であると言われる。それはかかる空虚さを示すものである。さて、変様を変様として自覚し得ぬ断片的なる経験的統覚に対して、なるほど純枠統覚に於ては自己の汎通的同一性の意識は成立し得る。しかしながら、その自同性の意識は未だ空虚な抽象的なものにすぎない。純粋統覚は、それが正に純粋であるが故に、我々のあらゆる表象が心性の変様であるという経験的所与に関する具体的なる自覚の根拠、従ってまた時間の優位の根拠とはなり得ないのである。
 さて、純粋統覚が不変的・持続的であるとはいえ、未だ抽象的なる思惟機能としての自同性の意識であるにすぎない限り、それは「感性化」(A51=B75,A240=B299)されることによって経験的直観表象から具体的なる思惟内容を獲得しなければならない。他方、構想力の形像的綜合は、それが盲目的である限り「知性化」(A124)或いは「悟性化」(A51=B75)されることによって、綜合に於ける作用規則を獲得しなければならない。ここに相互媒介による高次の綜合が成立する。カントはそれを「構想力の先験的綜合」(B151)と名付けるが、それは具体的には「純粋悟性概念の図式機能」であり、その先験的所産は「先験的図式」である。それは感性の側から言えば、時間表象の時間に即した綜合たる盲目的な形像的綜合とは全く異なり、作用規則を与えられ綜合作用に於ける統一性を獲得した構想力の行う時間限定、即ち「先験的時間限定」(A138=B177)である。それはまた悟性の側から言えば、経験的所与を抽象するが故に思惟に於ては「物一般」(15)に関係し得る純枠統覚が、経験的直観表象(現象)に関係せしめられることである。即ち、思惟に於て「無制限の領域」(B166Anm.)を有するその思惟形式たる範疇が、経験的直観表象に制限されることである。このことは、時間が我々のあらゆる表象の総括である限り無時間的なる範携の時間化を意味する。
 ところで、この高次の綜合は感性の側から見て構想力の先験的綜合と名付けられるのであるならば、悟性の側から見て先験的統覚と名付けられるであろう(16)。先験的統覚がこのように解されるのであるならば、それは純粋統覚以上のものでなければならない。先験的統覚は、純粋統覚の如き不変的であるとはいえ思惟形式として機能することに於ける単に抽象的なる自己意識ではない。それは、経験的所与によって具体的なる思惟内容を与えられ、即ち思惟機能が経験的所与に制限(restringieren)され、そのことによって自らの純粋性・抽象性を失い具体的なるものとして実現(realisieren)した自己意識である。換言するならば、先験的統覚は自ら感性として、また悟性として働き、その働きを自らの働きとして自覚している認識主体の具体的なる根源的同一性の意識である。ところで、先験的統覚をかく解しながらも、カントに於て先験的統覚は純粋統覚から明確には区別されていないのではないかという疑問がある。しかし、カントに於て「先験的」と「純粋」とが術語的に区別されている以上、やはり両者は区別されるべきである。更に、以下の論拠から両者が実際に区別されていることを我々は充分に認め得るであろう。「(悟性の可能性すらも、それに基づいているものとしての)統覚」(17)についてカントが語る場合、それは言うまでもなく純粋統覚を超えている。現象はそれ自体としては、即ち何らかの統覚に対する関係なくしては「我々にとって無」(18)である。即ち、それが我々に対して対象となるためには統覚に関係しなければならない(Vgl.B138,A177=B220)。この意味に於て、感性の可能性が統覚に基づいていることは言うまでもない。しかし、感性の可能性ばかりでなく悟性の可能性すらもそれに基づいているような統覚とは、感性と悟性という両極の根源的根拠としての統覚であり、「あらゆる悟性使用が、全論理学すらが、そしてその後には先験的哲学がそれに結びつけられねばならないところの最高点」(B134Anm.)と称される統覚なのである。
 先験的統覚が以上の如き統覚と解されるならば、時間の優位性の根拠となる統覚が正にこの先験的統覚でなければならないことは今や明白である。既述の如く、時間と空間とはそれ自体として考察するならば、即ち統覚への関係なくして考察するならば並列的である。しかし、先験的統覚は自ら感性として、また悟性として働き、その働きを自己の働きとして自覚することを通じて――ここでは特に、自己の一方の極としての感性の動きを自己の働きとして自覚することを通じて――自己のあらゆる表象が心性の変様に他ならぬと自覚し、従ってまた、それらが自己の内的状態に属すると自覚し、その限りに於て時間をあらゆる表象の総括として定立するのである。時間の空間に対する優位性は以上の如く解される。

   二

 純粋直観としての時間並びに空間は、量的に未限定なる部分表象を自己内に包括しているtotumであり決して合成体(compositum)ではない。しかし、totumの自己限定として限界づけられ、部分として産出された時間並びに空間は合成可能である。直観表象は、未限定ではあるが量的に限定可能なるもの、即ちquantumであるが、quantumとしての時間並びに空間は形像化されその「限界」(A169=B211,A208=B253)則ち瞬間並びに点によって限界づけられ、量の範疇(quantitas)によって限定されることによって、一定量を有する部分時間並びに部分空間として「産出(Erzeugung)」(19)される。かかる同種的なるものの「集合の綜合」(B201Anm.)によって外延量として産出された部分時間並びに部分空間は「実在的合成体(ein compositun reale)」ではなくて「観念的合成体(ein compositum ideale)」(A438=B466)と称せられ得る。ところで、時間並びに空間は本来直観形式であり、直観表象としては全く空虚な表象(純枠直観)であり、直観される対象ではない。即ち、如何にしても対象としては表象され得ないものである。それにもかかわらず、一定量を有する部分時間並びに部分空間が対象として表象され得るものとして成立し得るのは、生産的構想力の形像的綜合によって本来対象としては表象され得ぬ時間並びに空間が形像化され対象として表象されるからである(20)。ところで、形像はそれ自身空間的表象である。それ故、時間が形像化されるということは、それが外的直観表象に即して表現されることを(Vgl. A33=B50, B277)、即ちその外的形像的表象たる一本の直線によって経験的に表象されることを意味する(Vgl.B154ff.,B292)。既述の如く、生産的構想力の形像的綜合は先験的には時間表象の時聞に即した綜合ではあるが、この綜合はその名の示す通り空間的なる形像を媒介とする綜合なのである。それ故、時間はかく形像化され量の範疇によって限定されて一定量を有する部分時間として産出されるとしても、その産出された部分時間は常に一定の「時間の長さ(die Zeitlange)」(B156)として産出されたのであり、常に形像化・空間化されているのである。(時間の限界、即ち瞬間が時点(Zeitpunkt)(21)或いは時間の位置(Zeitstelle)(22)と言われるのも同様のことを示唆している。)さて、このように時間が一定量を有する部分時間として成立するためには、それが常に空間化されなければならないということは、時間の「欠点」(A33=B50)を示すものである。そして、この欠点を通じて先の時間の空間に対する優位性は逆転する。そこで以下に於て、我々は空間が如何なる根拠に基づいて時間に対して優位を占めているかを考察するのであるが、その根拠を我々は「経験の類推」及び「観念論論駁」の章に見出すことができるであろう。
 周知の如く、カントは持続性(Beharrlichkeit)、継起(Folge)、同時存在(Zugleichsein)を時間の三様相と名付けてはいるが、それらは勿論時間そのものの性格を意味するものではない。むしろ、それらは現象の現存在の時間的限定の三つの在り方に他ならない。即ち、持続性は量(持続)としての時間そのものに対する現象の現存在の関係を、継起は系列としての時間に於ける現象の現存在相互の関係を、同時存在は総括としての時間に於ける現象の現存在相互の関係を意味する(Vgl.A215=B262)。後二者が時間に於ける現象の現存在相互の関係であるのに対して、持続性が時間に対する現象の現存在の関係であるということは、それらの性格の相違を示すものであろう。しかし、このことは何に由来するのか。また、これら三様相は「持続的なるものが実際に存在する仕方」(A182=B226)であると言われるが、それは如何なる意味に於てなのか。しかし、我々はその前に時間そのものの性格について考察すべきであろう。
 時間は、あらゆる表象がその内に含まれるものである限り、唯一性という性格を有する。既述の如く時間はtotumであるが、それがtotumであるとは、量的に未限定であるとはいえ一者をなしているということである。つまり「ただ一つの時間のみが存在する」(A188f.=B232)のである。更に時間は、それが内的直観の「持続的形式」(B163,Vgl.A183=B226)である限り、自己同一的な持続的なものでなければならない。(このことは空間に関しても同様である。)「現象のあらゆる変易がそこに於て思惟されるべき時間は持続して変易しない」(24)と言われる如く、時間は現象の継起的存在及び同時存在を包括しつつ、それらの可能性の根拠としてその基底に自己同一的に拡がるものである。時間は、かかる意味に於てあらゆる現象の「基体(Substrat)」(B224)と称せられ得る。時間そのものの性格はカントに従う限りこのようなものでなければならないであろう。既述の如く「同時性と継起性とは時間に於ける唯一の関係である」(A182=B226)が、同時性は時間そのものの性格ではなく、同一の時間に於ける現象の現存在相互の時間的関係であるにすぎない。また継起性も時間そのものの性格ではない。時間そのものに継起を付加するためには、この継起を可能ならしめる別の時間を前提しなければならないからである(Vgl.A183=B226)。時間そのものは決して継起的性格を有するものではない。それにもかかわらず、「時間そのものに於てはその凡ての部分は同時的にではなく相前後して存在する」(A183=B226)と言われる。これはtotumとしての時間そのものの性格ではなくて、totumの内に包括される量的に未限定な部分時間相互の時間的関係を意味するものである。時間及び空間は「ursprungliche quanta」(A411=B438,A725=B753)としては共に「quanta continua」(A169=B211)であるが、quantumとしての空間の連続性が、その部分が同時的に存在する言わば集合的な連続性であるのに対し、quantumとしての時間の連続性は、その部分が継起的に存在する言わば系列的な連続性である。時間そのものは、基体としては自己同一的、持統的であるが、その内に包括される部分表象としての時間は「流過する(流れ去る)」(A170=B212)という語によって表現される連続性、即ち継起という性格を有する。
 さて、かかる基体としての時間に於て現象の継起的存在及び同時存在は可能であるとしても、時間そのものが知覚され得ない(25)のである以上、それらは時間そのものに即して可能となるのではなく、知覚の対象(現象)に即して可能となるのでなければならない。ところで、生産的構想力の形像的綜合は直観表象の直観に即した綜合であったが、その直観表象が量的に未限定な部分時間に於て与えられるものである限り、上述の部分時間の継起的性格を担わざるを得ない。それ故、形像的綜合は覚知・再生という継時的綜合であった。更に「多様性の概観とその総括」(A99)という覚知の綜合の意味からも、その継時的性格は明らかである。さて、覚知の綜合が常に継時的であるということは、覚知される個々の表象が継起することを意味するが、このことは現象に於ける多様なるものの客観的時間関係を決して意味するものではあり得ない。それ故、常に継時的であり常に変易している覚知の綜合によるだけでは、多様なるものが同時に存在するか継起的に存在するかという現象の時間的関係の限定、即ち時間限定は不可能である。時間限定が可能であるためには、現象に於て「不変的にして持続的なる或るもの」(A182=B225)が時間限定のrealな根拠として前提されなければならず、また「かかる基体に即して、基体に対する現象の関係によって」(B225)可能となるのでなければならない。かかる「一切の時間限定の本来的基体」(A185=B228)たる現象に於ける持続的なるものは「現象的実体(substantia phaenomenon)」(27)と称されるが、それが実体として存在するその仕方が持続性に他ならず、またそれが実体として存在する限り、持続的なる基体としての時間そのものに対する関係を有するのである。これに対して、時間に於ける関係たる継起的存在と同時存在は時間そのものに即してではなく、かかる現象的実体に即してのみ可能となるのであり、前者は原因と結果という関係に於ける現象的実体の存在の仕方であり、後者は協同性(Gemeinschaft)の関係に於ける存在の仕方である。時間の三様相に関して先に提出された問は、以上のことから解決されるであろう。
 ところで、時間限定の基体としての持続的なるものは、それが単に現象に於ける持続的なるもの、即ち現象的実体 にとどまる限り時間限定の基体たり得ない。持続的なるものは、それが時間限定の基体である限り、「私の内なる或るもの」(B275)でも「私の外なる物の単なる表象」(B275)でもあり得ない。何故ならば、内的であるにせよ外的であるにせよ直観表象内に存するものは凡て総括としての時間の内に存し、その部分時間の内に存する限り、既述の如く絶えず流過するからである。従って、この持続的なるものは、直観表象の外に直視表象を超えて存する「私の外なる物」(B275)でなければならない。しかし、現象と物自体との先験的区別に従う限り、直観表象の全く外にそのようなものを認識可能なるものとして積極的に措定し得ないことは言うまでもない。またこの持続的なるものは、直観表象の全く外にあることも不可能である。何故ならば、持続的なるものは、それが我々に表象される限りに於て時間限定の基体たり得るからである。それでは、直観表象の内にも、またその全く外にも存し得ず、言わばそれらの限界に存する持続的なるものとは一体何であろうか。
 我々は、それを現象の基底に横たわり拡がる現象の先験的根拠である「先験的対象」或いは「先験的客観」と考えることができるであろう(28)。現象はそれ自身単なる感性的表象であるが、それが表象である限り現象ならざるものへの関係を指示し、自らに対応し自らに客観的実在性を与え、そのことによって主観と対象との関係を与えるような対象を指示する(Vgl.A104f,A252)。かかる「表象の対象」として、常に未知なる或るもの一般=Xとして一様に現象に対応する先験的対象は「感性的直観に於ける多様なるものを統一するために統覚の統一の相関者としてのみ用いることができる」(A250,Vgl.A105,A109)と言われる。即ち、純粋統覚が多様の綜合的統一の主観の側に於ける形式的な先験的根拠であるのに対応して、先験的対象は多様の綜合的統一の客観の側に於ける質料的な先験的根拠である。純粋統覚が立ち続ける持続的なるものであるのに対応して、先験的対象もまた持続的である。ところで、先験的対象は表象の対象として現象の未知なる直観され得ぬ先験的根拠であるとはいえ、感性的所与から完全に分離されるものではあり得ない(Vgl.A250)。即ち、それが根拠づけるものは個別的な対象として我々に表象されるのでなければならない。先験的対象は表象の対象としては表象外にありながら、それが根拠づけるものが個別的な対象として表象内にあるものとして時間限定の基体である。
 さて、心性は内官を介して自己自身或いは自己の内的状態を直観し、外官を介して外的対象を直観する。直観が「客観の直接的表象」(B41,A109)である限り、内官も外官も共に対象に対する直接的関係を有する。しかし、内官は「魂そのものの如何なる直観をも一個の客観としては与えない」(A22=B37)と言われる如く、内官の対象は直接的には外官の対象であるものを自己の状態の変様或いは限定として対象化したものに他ならない。それ故、外的対象に関しては、内官或いは内的直観は間接的であり、外官或いは外的直観は直接的である。このことは、時間限定の基体たる先験的対象が内的直観表象並びに外的直観表象の先験的根拠であるとはいえ、それが根拠づけるものが個別的対象として表象される場合には直接的には空間に於て表象されなければならないということを意味する。我々は、ここに空間の優位の根拠を認めることができるであろう。
 ところで、先験的対象が純粋統覚に相関しているとしても、純粋統覚が感性的所与を抽象するものである以上、かかる所与が所与ならざるものを指示するということは純枠統覚の関知せぬところである。それ故、純粋統覚は先験的対象を自己の相関者として措定し得ない。先験的対象を自己の相関者として措定する統覚は、自ら感性としても悟性としても働き、自己の感性的表象がそれに対応する或るものを指示することを自覚し、それを自らの悟性面の統一性と相関させ、そのことによって自己の相関者として措定する先験的統覚でなければならない。従って、空間の優位性の根拠は、先験的統覚が時間限定の基体たる先験的対象を自己の相関者として措定し、それが根拠づけるものが直接的には空間に於て表象されなければならないことを自覚することにある。

   三

 本来並列的であるにすぎない時間と空間とが、それぞれ他方に対して優位を占めるということ、及びそれらの根拠が何れも先験的統覚であるということは以上の如く示された。そこで、我々はそれらの事態がカントの理論哲学に於て持っている意味を考察することでもって結びとしたい。
 「あらゆる我々の認識が対象に従わなければならない」という思考法から「対象が我々の認識に従わなければならない」(B]Y)という思考法への所謂コペルニクス的転回、或いは「思考法の革命」(B]T)は、感性のア・プリオリな形式の内に与えられたものに悟性のア・プリオリな形式を「投げ入れる(hineinlegen)」(29)ことによって対象の認識が可能であるということを意味する。ところで、このコペルニクス的転回は先験的観念論の本質を明示するものであるが、認識可能なるものは直観表象としては対象構成者である我々のものであるという自覚なくしてはあり得ない。直観表象が我々のものであると自覚するとは、先験的統覚が感性の働きを自らの働きとして自覚することであり、また凡ての表象は心性の変様としてその内的状態に属し、従って時間の内に存すると自覚することである。時間の優位性はこの先験的統覚の内へと向かう自覚に基づいているのであるが、それは我々の悟性が感性的所与を(先験的には総括としての時間を)彷徨(discurro)せざるを得ぬ「比量的(diskursiv)」悟性(Vgl.A720=B748)であると自覚することである。時間の優位性は、凡てのア・ブリオリな綜合判断が総括としての時間を媒介しなければならぬという先験的観念論の看過し得ぬ性格を意味しているのである。
 しかし、かかる先験的統覚の内へと向かう自覚は、同時に直観表象がそれに対応する或るものを指示するという言わば外へと向かう自覚をも喚起する。即ち、先験的統覚が感性の動きを自己の働きとして自覚することは、一方に於ては感性的表象が自己のものであることを自覚することではある。が他方に於ては、感性的表象がそれに対応する或るものを指示するが故に、自らが感性的表象として現象する当のものを前堤せざるを得ぬ「受動的主体」(B153)であることを自覚することでもある。さて、先験的統覚が自らを受動的主体であると自覚するとは、自らが感性的所与までは決して構成し得ぬ単に形式的な主体であると自覚することである。それは、一つの自然の汎通的限定者たる限り「無制約的」(A401)である先験的統覚が、自らの一側面たる感性を質料に関して被制約的と自覚することである。かかる自覚を通じて先験的統覚は、先験的対象を所与質料の先験的根拠たる「先験的質料」(A143=B182)として自己の相関者として措定せざるを得ず、また先験的対象が根拠づけるものが直接的には空間に於て表象されなければならないことを自覚するのである。ここに空間の優位性が成立する(30)。ところで、先験的対象は先験的統覚によって相関者として前提された、或いは「要求された」(B278)ものであって決して認識されたものではない。先験的統覚と先験的対象との相関性に関しては、認識ではなくて先験的統覚の側からの要請が問題となっているのである。先験的対象をかく要請するとは、「観念論論駁」の章に示されている様に、先験的観念論が決して独我論ではないということを意味するものである。
 最後に、時間の優位性と空間の優位性との根拠が既述の如く感性的表象に関する先験的統覚の内へと向かう自覚と外へと向かう自覚とに存するとしても、感性は単なる受容性の能力にすぎず、そこに於ては未だ如何なる自覚も成立してはいない。先験的統覚が自ら感性としても働くということは、感性自身にとっては全く関知せぬことである。 即ち、感性的表象が凡て我々のものであるということも、また感性的表象がそれに対応する或るものを指示するということも、感性自身にとっては何ら関知せぬところである。それにもかかわらず、「先験的感性論」では現に時間の優位性も空間の優位性も示唆されている。(前者は時間があらゆる直観の根底に存する必然的表象であるという仕方で、後者は時間が外的直観表象に即して表現されるという仕方で示唆されている。)それでは一体誰が時間の、また空間の優位性を定立するのであろうか。それらは、なるほど感性にとっては関知せぬことではあるが、批判理性即ち我々哲学者にとっては明白なことなのである。それ故、先験的統覚は批判理性と合致し、感性を、また悟性を自らの動きとして自覚するのでなければならない。しかし、批判が「理性能力一般の批判」(A]U)を意味する限り、批判する理怯と批判される理性との分裂は不可避である。批判する理性と批判される理性とが人間理性としては同一である、或いは意識一般としては同一であるということは、例えば他の思惟的存在者と言葉を介して意志の疎通が可能であるというような「実践的な確認」に基づき批判理性の側から一方的に保証せざるを得ない。かかる分裂と保証とは、批判哲学が成立するための大前提であると同時に批判哲学である限りそこから抜け出すことのできない宿命である。 それ故、時間の優位性及び空間の優位性についてカントが語る場合、それは批判理性が人間理性を批判するという自らの権限に於て、また人間理性としては両者が同一であるという保証の下に直覚的に定立していると考えざるを得ないであろう。



(1)『純粋理性批判』」からの引用は哲学文庫版(Philosophische Bibliothek, Bd. 37a, hrsg. von R.Schmidt)に基づく。頁数は慣例に従い、第一版をA、第二版をBとして本文中に記した。
(2)綜合判断の媒語としての第三者はA155=B194に於ては時間ばかりでなく、構想力及び統覚の統一もまた第三者とされている。これらは、カントが再三言及する認識の三源泉である。(Vgl.A78=B104f, A94, A97, A115, B130, usw.)これに対して、A156=B195では明言されてはいないが「経験の可能性」が第三者とされている。時間は、ただ単に経験一般の可能性の感性的制約としてこの経験の可能性に関係するが故に媒語たり得るのではなく、更に感性的であると同時に知性的な媒介表象、即ち先験的図式が時間図式として現に成立するが故に正に媒語たり得るのであり、第三者たり得るのである。
(3)悟性を孤立させることについてはA62=B87、理性のそれについてはA305=B362参照。
(4)この分離・除去という操作は、後述する如く根拠ならざる要素と根拠をなす要素とを分かつという批判特有の方法を表すものであるが、用語は実に多様である。この論証に関するものに限れば、例えばweglassen (B5) absondern (A21=B35, A22=B36)abtrennen (A22=B36)abstrahieren (A27=B43, A32=B49) aufheben (A31=B46) wegnehmen (A31=B46) wegfallen(A31=B46)等が用いられている。なお、この論証(@)の具体例については、B5f, A22=B36, A24=B38f, A27=B43,A31 =B46等を参照されたい。
(5)カントは、未限定的なる直観的全体totum――それは「無限な与えられた量」(B39, Vgl. A25, A32, B48)とも言われる――と範疇としての全体totalitasとを区別する(Vgl.A438=B466, B111)。この区別は、直観表象に於ける未限定な量的なるものquantumと範疇としての量quantitasとの区別に対応する(A142=B182,A163=B204, A4ll=B438,A717=B745,A725=B753)。何れも適当な訳語が無いので以下原語のままで用いる。
(6)この論証からは時間及び空間が形式論理学的意味に於ける概念ではないという消極的な結論しか導出され得ない。「部分表象を自己の内に包括するものは直観表象である」という前提なくしては、それらが直観表象であるという積極的な結論は導出され得ないであろう。
(7)H.Vaihinger, Kommentar zu Kants Kritik der reinen Vernunft, 2. Auf., 1921, Union Deutsche Verlagsgesellschaft, Bd.US.109 -111, S.120-123.
(8)B110, Kritik der Urteilskraft, Einleitung LVII Anm.
(9)A34=B50, Vgl.A50=B74, A107, A129, A197=B242 usw.
(10)A99, Vgl.A46=B63, A97, A129. A139=B178, A197=B242 usw.
(11)B154.へルダーによれば、カントに於て直観Anschauungは二義的に用いられている。(@)直観する働きそのものと(A)その所産とである。(とはいえ両者は元来不可分ではあるが。)ここでは言うまでもなく、所産としての未限定的なる直観表象を限定することが問題となっているのである。拙論に於ては両者を区別するため、後者を直観表象と記す。H.Vaihinger, ibid. S.33.
(12)第二版に於て「形式的直観」(B160 Anm.)と言われているものである。但し、例えばB207, A268=B324に見られる「形式的直観」の用語例は、むしろ直観形式を意味していると考えられる。
(13)Vgl.A5l=B75, A60=B85, A62=B87, A77=B102, A155=B194, A239=B298, A258=B314 usw.
(14)B148, Vgl. B150, B288, B305f, B309, A287=B343 usw.
(15)範疇が「物一般」に関係し得ることについてはB128, A139=B178参照。カントは「物一般」「対象一般」「客観一般」という語を以下の意味に用いているようである。これらの語は「先験的分析論」までに限れば、BXXVII,A35=B5l,A35=B52,B113,B114,A108,B128,B154,A139=B178,B207,B208,A235=B294, A238=B298,A242,A245,A246=B303,A247=B303,A247=B304,A248=B305,A253,A254=B309, A266=B322,A271=B327,A272=B328,A273=B329,A279=B335,A280=B336,A281=B337, A283=B339,A283=B340,A284=B340,A290=B346に見られるが、極めて少数の例(A238=B298,A246=B303等)を除けば、物一般は、現象としての物と自体的に考察された物(物自体)との先験的区別を捨象することによって論理的に一般化された物という意味に用いられている。uberhauptとはかかる差異を捨象することによって論理的に一般化する機能を示すものである。従って、それは現象をも、物自体をも含む「あらゆる物」 (A286=B342,A288=B344)という言葉で言い換えられている。J.Amrhein, Kants Lehre vom "Bewustsein uberhaupt" und ihre Entwicklung bis auf die Gegenwart, 1908, Halle, 1. Teil §9.die Bedeutung der Verallgemeinerungspartikel "uberhaupt" in Kants Philosophie
(16)拙論に於ける先験的統覚の解釈は、高橋昭二著『カントの弁証論』(創文社、一九六九年)所収「カントの先験的統覚」に従うものである。
(17)B153, Vgl. B137, A111.
(18)All6, A120, A191=B236, A251.
(19)A99f.A145=B184,B202,A163=B203,usw.なお、このErzeugung或いはerzeugenという語は、集合の綜合による外廷量の産出の場合だけでなく、「合同の綜合」(B201Anm.)による内包量の産出の場合にも用いられる。Vgl. A143=B183, B208,A170=B211, A208=B254 usw.
(20)カントは、「現実に幾何学に於て用いられている」「対象として表象される」空間を、生産的構想力の所産たる形像と考えている(Vgl.B160Anm.)。形像は、経験的な限定された直観表象であり、それを範疇的に限定することにより幾何学的図形が成立する。
(21)A188=B231, A194=B239
(22)B156, A198=B243, A199=B245, A212=B259 usw.
(23)時間の三様相に映しては、B67, A177=B219, A179=B222, A215=B262 usw.参照。なお「同時存在は時間そのものの様相ではない」(A183=B226)という表現に於ける様相(ein modus)という語は、ペイトンの指摘する如く漠然としており、特性・性格ぐらいの意味で使われている。H.J.Paton, Kant's Metaphysic of Experience, 1936, London, George Allen and Unwin LTD. Vol.U., p.165,fn.
(24)B225, Vgl. A41=B58, A144=B183
(25)B207, B219, B225, A183=B226, B233, A200=B245, B257, A215=B262 usw.
(26)但し、覚知の綜合はその瞬間瞬間で切って考察するならば極めて空間的である。「一瞬間中に含まれたものとしては、各表象は絶対的統一以外のものではあり得ぬ」(A99)と言われる。覚知の綜合は継時的ではあるが、瞬間で切って考察すれば各表象は空間的統一を有する。
(27)A265=B321,A277=B333. substantia phaenomenonという表現よりも、むしろそれに類する表現の方が多く見られる。Vgl.B225,A183=B227,A185=B228,A188=B231,A205=B250,A206=B25l,A212=B258,A214=B261, B278,B290,B293,A525=B553,A526=B554,A772=B800,usw.
(28)先験的対象に関しては、A109,A191=B236,A253,B372,A538=B566先験的客観に関してはA250, A25l, A277=B333,A379f.参照。但し、現象の叡智的根拠に対しても、また超験的 (transzendent)理念が自己自身を対象化する場合(Vgl.A565=B593)、その対象或いは客観に対してもこれらの語が用いられている。Vgl.A361,A393f.,A478=B506Anm,A494=B522f,A545=B573,A565=B593,A613=B641,A679=B707.
(29)BXIV, A125, Vgl. hineindenken BXII; legen BXII, B XVIII, A196=B241; hineinbringen A125.
(30)カントは、空間の優位性を「原則の体系に対する一般的注解」に於ては「範疇の客観的実在性を示すためには、我々は単に直観を必要とするのではなく、常に外的直観さえをも必要とする」(B291)という形で示している。先験的統覚によって措定された先験的対象は直接的には外的直観(空間)に於て表象され、その限りに於て範疇の客観的実在性は示されるのである。
(31)J.Amrhein, ibid.S.86.

付記 本稿は一九七九年十一月廿二日、学習院大学で行われた「日本カント協会第四回学会」に於ける口頭発表に加筆したものである。(博士課程学生)


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