食と哲学

 「食」は、最も身近で最も基本的な日常的実践活動であるにもかかわらず、いや、日常的でありすぎるがゆえに、ほとんど哲学的に反省されることがない。西洋の哲学者たちもまた、「食」という問題に無関心であり、「食」について主題的に論じてこなかった。もちろん、彼らは食に関して何も論じていないというわけではない。というのは、西洋の哲学者たちは、断片的もしくは非主題的にではあるが、食に関するさまざまな言説を残しているからである。しかし、西洋哲学において「食」が全面的に主題化されたことは一度もなかったと言っても過言ではない。

 プラトンは『パイドン』の中で、魂の浄化(魂の肉体からの解放と分離)を心がける哲学者の関心は「肉体にではなくて魂に向けられている」と語り、肉体的なものは魂を掻き乱し知恵の獲得の「妨げ」になるから、哲学者は肉体的なものを「可能なかぎり拒絶しなければならない」と語っている。そして彼は、「肉体から離れて、魂そのものによって、ものそのものを見る」ことの重要性を主張している。西洋哲学には視覚を重視する伝統があるが、それにも増して魂で見ること(純粋な思考もしくは表象)を重視する伝統がある。このような二重の意味で「見る」ことを重視することと、食という肉体的なものに対する無関心もしくは拒否が、プラトン以後の西洋哲学の基調となっている。

 プラトンはまた、『国家』において、魂は「理知的部分」「気概の部分」「欲望的な部分」の三つの部分から成り立っているという魂の三部分説を提示し、「理知的部分」が他の部分に対して優位に立ち、それらを支配・制御するというロゴス中心主義を提示している(『パイドロス』では、馭者と二頭の馬という比喩が用いられている)。このロゴス中心主義もまた西洋哲学の基調となるのであるが、ロゴス中心主義の立場をとるかぎり、食欲や食がもたらす肉体的快楽はロゴス(理性)の支配に服すべきものとされる。食が西洋哲学において問題となるとしても、それは基本的には、理性による欲望の支配(=節制)という否定的な仕方で非主題的に語られるか、食がもたらす結果である肉体的快楽の理性的追求(快楽主義)という仕方で非主題的に語られるのであり、食そのものが主題的に語られることはなかった。哲学者たるものは食という肉体的なものを遠ざけ、「真理の野」からとれる理性の糧のみで生きるべきである、というプラトンの発想(『パイドロス』)が、幸か不幸かは別として、食に対する西洋哲学の態度を決定してしまったのである。

 これまで西洋哲学は「食」という問題にほとんど無関心であったが、このことは、「食」を全面的に主題的に論ずる「食」の哲学が不可能であることを直ちに意味しているわけではないであろう。そのような「食」の哲学を模索するためには、予備的作業として、「食」という問題がどれほどの射程をもっているのかを明確にしておかなければならない。

 筆者は以下において、ヘーゲルを手引きにして、この問題にアプローチしようと思う。「見る」(=表象する)という態度に徹するがゆえに〈物自体は不可知である〉と主張せざるをえなかったカントを揶揄しながら、ヘーゲルは「空腹になれば人はご馳走を表象するのではなく、ご馳走を作り満腹となるのである」(『哲学史』)と語っている。ヘーゲルは、西洋哲学史の中では珍しいことに、「見る」(=表象する)という態度を超えたところで、食(=われわれと物との具体的・現実的な関係)を考えているのである。ヘーゲルを手引きにした理由はこの点にある。以下において、筆者は、ヘーゲルの『精神現象学』の中から一節を引用しながら、(一)「食」はどれほどの射程をもつのか、(二)食の哲学はどのようなパースペクティブのもとに構築されるべきであるのかを、ひとつの試みとして提示してみようと思う。これは将来の「食の哲学」のための予備的作業である。

   一 食の射程

 『精神現象学』の中で、ヘーゲルは欲望に関して以下のように語っている。

 「自己自身との統一」のみを本質としている自己意識は「欲望一般」であり、「むきだしの欲望の対象となるものは生命あるもの」である。欲望としての自己意識は、「自らに対して自立的な生命として現れる他者」を「廃棄」もしくは「否定する」ことによって、廃棄されるという空しさが他者の真理であると確信すると同時に、自らが「形のある自立的な契機を否定する存在」であると確信している。しかし、欲望の充足の中で、自己意識は「対象の自立性を経験する」。というのは、他者を廃棄するためには他者は存在していなければならず、この自己確信は「対象に制約されている」からである。それゆえ、「自己意識は、対象を否定する関係の中で、対象を廃棄することができず、むしろ欲望を再び生産すると同時に、対象をも再び生産することになる」。

 この一節でヘーゲルは、「廃棄する」「否定する」という語を用いながら、食について以下の三つのことを語っている。(一)、欲望としての自己意識(=人間)が自立的な他者あるいは対象(=もの)を廃棄もしくは否定する(=食べる)のは、本質的に、自己自身との統一すなわち自己保存(=生命維持)のためである。(二)、自己意識(=人間)が廃棄もしくは否定する対象(=食べもの)は、生命あるものである。(三)、欲望は再生産され、それと同時に対象も再生産される。さしあたり、ヘーゲルが提示している三つの事柄を手引きにしながら、「食」の射程を考えてみよう。

   自己保存

 食は自己保存・生命維持のための活動であるという第一の主張は、だれもが思いつくたわいもないものである。しかし、食の射程を考えるうえでは重要である。というのは、われわれは日常の食生活の中で実際に、生命あるものを食いつぶしながら(=否定しながら)自己を保存しているのであるが、そのような自己保存活動は何もわれわれが普段行っている食に限ったことではないからである。食という術語は、われわれが普段思っているよりもはるかに大きな射程をもっている。自己保存のために豚肉を食うことと自己保存のために人肉を食うことの間にどれほどの違いがあるのだろうか。自己保存という観点に立つかぎり、両者の間に差異はない。生命維持のためのカニバリズムは、一九七二年のアンデス事件のような非日常的なカニバリズムであれ、芥川竜之介の『河童』に登場する日常的なカニバリズムであれ、われわれが通常行っている食の延長線上にある。

 では、日常化しつつある臓器移植や細胞移植はどうだろうか。たとえば、自己保存のために豚肉を口という器官を通して体内に取り込むことと、自己保存のために豚の心臓弁を先端医療技術によって体内に取り込むこととの間に、どれほどの違いがあるのだろうか。不治の病を治し自己を保存するために他の人間の臓器を自己の体内に取り込むことは、他の人間の脳漿・髑髏水・髑髏の黒焼き粉末を妙薬として飲み食いすることと同様に、カニバリズムではないのだろうか(藤井正雄『死と骨の習俗』)。自己保存のために人工臓器を体内に埋め込むことは、人間が機械(無機物)を食うということを意味するのではないのだろうか。自己保存という観点に立つかぎり、これらはすべて食である(倫理的に許される食と倫理的に許されない食という差異が、これらの食に成立すると言うのであれば、差異化するための論拠を問う食の倫理学が必要である)。

 レーニンは『帝国主義論』の中で、「帝国主義とは、独占と金融資本との支配が成立し、資本の輸出が顕著な意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、最大の資本主義諸国による地球上の全領土の分割が完了した、というような発展段階における資本主義である」と述べているが、自己の体制を維持するために地球上の全領土を空間的に経済的に分割しながら自己の体制内に取り込むのが帝国主義であるとするならば、もしかすると帝国主義もまた食の術語で語れるのかもしれない。さらには、現代の「南北問題」に関しても、少数の豊かな北(先進工業国)は大多数の貧しい南(発展途上国)を「食いもの」にしながら自己保存・自己発展している、と食の術語を用いて語れるのかもしれない。もちろん、ここで問題となっているのは個人的な営みとしての食ではなくて、集合的・体制的な食が問題となっているのであるが。

 ここまで食の射程を拡張しようとすると、口という器官を通して行われる食だけが食であり、それ以外のものは類比的な意味で「食」と言われているにすぎないと反論されるかもしれない。しかし、少なくとも、豚肉を食することと豚の心臓弁を移植することとは、栄養摂取と機能摂取あるいは排泄と保存という違いはあるにしても、自己保存・生命維持という観点からすれば区別することができない。この観点に立つかぎり、一方は本来の意味での食であり他方は類比的な意味での食である、などと両者を安易に区別することはできない。両者の間には連続性が成立するからである。このように考えると、「食」という表象が、普段われわれが考えているよりもはるかに大きな射程をもつ表象であることが分かる。

   排泄

 上で述べたように、ヘーゲルは、食を「自らに対して自立的な生命として現れる他者」を「廃棄」もしくは「否定する」こととして捉えている。しかし、欲望は再生産されるのであるから、自己意識(=人間)は他者を完全に否定することはできない。このことをヘーゲルは、「対象を否定する関係の中で、対象を廃棄することができない」と表現していた。人間は自立的な対象(=物)に依存しているという意味では、たしかに物を否定・廃棄できない。しかし、ヘーゲルの否定ないし廃棄という概念には疑問の余地がある。自立的な対象(=物)を否定するとは、対象の存在を無きものにするということを意味するのであろうが、はたして否定しきれるのであろうか。いや、そもそも食は対象を否定する行為なのであろうか。たとえば、目の前のバナナを食べる場合、バナナは口という器官を通して私の身体の内部に呑み込まれ見えなくなってしまうのだから、その存在は否定されているように見える。

 だが、自立的な対象は、その存在を否定されているように見えても決して完全に否定されることはない。バナナがもっていた形態や栄養素は否定される(咀嚼によって形態を破壊され消化吸収される)が、排泄物という姿を変えた形で、その存在もしくは自立性をわれわれに必ず突きつけ返してくる。この点をヘーゲルは見落としている。彼の食の概念は、あまりにも部分的である。口に入れて咀嚼し嚥下するところまでが食なのではない。消化器官で消化・吸収するところまでが食なのではない。食は排泄にまで連なる行為として把握されなければならない。南北問題にしても、南の貧困や飢餓や自然破壊を排泄しており、臓器移植のような排泄物の出ない食は例外なのである。

 増成隆士は、西洋哲学は「対象を共有し保存し、あとに汚れを残さない『きれいな』営みである」「見る」ことに重点を置いたために、「対象を占有し破壊し、そして汚物が出る『汚い』営みである」「食べる」ことが忌避されてきたと述べ、排泄物の「哲学的、形而上学的重要性」を主張するサルバドール・ダリを高く評価しているが、食の哲学は、排泄までをも射程に入れた食を主題にしなければならないであろう。

   生命(個体の生命)

 自己意識(=人間)が廃棄もしくは否定する(=食べる)対象(=もの)は、生命あるものである、とヘーゲルは言う。化学的合成物や人工臓器の摂取は例外として、われわれが食べるものは、もとをただせば自然の生命あるものである。われわれは、食という行為によって他の生命および自然と関係しているだが、それはどのような関係なのだろうか。ヘーゲルの主張に即して考えてみよう。

 われわれは、自らの生命を維持するために生命ある他者を否定し続けなければならない(この側面から見れば、われわれは生命ある他者を否定する主体であり、生命ある他者はわれわれによって否定される客体である)。しかし、われわれが生命ある他者を否定し続けることが可能であるためには、生命ある他者が完全に否定されてしまうのではなくて、現実に存在し続けているのでなければならない。否定されてしまう生命ある他者が存在するからこそ、われわれの生命は維持できる(この側面から見れば、生命ある他者がわれわれの生命を保存する主体であって、われわれは生命ある他者によって保存される客体である)。われわれ人間の――それだけでなくすべての生命体の――、他の生命および自然に対する関係は、このような主体と客体とが常に転倒する関係である(食物連鎖とは、この関係が重層化しつつ循環する構造全体のことである)。

 この関係を一方の側から考えてみよう。われわれ人間は――もちろん他の多くの生命体もそうであるが――自己の生命を維持するために他者の生命を奪わざるをえない。ヘーゲルを持ち出さなくても、宮沢賢治の『よだかの星』を持ち出さなくても、そんなことは分かりきったことである。しかし、われわれ人間の生命の維持は生命ある他者の殺害あるいは死を前提にして成り立っているという事実が、現代においては、ほとんど忘却されているか、不可視なものになっている。ナチスのホロコーストや旧日本軍の南京大虐殺は話題になる(=主題化される)が、われわれが日常的に行っている食という生命の大量破壊は、ほとんど話題になる(=主題化される)ことがない。殺害を専門家(たとえば屠殺業者)に任せることによって、殺害および死を「カムフラージュ」したり「密室化」(K・エーダー)したりすることによって、あるいはパッケージ化された食材という形で生および死を「脱色」(門倉正美)することによって、生命ある他者の殺害および死という食がもっている否定的な契機は、ほとんど見えなくなってしまっている。

 このような食における生と死の忘却・不可視・不在という状況の中で、それをあえて可視化するいくつかの試みが教育や保育の領域でなされている。鳥山敏子などの「ニワトリを殺して食べる」授業や近藤薫美子の絵本『のにっき』などがそれである。このような試みは、忘れ去られてしまっている事実を再確認させるという点では確かに有意義であるということができるかもしれない。というのは、生命ある他者の死の忘却・不可視・不在は、人間自身の生の忘却・不可視・不在と直結しており、生命ある他者の殺害および死という事実を再確認することは、自らの生命がそうした殺害や死によって可能になっているという、人間自身の生の事実を再確認することに直結しているからである。

 だが、このような事実を再確認したとしても、生命ある他者の死の忘却・不可視・不在へと向かう世の中の動きは決して変わらないであろう。このような試みは、何がそのような忘却・不可視・不在を生み出しているのかを問い、それを生み出しているものといかに対峙すべきかを問わないかぎり、単なる再確認に終わってしまう。たとえばK・エーダーは、「動物の殺害を浄化する生贄儀式は屠殺のカムフラージュと密室化に取って代わられ、屠殺は屠殺場の中で合理化される。……(中略)……対自然関係の密室化が対自然関係の道具的合理化を補完する。儀礼的な行為は目的合理的な肉の切り分け、利用へと脱魔術化されたのである」と述べ、西洋近代の対自然関係の道具的合理化という問題と、生命ある他者の死の忘却・不可視・不在という問題とが一連の問題であることを指摘している。だとすれば、この対自然関係の道具的合理化といかに対峙するかという問題にまで踏み込んで問いを立てないかぎり、生命ある他者の死の忘却・不可視・不在へと向かう世の中の動きは決して変わらないであろう。この問いは重要である。というのは、そこでは、自然を道具化し否定する主体としてのみ人間を捉えることの妥当性が問われ、人間は自然によって保存される客体なのではないのか(=人間は自然によって生かされているのではないか)という、人間自身の生命に関する問いが問われるからである。

 食が対生命関係の行為であり、対自然関係の行為であり、その関係が主客の転倒という二重性を持つものである以上、食の哲学は、人間をどのように捉え、自己および他者の生命および自然をどのように捉えるか、という枠組みも射程に含むものでなければならないであろう。

   生産

 ヘーゲルは、欲望は再生産され、それと同時に対象も再生産されると言う。ヘーゲルがここで用いている「生産」という言葉が人間の行う食物生産を直ちに意味するのかどうか、という言葉の解釈はここではどうでもよい。重要なのは以下のことである。われわれ人間が、生命ある他者を否定することによって自らの生命を維持することが可能であるためには、生命ある他者が完全に否定されてしまうのではなくて、現実に存在し続けているのでなければならない。だが、エデンの園や黄金郷がもはや存在せず、狩猟・採集にのみ依存することが現実に不可能であるかぎり、われわれ人間は、その生命を否定するために(=殺害するために)生命あるものを生産し続けなければならない。

 否定されるために生産される生命の量が、人間の自己保存に必要な量と比べて不足するとき、人間の自己保存は、部分的であるか全体的であるかは別として、危機に陥ってしまう。その解決が逼迫した課題となっている現代の食糧・人口問題の根底にあるのは、基本的には、この単純な量的問題である(もちろん現実には決して単純な問題ではなく、貧しい南の人口増大および飢餓と豊かな北の人口減少と飽食という問題や、水資源・エネルギー資源不足の問題や、さまざまな環境問題や経済問題などが複雑に絡み合っている)。

 食の哲学は、このような生産という局面をも射程に入れるのでなければならない。さまざまな学問領域において食物(食糧・食料)生産の問題が論じられているが、これまで、ほとんど主題化されることがなかった重要な問題がある。それは、先に生命のところで述べたのと同じような問題である。われわれ人間は自己の生命を維持するために、生命ある他者の存在を否定する。食という行為は、生命ある他者を消費する(consume)行為である――消費を意味するconsumeという英語の単語は、食い尽くすこと、消滅させること、破壊することを同時に意味する――。この消費の側面において、消費されるものの生死の忘却・不可視・不在が問題であると先に述べたが、それとまったく同じような事態が生産の側面においても生じているのである。

 日本は、現在、世界第二位のエビ消費国であるが、われわれは、エビがどのようにしてわれわれの口にまで届いたのかを想い描くこともなく、自然および人間が生産したエビを食べているだけである。かりに経路を頭の中で想い描こうとしても、それほど先までは想い描くことができない。エビがどのようにして自分の口まで届けられているのかを、われわれはほとんど知らないからである。村井吉敬の『エビと日本人』は、アジア各地において、小魚などの貴重な蛋白源がエビ・トロール船のために廃棄されていること、エビの養殖池にするためにマングローブの林が切り拓かれていること、病気の予防や黒変防止などのためにさまざまな薬剤が養殖池に散布されていること、養殖池の用水のために地盤沈下が起きていること、零細漁民や低賃金労働者の労働がわれわれのエビ消費の基盤にあることを指摘している。食の背後に潜んでいる生産の側面に関して、われわれはほとんど無知であるか、ある程度知っていてもそれを忘却しているか、あるいは、そもそもそうした側面を見ようとする態度を欠いている。村井吉敬の『エビと日本人』は、エビの消費の背景にある、このような不可視な生産の側面を可視化する試みである(鶴見良行の『バナナと日本人』も同じ試みである)。村井吉敬たちのグループは『エビの向こうにアジアが見える』というビデオ作品を製作しているが、〈向こう側〉が見えたのは〈あえて見ようとした〉からであって、たいていの場合は〈向こう側〉は見えてこない。それはエビやバナナだけの話ではない。生産の側面における不可視・忘却・欠損という状況は、われわれが日常的に消費しているすべての食物――すべての物――にあてはまることである。

 食の哲学は、自然の生産力とのつながりや、無数の無名の他者の労働とのつながりを無視するのではなく、このような不可視な生産の側面をも射程に入れなければならない。自己の生命を維持する食という行為は、完全な自給自足の生活をするのでないかぎり、生産力をもつ自然と他者の労働に依存する行為だからである。

   身体性

 狐色にトーストされた食パンにくっきりと残った歯形は、われわれに、食が身体的な営みであることをまざまざと見せつけている。手のさまざまな筋肉を動かして食べ物を口に運び、その食べ物を咬筋・側頭筋・外側翼突筋・内側翼突筋を動かして咀嚼し、咽頭粘膜に加えられる触刺激による反射運動によって咀嚼された食塊を嚥下することも、味蕾という味覚の受容器で甘味、酸味、塩味、苦味を味わうことも、消化や吸収や排泄も、ことごとく身体的な営みである。だから食は身体的な営みである、などと皮相なことを言おうとしているのではない。ほとんど気づかれていないが、食の身体性は、もっと深く、もっと重層化したものである。

 われわれは、たいていの場合、自分で調理したものか他人に調理してもらったものを食べている。もちろん調理も身体的な営みであるのだから、この調理された食べ物には、自他の身体性が痕跡として残っている。われわれは、自他の身体性の痕跡を調理された食べ物と一緒に食べているのである。だが、それは調理だけではない。食の背景に潜んでいる捕獲・採集・生産・流通など一連のプロセスにおいて、われわれは無数の不可視な他者の労働に依存している。だとすると、われわれは、それ自身が身体的である食の営みを通して、そのような無数の不可視な他者の身体性の痕跡をも自己のうちに取り込んでいるのである。さらには、次のように言うこともできる。われわれは生命ある他者(生きもの)を食いつぶして生きているわけであるが、それは、生殖や栄養摂取や捕食などの身体的な活動を行っていた生命ある他者(生きもの)の身体を――身体全体であるにせよ部分へと解体された身体であるにせよ――自己のうちに取り込む行為である。要するに、食とは、自己の身体性と他者の身体性(他の人間および他の動植物の身体性)とが幾重にも重層的に交錯する場であり、それらの身体性をことごとく自己の中に取り込む身体的な営みなのである。われわれは、この意味において、身体的に生きているのである。もちろん、われわれは、食がこのような身体性に深く根ざした行為であることを普段はほとんど意識することがない。しかし、このような自他の身体性を媒介にして、われわれは他者と深くつながり、自然と深くつながっているのである。

 われわれは、家族や親戚や友人たちと一緒に食事をしたり、神仏と食を共にしたりする(神道の直会は神人共食という側面をもつ)。たしかに、共食は自己と他者(家族・親戚・友人・神仏)との精神的なつながりを生産・再生産する。だが、そうした精神的なつながりは、深いところで身体的なつながりに支えられているのではないだろうか。もちろん、孤食(もしくは個食)という食の形態にしても、〈外食〉や〈中食〉という食の形態にしても、幾重にも折り重なっている身体性が完全に無化してしまっているわけではない。食の形態がどのようなものであるにせよ、食という行為には自他の身体性が幾重にも折り重なっていることに変わりはない。違いがあるとすれば、共食や〈内食〉においては、われわれは身近な、決して匿名ではありえない他者の身体と関わっているのに対して、孤食や〈外食〉および〈中食〉においては、われわれは無名もしくは匿名の他者の身体と関わっているという点である。

 孤食という社会現象や、外食化や内食化という社会現象が話題になり、寿司ロボットのような機械が話題になる現代であるからこそ、食の哲学は、西洋哲学が最初から忘却してきた、このような不可視な身体性をも射程に入れ、それを主題化しなければならないであろう。

   二 パースペクティブ

 ヘーゲルは、『エンツュクロペディ(第3版)小論理学』の中で、「誰も他人の代わりに食べたり飲んだりすることはできないように、誰も他人の代わりに考えることはできない」と述べ、飲食(および思考)の他者による代替不可能性を主張している。普遍に吸収されることのない、どこまでも個別的な「この私」が食の主体であるという(あたりまえの)考えを、実存の先駆的表現として解釈することもできるかもしれない。しかし、紙幅が限られているので、ここではその問題に触れないで、一度ヘーゲルから離れて別の問題を考察してみようと思う。それは、個別的な「この私」が食の主体であるという言い回しの中にも潜んでいる、西洋近代の「主体―客体」図式をめぐる問題である。この問題は現代の食を考えるうえで重要である。というのは、われわれ現代人の食は、この「主体―客体」図式と、それを否定する対抗図式との上に成り立っていると考えられるからである。

   近代の両義性

 ハイデガーは、人間が、あらゆる存在者の「関わりの中心」として、あらゆる存在者の基底に投げおかれたもの(sub-jectum / Subjekt)[=主体]となることによって、あらゆる存在者が、この中心から離れたところに投げおかれたもの(ob-jectum / Objekt)[=客体]、この中心に対抗存立するもの(das Gegen-ständige / Gegenstand)[=対象]として表象的に作成し直され、役立つもの・用象(Bestand)として顕現するように挑発的に作成し直されることが、西洋近代の本質であると述べている。もちろん、欲望としての自己意識(=主体)は自立的な他者あるいは対象(=客体)を廃棄もしくは否定する(=食べる)というヘーゲルの言い回しも、転倒の問題を抜きにすれば基本的に、この「主体―客体」図式のうえに成り立っている。この図式は、食を考えるうえで非常に重要である。それは、この図式が自然を道具的に合理化する図式であり、一つ間違えば他者の生命および死を軽視し忘却する図式になりかねないからである。だが、理由はそれだけではない。

 新聞の紙面には、どのような食べ物が高血圧に良いのか悪いのかといった食と健康に関係する広告記事や、肥満を防止するためにはどのような食事をとるべきかといった食と栄養に関する広告記事が、ほとんど毎日のように掲載されている。特定病因説が妥当しない生活習慣病と食生活もしくは食習慣とを結びつける、このような食への医学的・栄養学的アプローチの根底に潜んでいるのは、身体管理の思想である(それは、自己管理の欠如として肥満が道徳的に非難されるように、しばしば身体管理の道徳という形をとって現れる)。現在流布している食に関する多くの言説は、食という営みを通して自らの身体を医学的(西洋医学的・東洋医学的・民間医療的)に栄養学的に管理すべきであるという身体管理の思想を背景になされており、そのような言説もまた「主体(管理する主体)―客体(管理される身体)」図式の上に成り立っているのである(たとえば粗食の奨励にしても、それは快楽主義に対するアンチテーゼとしてだけでなく、身体管理の文脈でも捉えられるべきである)。「主体―客体」図式は、この意味においても、食を考えるうえで重要である。

 それだけではない。たとえば、K・エーダーは、西洋近代社会における動物に関する食の禁忌の構造的分析の中で、「食べられる/食べられない」という二分法の図式のパラメーターは「似ている/似ていない」という二分法のパラメーターと関係があり、後者のパラメーターによって「人間と同じく主体である動物と人間に似ておらず対象〔客体〕である動物が区別され」、この区別が動物に関する食の禁忌を成立させていることを指摘している。このエーダーの指摘が正しいとすれば、「主体―客体」図式は、食の禁忌の分析という観点においても重要な役割を果たしていると言えよう。

 だが、西洋近代は、ハイデガーが指摘したような「主体―客体」図式だけでは一面的にしか解釈できないのではないだろうか。エーダーは、「肉食文化と菜食文化の同時並存」という食の問題にからめながら、西洋近代が両義性をもつことを指摘している。「主体―客体」図式は、客観主義的で機械論的な自然像を生み出しつつ、同時に技術的道具的対自然関係を生み出す。この図式の中で、動物は食の対象(客体)として殺害され血を流すのである。動物の肉は、食の対象(客体)として、決して食の対象(客体)とはなりえない人間(主体)から差異化され、しかも、獣が食べるのとは違った仕方で人間に食べられる。「血を流す」肉食文化は、このような二重の差異化の上に成立しているが、それは文化的世界と自然的世界との差異化でもある。これに対して、「血を流さない」菜食文化は「自然との調和」という理念に依拠している。すなわち、肉食文化における差異化を否定し、生命ある自然と非技術的・非道具的に関わろうとする。そのかぎりにおいて近・現代の菜食運動や自然食運動は、基本的には、「主体―客体」図式を否定する対抗運動であると解釈できる(そこには身体管理という「主体―客体」図式も、見え隠れしているが……)。

 西洋近代は、「主体―客体」図式と、この図式がもたらす「主体―客体」という分裂性を否定する、「自然との調和」という図式との両義性によって成り立っている。このような西洋近代の両義性は、現代の食を取り巻く状況の中にも潜んでいる。もっとも、対抗図式というものは対抗するべき図式が存在して初めて成立するということを考えれば、食の哲学が何を根本的な問題とするべきかは、自ずから明らかである。食の哲学は、「主体―客体」図式と――その対抗図式も含めて――いかに対峙するべきかを根本的に問わなければならない。だが、それはどのようなパースペクティブのもとで問われなければならないのであろうか。

   再び生命について

 ヘーゲルには、個々の生物の諸形態の運動である「過程としての生命」という考えのほかに、生命とは「外への展開と展開したものの解体をくりかえしつつ、この運動の中で単一の自己を保存する」「循環過程の全体」である、とする「普遍的生命」という考え方がある(それは「同一性と非同一性との同一性」とも表現されている)。J・イポリットは、それを以下のように説明している。「一なる生命(能産的自然natura naturans)が、多くの生命形式すなわち区別(所産的自然natura naturata)へ移行する運動と、逆に、さまざまのことなる形式から出発しながら、この諸形式の中にこの諸形式を通じて同じ一なるものをとりもどす運動という二重の運動」は、「生命の過程――死して成れ――において交錯している。したがって、〈一なるもの〉の分裂がじつは統合の過程であるのは、ちょうどこの統合が分裂の過程であるのと同様なのである。だから、生命とは、自分に還帰する循環的な生成なのである」、と。

 個体の生命ではなくて、この普遍的生命というパースペクティブのもとで食を捉えると、どのような境地が成り立つであろうか。西田幾多郎は「斯の如き世に何を楽んで生るか。呼吸するも一の快楽なり」という断想を残しているが、このパースペクティブのもとで食を捉えると、この断想に通じるような食の捉え方ができるかもしない。私は、それと同じ生命あるものでありながら、生命あるものを私の「外」にある他者として私から区別し、その他者を私の「内」に取り込み否定する(=食べる)ことによって「私」の生命を保存しようとするが、他者が自己と同じ生命であるかぎり他者の否定は同時に自己否定でもあるのだから、「外」にあるものが私の「内」に取り込まれることによって、私と他者との区別、「内」と「外」との区別は溶解してしまう。食は「同一性と非同一性との同一性」を端的に享受することであり、実体としての普遍的生命を享受することであるのだから、食という営みそのものが快であるという境地。こうした境地に立って、「主体―客体」図式とその対抗図式の上に立つような食の哲学をせせら笑うような、より高次の食の哲学を試みることができるかもしれない。もちろん、食の哲学などにはいっさい見向きもせずに、ただひたすら食にうつつを抜かすという道もあるのだが。

 最後に、『美味礼讃』の著者の言葉をもじって、こんなふうに読者に言ってみようか。どんなふうに食を考えているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるか言い当ててみせよう。(鰤屋の鯖卵)




(1)プラトンの著作に関しては、ステファヌス版全集の頁数と段落で示せば、『パイドン』については64E-66A、『国家』については434C-441Cおよび580C-583A、『パイドロス』については246A-Bおよび248Bを参照。
(2)ヘーゲル『哲学史講義 ■巻』(長谷川宏訳、河出書房新社、一九九■年)、■■■頁。
(3)ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏訳、作品社、一九九八年)、一二〇頁―一二八頁。
(4)藤井正雄『死と骨の習俗』(双葉社、二〇〇〇年)、■■■頁―■■■頁参照。
(5)レーニン『帝国主義論』(宇高基輔訳、岩波文庫)、一四六頁。
(6)増成隆士「食の哲学」(熊倉功夫・石毛直道編『食の思想』所収、ドメス出版、一九九二年)、五七―五八頁。
(7) K・エーダー『自然の社会化』(寿福真美訳、法政大学出版局、一九九二年)、一四〇頁。
(8) 門倉正美「子どもをとりまく自然環境とデス・エデュケーション」(竹田純郎・森秀樹編『死生学入門』所収、ナカニシヤ出版、一九九七年)、一九九頁。
(9)鳥山敏子『いのちに触れる』(太郎次郎社、一九八五年)、村井淳志『「いのち」を食べる私たち』(教育史料出版会、二〇〇一年)、近藤薫美子『のにっき』(アリス館、一九九八年)などを参照。
(10)K・エーダー、前掲書、一四〇頁―一四一頁。
(11)村井吉敬『エビと日本人』(岩波新書、一九八八年)および鶴見良行『バナナと日本人』(岩波新書、一九八二年)を参照。
(12)ヘーゲル『小論理学 上巻』(松村一人訳、岩波文庫、一九五一年)一一四頁―一一五頁。
(13)ハイデガー『世界像の時代』(桑木務訳、理想社、一九六二年)および『技術論』(小島威彦・アルムブルスター訳、理想社、一九六五年)を参照。
(14)K・エーダー、前掲書、一二四頁―一二六頁。
(15)J・イポリット『ヘーゲル精神現象学の生成と構造 上巻』(市倉宏祐訳、岩波書店、一九七二年)、二〇一頁―二〇二頁。
(16)「断想 第一」『西田幾多郎全集』第一三巻、岩波書店、一九五二年、四三九頁。


参考文献

K・エーダー『自然の社会化』(寿福真美訳、法政大学出版局、一九九二年)
M・オンフレイ『哲学者の食卓』(幸田礼雅訳、新評論、一九九七年)
D・ラプトン『食べることの社会学』(無藤隆・佐藤恵理子訳、新曜社、一九九九年)
鶴田静『ベジタリアンの世界』(人文書院、一九九八年)
熊倉功夫/石毛直道編『食の思想』(ドメス出版、一九九二年)
田中佳宏『食う』(社会思想社、一九九六年)

 

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