2000年・沖縄観光学ことはじめ

−「墓は女の苦労」について−

                                  奥田 尚

 

 はじめに

  前号(創刊号)に玉陵の草刈りをしていた中年の女性に沖縄で感心したことを聞かれて、「亀甲墓」と答えたところ、吐きすてるように「墓は女の苦労」といわれたことを書いた。このことについて、なお考えるべき点をいくつか調べたので報告したい。

 まず、はじめに沖縄の墓について、概要を見ておきたい。名嘉真宜勝『沖縄の人生儀礼と墓』(沖縄文化社・1999年6月)によれば、沖縄の墓の形式の大分類は、横穴式と平地式に区分でき、両者はさらに次のように分類できるという(原図並びに説明文を一部改変した)。ちなみに平敷令治『沖縄の祖先祭祀』(第一書房・1999年)は、若干異なる分類をするが(274頁)、名嘉真の分類の方がわかりやすい。

 

 A 横穴式   洞穴式   洞穴墓・・・・・・・・自然の洞穴を利用(別名:ガマバカ)

                              岩穴囲込墓・・・・洞穴の入り口を石で閉鎖。

               岩陰墓・・・・・・・・傾斜した岩陰を利用。

 

         掘込式      壁龕墓・・・・・・・・崖の中腹を掘り込む。

                              亀甲墓・・・・・・・・一般に丘を掘り込んでつくる。

               破風墓・・・・・・・・横穴を掘り込み正面を破風で飾る。

               平葺墓・・・・・・・・平坦で傾斜した屋根を持つ。

                        掘込墓・・・・・・・・砂岩に横穴を掘る。

 

 B 平地式   家形式   家形墓・・・・・・・・平地式の破風墓

               ヌーヤ墓・・・・・・野石を方形に積み茅葺き屋根をつける。

 

         箱形式   石積墓・・・・・・・・方形または円錐形に石を積む。

               箱形墓・・・・・・・・ブロックを箱形に積む。

               塔式墓・・・・・・・・本土での一般的な墓のイメージ。

 

 私が強く印象づけられたのは「亀甲墓」である。亀甲墓の構造も名嘉真のものが、最も理解しやすかったので、その原図を借りて転載しておきたい(名嘉真:図1=正面図は72頁、図2=内部の図は73頁より転載)。なお、亀甲墓について前号では、亀の甲羅に似た半球形の墓で、妊婦をかたどるともいわれ、と書いた。平敷によれば、亀甲墓の源流である福建では「墓亀」とよび、亀を模したものであることは明らかであるとし(平敷:401頁)、四神の「玄武」と関連するのではないかという(平敷:421頁)。

 墓の構造は、基本的には、屋根・墓室・墓庭の三部分からなり、亀甲墓、破風墓、平葺墓の違いは屋根の部分にあり、墓室や墓庭の構造はほぼ同じである(名嘉真:72頁)。

 墓の内部の図の説明部分に明らかなように、まず墓室内の手前の平坦部分に死者の遺骸を納めた「棺」が安置される。棺の中の遺骸は、1〜7年の間に「洗骨」される。名嘉真によれば、現在のように火葬が一般化する以前の沖縄本島では、3〜7年目の七夕に洗骨したという(名嘉真:55頁)。

 洗骨が済んだ骨は、骨蔵器(「厨子」など)に入れられて、新しいものから順に一番下の棚から置いていき、古くなれば次第に上の棚に送られ、最終的には三三年忌が済むと、一番奥の「ノーシ」に合葬される(名嘉真:73頁)が、墓室が狭くなると三三年忌を待たずに、厨子を割ってノーシに合葬する(平敷:275頁)。

 また、破風墓は、1501年に尚円王のために初めてつくられといい(名嘉真:67頁)、亀甲墓は一七世紀末になってはじまったという(平敷:268頁)。

            


〔奥集落の亀甲墓〕

 

 以上、名嘉真と平敷の研究に依拠して亀甲墓の位置づけや構造などを見てきた。亀甲墓は一個人の墓ではなく、次々と追葬されることを前提とした共同墓である。共同墓で追葬されるというと、まず、家族が想定されよう。

 本土の一般に我々がイメージする「○○家先祖代々之墓」といった銘を持つ塔式墓でも、基壇の下に空間(小さな墓室)があり、そこに火葬骨を骨壷に納めて安置し、家族の死者が出るごとに追葬する。近年では、死後まで夫と同じところに葬られたくないという理由で、妻が生家の墓など別の墓に葬られたいという希望があるなどの話題が、新聞や週刊誌に時々載せられている。

  それはともかくとして、沖縄の共同墓には家族墓の他に、門中墓、模合墓があり、現在では見られなくなったという村墓もあるという。門中墓は門中=父系親族集団の共同墓であり、模合墓は寄合墓ともいい、明治時代によくつくられたもので、金銭の相互融資機構の「模合」から名を取り、気のあった仲間同士でつくった墓である。村墓は名の通り村落共同体の墓である(名嘉真:62・63頁)。

 さて、冒頭に書いた前号の「墓は女の苦労」であるが、前号には八月中旬の旧盆や四月上旬の清明祭では、亀甲墓などの墓前で門中を主とした宴会が開かれ、こうした宴会の準備は女の仕事であろうから、「墓は女の苦労」であろうというように記した。それはそれで事の一端には触れているのであるが、事はそれだけでは済みそうにないようである。雑誌『インパクション』(インパクト出版会・1973年6月)103号は「沖縄へ、そして沖縄から」の特集号であり、座談会「沖縄の力・文化とジェンダーの間」が載せられており、この問題に深く関係する発言があるので、それを次に紹介したい。

 

  1 宮城晴美・加納実紀代・冨山一郎による座談会の紹介

 この座談会の内容自体は、沖縄理解のためには非常に重要なものであるが、座談会という性質上、話の流れの中でしか真意が理解できない発言もあるので、そこから一部分の発言を抜き出すこと自体が問題であることは、この紹介の前提にしておきたい。

 前号に書いた部分に共通する発言も、もちろんある。

 「宮城(晴美):(前略)。それを支えるために、女性たちは年がら年中行事にふり回されるわけです。男たちは酒を飲んでイーアンベーしている。

 加納(実紀代):在日の場合もそうですね。在日としての民族的アイデンティティを日本の中で確保していこうとすると、韓国の伝統的なお祭りや祭祀(チュサ=ルビ)という法事を大々的にやる。鄭暎恵さんによるとそれが多い家の女は命が縮まると言われるくらい、女性にとって負担なわけですね。だけど男たちはそれをやめたらアイデンティティがなくなるという。

 冨山(一郎):酒飲んでるだけ(笑)。

 加納:男は上で飲んでて女だけ下働きする。こうした文化とジェンダーの間の矛盾をどう解決するのかという時に、一つは文化をジェンダーの視点でつくりかえるということがありえますね。たとえば男も一緒になって下働きするというふうに。女性差別的な文化だからなくしてしまえというのではなくて。」(座談会:16頁)

 

 それよりも更に「墓」と「女の苦労」は、意味が深いようである。

 「加納(実紀代):門中制度というのは儒教の影響で、中国が持ち込んだものだと思っていたのですが、いまのお話を聞くと明治民法とも関係があるのですね。

 宮城(晴美):とくにそれが大きいと思うんです。門中の問題というのは財産の問題、お墓の問題があります。お墓の問題はいまでも大きなものがあって、門中墓には嫁いできた女性しか入れられない。未婚のまま死んでしまった場合には脇墓にしか入れられない。離婚して帰ってきた女性も入れない。いまでも問題があって大変なんですが、破局が生じて離婚した後、再婚するとします。前の夫との間に男の子がいると、この女性は長男がいるということで再婚しても死んだら元の夫のところに戻って、そのお墓に入らないといけないという仕組みになっています。

 また結婚の形を取っていながら他の女性との間に男の子が産まれた場合が大変なんです。先に生まれたほうが長男ですから、内縁関係であってもその女性のほうが実権が強い。いまでもそうです。これが厄介な問題で、単に財産の問題だけではなくて、死後の社会までが絡んでくる。」(座談会:14頁)

 「苦労」は宴会の下働きを超えて、「この世」の財産問題にとどまらず、「あの世」にまで連鎖する。

 

 上に「墓」と「洗骨」の関係を書いた。座談会の1997年当時もまだ、洗骨が残っている場所があるようである。

 「宮城:洗骨でも、男性たちは野蛮だからやめろと言いやすいと思う。ところが、私の生まれた座間味島、まだ洗骨なんです。男性たちが棺桶をお墓から引きずり出して来る。三年後ですから、棺はちゃんとしています。引きずり出してきて、置いて男性たちは散る。それで女性たちが蓋を開けて、より近い肉親が頭を取り出し、そして骨に付いている皮をはがしながら洗うのです。

 加納:いまでもやってるんですか!

 宮城:やってるんです。血縁が離れた人だったらいいんですけど、自分の子どもをやる人がいる。半分狂います。」(座談会:17・18頁)

 コメントの必要はあるまい。まさに「墓は女の苦労」なのである。

 

   2 洗骨も葬儀も・・・・

 洗骨について、別の記述を紹介しておこう。民俗学の「古典」といわれ、高い評価のある大間知篤三ら編『日本民俗学大系』は、その第12巻を「奄美・沖縄の比較民族学的諸問題」(平凡社・1959年5月)にあてる。その「沖縄の民族」の部分に、比嘉春潮「通過儀礼」があり、そこに「洗骨」の項があるので、その全文を紹介したい。

 「七年忌をすぎたら洗骨をする。しかし三年忌を過ぎて、必要がある時、たとえば新しく人が死んでその墓に葬るようなときは七年以内でも洗骨をする。

 洗骨は日を選んで行う。まず棺のまま墓の庭に出す。角盥という楕円形の盥に水を入れて、それから湯をさす。湯灌の時と同じく逆水である。

 最初にいちばん血縁の近い者が箸で骨をはさんで、洗う女に渡す。洗う女もこれを箸で受け取る。平常食物を箸から箸で渡すのを忌むのは、そのためである。

 まず頭蓋骨を先に洗い、顔面は紙を張る。そうすると生前の顔貌がそのままに見えるとのことである。これを白布に包んで、最も血縁の近い者、たとえば娘とか妻とかが、全部の洗骨が済むまで抱いている。

 洗った骨は、布や紙できれいに拭いて、白布を敷いた台の上にならべて乾かす。全部洗い終わるとこれを厨子という骨壺に、足の骨をいちばん下にして上に頭蓋骨を置き、法名・俗名・卒去年月日・享年などを書いた木札を入れ、さらに厨子の蓋の裏にも同様なことを書き、顔が奥に向くように墓の中の段に順序に従って置く。

 三年・五年と経てば骨はたいてい、きれいになっているものだが、どうかすると肉が腐らずにミイラ状になっていることもある。これは何か悪い因縁によるものとして遺族を大いに悲しませる。こういう場合は刃物などでかき落してから洗う。

 洗骨は全部女の手によって行われる。洗骨中は天日に直接あたるのを避けるため、傘をさし、または幕を張る。墓を開く前に香を焼き、終わって供物をして祭祀を行う。

 厨子は陶製で、屋根蓋のついた長方形のと、丸蓋のついた甕形のがある。甕形はたいてい素焼であるが、長方形のは釉薬がかかって工芸的価値のあるものが多い。数百年前のものには木製もあり、石製のもある。洗う時には水だけでなく、骨にシミでもある時は焼酎で拭き取ることもある。

 夫婦の骨は双方の洗骨がすんだとき、一つの厨子に納める。沖縄の諺に偕老同穴のことを「甕の尻一つ」というが、これは骨甕の底までいっしょというわけである。

 厨子は墓の中の凹字形に造られた段に並べる。奥のほうから左右にだんだんと年代順に並べる。骨甕がふえて並べきれなくなると、三十三年忌をすませた骨はいちばん奥の中央に、骨を溜める凹所があってそこへ納めていっしょにする。門中墓のあるときは、こういう骨はその門中墓に移し納める。そのころはたいていの骨は粉になっている。ついでだが、嫁して来て子を生まなかった女の骨は三十三年忌がすむと生家の墓に返してやる。婚家の門中には彼女の子孫がなく、その霊は生家の祖神に合一するからである。

 この洗骨は他県にもないでもないが、沖縄の特殊の習俗だとされていた。置県以後は衛生上の見地から夏季にはこれを行うことを禁止され、また戦前から女たちの間にこれを忌み避ける傾きがあったが、戦後は火葬が多くなって来たから、近いうちにこの習俗はなくなるであろう。」(比嘉:99〜101頁)

 出版年が1959年であり、比嘉の記述はそれ以前であるから、背景となる時代の相違といってしまえばそれまでだが、文中にも「洗骨は全部女の手によって行われる」とあるのだから、「洗骨」行事がどのように行われたかも、「女の目」によってレポートされるのが一番であろう。もちろん、筆者がそうしたレポートを知らないだけのことであり、レポートはあるのかもしれないが・・・・。実は「観光学」にとっては、この点が重要だと思われる。

 人が移動し、異なる場所に立ち、何ごとかを体験し、それをレポートするとき、その人の立場性というフィルターが作動していることに注目して置かねばならない。もちろん、この場合に「レポート」というのは、文字に書かれたものに限らず、記憶の中にそれを残すことも含まれている。時代性を無視して比嘉の文章にそって指摘すれば、比嘉は「嫁して来て子を生まなかった女は」と書く。後文に「門中に彼女の子孫がなく」というのだから、父系親族集団である門中に子孫を残す「子」は「男の子」である。そうすれば「女の子」しか生まなかった女の骨はどうなるのかという疑問が生じる。比嘉は男の視点に立っているから、「子」といえば「男の子」なのである。

 こう考えると比嘉が「子を生まなかった女の骨は生家に返してやる」と書くとき、「返してやる」は男の視点で恩着せがましく「返してやるのだぞ」という意識があるのではないか、ということになる。男の視点から女を描くなといっているのではない。男の視点から女を描く際には、よほど気をつけていても、抜け落ちる部分があることをいいたいのである。

 話を戻してもう少し「墓は女の苦労」を続けよう。上に引用したのと同じく比嘉の「通過儀礼」には「葬式」の項があり、次のような部分がある。

 「棺は寝棺である。葬式の日には納棺するまで、手足が硬ばらないように、娘や親類の女が絶えず関節のところを揉む、これを最後の孝行だという。」(比嘉:97頁)他にも葬儀での女の仕事は多く、名嘉真によれば「死者を盛装させ、仏壇の前に西枕に寝させて枕飯などの準備がすむと、一般弔問客の焼香がある。女の遺族は死者の周囲にすわり、男の遺族は一番座などにひかえている。女の弔問客は門前から泣きながらやってくる。そして死者の顔をのぞくときも、悔やみのあいさつのときも泣きながらおこなった。女は泣くのが礼儀とされていたが、現在では大声で泣くような風景は見られなくなった。」という(名嘉真:49・50頁)。

 

  まとめにかえて

 死に臨んでの葬儀も、死後の「墓」も、女に割り振られた仕事は、まさに「苦労」でしかない。その上で、本人が死んだ場合にも、「墓」は勝手にあちらへこちらへ葬られたり、移動させられたりである。さらにはそれは死者を象徴する「位牌」の扱いにもおよぶ。比嘉によれば、男の位牌は仏壇の上段に、女の位牌は仏壇の下段に配置されるという(比嘉:98頁)。さらに位牌を誰が継承するかという問題は大問題であり、男が継承することになっているようである。「女の苦労」の問題の行きつく先は、「門中」という父系親族集団にあると思われるが、それについては別の機会の課題としたい。

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