構造改革への視点
――ライフ・エコノミクスのすすめ――

2003年2月27日


 T.景気の見方・考え方 ―不況の意味― 

.不景気とは?

 景気が悪い、不況だと言う場合、具体的に何を指して言っているのでしょうか。意外と感覚的な印象から発言している場合が多いのではないでしょうか。おそらくテレビのニュースや番組のコメンテーターと称する人々の物知り顔の発言を鵜呑みにしていることも多いのではないでしょうか。
 形式的には、政府が発表する景気動向指数の動きが主要な判断材料として用いられます。下の図のように、景気動向指数の半分以上が3ヶ月前よりも良くなった(50%ラインの上)ときに、景気は上昇局面、好況期に突入したといいます。


 その50%ラインを下から上に突き抜けるときを、景気の「谷」、逆に上から下に突き抜けるときを、景気の「山」といいます。このように、好況期や不況期の判定は、基本的には機械的な作業によって導出されるものです。好況期には、60%から80%に上昇する局面も、逆に90%から70%に下降する局面も含まれます。それぞれの局面で人々が実感する景気のよしあしは、実際には多様でしょう。
 もとより、景気の「気」は、気持ち、気分の「気」ですから、人々の主観による部分が大きいことは確かです。そのかわり、それほど確かなことでもないということになります。こうした不確かな現象としてではなく、もっと確かな、より理論的な観点から景気の問題、さらに構造改革の問題を考えるためには、やはり多少面倒でも、景気と成長の違いや、不況の意味を明確に把握することが必要です。


2.景気の問題と成長の問題−短期と長期−

 当初、小泉首相は「構造改革なくして景気回復なし」といっていましたが、後に「改革なくして成長なし」と変えました。おそらく誰かの助言によるものと思いますが、前者は明らかな間違いでした。構造改革の意味については後に触れますが、ここでは長期の問題であることを指摘しておきます。他方、景気は短期の問題です。つまり、短期の問題と長期の問題を直接結びつける議論は、基本的に乱暴な議論であり、論理的な一貫性を欠いた議論です。したがって、構造改革の問題は長期の問題である成長の問題と関連づけて論じるのがより適切であるというわけです。
 しかし、成長の問題は長期の問題ですから、景気の問題ではありません。つまり、小泉内閣は、景気の問題を正面には据えていないということになります。少なくとも、「改革なくして成長なし」というスローガンには、景気に対する言明がありません。この点は、小泉内閣の政策理念の特質として注目すべきところではないでしょうか。
 もう一点、景気と成長に関して区別すべき点として、前者(景気)は方向性によって判断される問題であるのに対して、後者(成長)は水準(レベル)によって判断される問題であるという点です。短期的な景気の話から成長率の高低を云々することは、見当違いの議論ということです。逆に長期的な成長過程では、好況・不況が繰り返されるのが普通ですので、そのような変動から成長率の議論を展開することも同様に見当違いということになります。
 景気変動は、基本的に需要と供給の不一致によって生じます。なお、一国全体の需要、供給は、それぞれ総需要、総供給と表現します。総供給の水準(潜在GDP)は、一国の生産能力、したがって国内の労働力、資本設備、技術水準などの状態によって決まってきます。その生産能力は、短期的には大きく増減することはありませんから、需給の不一致は、総供給に対する過大な総需要か、過少な総需要の場合に発生することになります。


 図に示したように、総供給を上回る総需要の発生は、一般的に好況期に見られる現象で、行き過ぎるとインフレを引き起こすことになります。逆に、総供給を下回る総需要の発生は、一般的に不況に見られる現象で、遊休設備の発生、労働力の過剰、すなわち失業が発生することになります。


3.豊かな国のデフレと貧しい国のインフレ



 先進諸国は、一般的に高い生産能力を保有しているため、総需要の減退が生じると需要不足による不況、デフレ・ギャップ、失業問題が顕在化しやすい傾向を持っています。豊かな国々は、需要の飽和によって停滞した経済に転換する危険性を持っているということです。他方、発展途上国では、一般的に生産能力が不十分なため、国内の需要をすべて充足することができず、供給不足、相対的な需要過剰によって、インフレを引き起こす危険性を持っています。
 総供給に対する総需要の調整は、需要不足経済では需要拡大政策、需要過剰経済では需要抑制政策が必要になりますが、後者のケースは、生産能力の絶対的な不足による需給のアンバランスであることから、総需要の引き下げではなく、生産能力の拡大策が重要であることはいうまでもありません。


4.総供給と総需要の中身

 国内に供給される財・サービスは、国内で生産されるものと輸入からなります。国内生産の水準は、すでに述べたように国内にある資本、労働、土地、技術などの生産能力を規定する生産要素によって決まってきます。

  供給=国内生産(資本・労働・土地・技術)+輸入(海外)       
☆需要=消費+投資+政府支出+輸出    ←  《デフレ不況》  →

 他方、総需要を構成する項目は、一般家計を中心とする消費、企業を中心とする投資、政府による政府支出、そして海外需要である輸出からなります。これらの需要項目の拡大・縮小を狙った政策が、総需要管理政策と呼ばれます。いわゆるデフレ不況とは、図にあるように需要項目のいずれか、あるいはすべてが総供給に対して過少であるために生じることになります。


5.不況の意味


 不況とは、総供給に対する総需要の不足によって発生します。そのことは、稼動しない機械・設備、利用されない土地、活用されない労働力が発生することを意味します。つまり、貴重な経済的資源が無駄になっている状態です。特に重要な問題は、活用されない労働資源=失業の発生です。稼動しない機械・設備や利用されない土地は、そのことを悔しいと思って嘆いたりはしませんが、使われない労働者は生活の糧を得る機会が喪失することを意味します。不況の最も重要な意味とは、失業の発生によって人間の生命を危機的状況にさらすということです。
 働く意思と能力がありながら働く機会がないという状況は、さらに精神的にも悪影響を及ぼすことはいうまでもありません。職安通いのお父さん、昼間からブラブラせざるを得ないお父さんやその家族が、心地よいはずがありません。経済的な不安や将来に対する不安、さらに社会的な不安にまで広がれば、一国全体にとってもきわめて憂うべき状況といわなければなりません。


6.不況対策の基本

 したがって、不況に対して政府が行うべきことは、総需要の拡大ということになります。それ以外にも、不況を引き起こした原因に応じて必要な対策を講じることもありますが、不況という現象に対する基本的な政策態度は過少な需要を引き上げること以外にありません。いわゆる経済の安定化、景気対策、総需要管理政策と呼ばれるものは、基本的に以上の内容と同じです。したがって、逆に過大な需要によるインフレに対しては、総需要の抑制が必要になります。それもまた総需要管理政策と呼ばれます。


  ☆不況(需要<供給) ⇒ 需要の創出・刺激:公共投資、減税、etc.
   [好況(需要>供給) ⇒ 需要の抑制・冷却:増税、金利引き上げ、etc.






 ところで、論理的に考えれば、需給のアンバランスを解消する方法は過少な需要を引き上げる方法だけではなく、相対的に過剰な供給の方を引き下げる方法もあるはずです。しかしこの方法は、現在の需要水準が人々の満足をほぼ満たしている状況であるか、豊かな生活を実現するうえでこれ以上の生産が不要な状況でない限り、納得できる方法ではないでしょう。
 すでに豊かな社会は実現されており、人々の欲望は所詮際限のないのものだから、一定の満足水準に見合うように生産水準も引き下げてしかるべきである、という意見もあるでしょう。これに対しては、まず豊かな社会とは何か、そして人間の欲望に対する評価の問題を考える必要があります。これらの問題が重要でないというわけではありません。ここでは、景気という短期の問題を考えています。上記の問題は、長期、あるいは超長期の問題といえるでしょう。
 アンバランスの解消に対して1つの基準になるのは、働く意思と能力のある人々がすべて働けるような経済活動水準になります。これを完全雇用GDP 水準といいます。失業が発生している限り、総需要の拡大策が不要になることはありません。


 U.構造改革か、景気回復か ―供給と需要・目的と手段― 

1.構造改革の目的

 不況の意味、景気に対する見方・考え方をふまえたうえで、次に構造改革について考えることにしましょう。構造改革の基本的な意味は、「民間でできることは、できるだけ民間に委ねる」、「市場原理の積極的導入」といったことです。これは、市場機能の基本的役割を活用することにほかなりません。つまり、ヒトと資本を効率性の低い部門から高い部門へ移動させること、また移動の際の障害物を除去することを意味します。
 非効率で生産性の低い部門や衰退していく産業に滞留している労働力や資本を、より効率的で生産性の高い部門、成長する産業に移動させることで、経済全体を活性化させ、成長につなげることが構造改革の基本的な目的といえます。


 しかし、そのような移動がいつの場合もスムースに行われるとは限りません。遊休設備を他の用途に転換することが容易でない場合もありますし、とくに労働力を右から左へと簡単に移動することは多くの場合、きわめて困難です。昨日まで建設現場で働いていた人を、今日からコンピューター会社のプログラマーとして働かせることは不可能でしょう。職業再訓練のための制度を整えることはこの点で重要な意味があります。いずれにしても、失業の発生は避けられません。これがいわゆる構造改革に伴う「痛み」です。


2.構造改革をめぐる論点

 構造改革に対する評価に関しては、さまざまな論点が指摘されています。「構造改革なくして、景気回復なし」は、本当でしょうか。これは間違いでした。では、「構造改革なくして成長なし」は本当でしょうか。これはある意味、本当でしょう。バブル崩壊から10年以上も低成長にあえいでいる日本経済の現実を見れば、やはりこの国の根本的な構造を改革する必要があることは確かでしょう。となると、問題は、構造改革を実施する時期の問題になります。いま、しなければならないのか、それとも景気回復を優先すべきなのか、ということです。つまり、構造改革が先か、景気回復が先かという問題です。この問題の答えは、以下のような論点を考えることで見出せます。

 1)現在の不況の原因は何か。
 これが構造改革を先送りしてきたことであれば、構造改革が優先されなければなりません。つまり、構造改革を進めることこそが不況脱出の前提条件であるという主張です。しかし、前にも述べたように、不況は基本的に短期的な経済問題です。長期的な経済問題である構造改革の問題と同列に考えるのは、理論的には誤りです。
 不況の原因を考える場合、不況という状況の直接的な原因と、不況をもたらすような社会経済的な原因(間接的原因)の二つの局面を見る必要があります。普段から健康な人が冬の寒さにも負けず、風邪一つひかないのに対して、普段から病弱な人は冬の雑踏を歩いただけで咳き込み、熱を出すことがあります。「風邪をひきやすいのは普段から体を鍛えていないからだ!」と言って、毎朝、上半身裸で乾布摩擦をすれば、長い目で見れば健康な体作りには役立つでしょうが、おそらく風邪をさらにこじらせて肺炎になってしまうのがおちでしょう。
 現在の不況は、たしかに改革すべき問題の先送りと関係があるとしても、基本的にはバブル崩壊後の供給過剰、需要不足こそが原因であり、その需要拡大策こそが不況対策の本来の意味です。しかし、その供給過剰・需要不足が恒常的に発生する状況を是正することは、構造改革の課題です。さて、今の政府はどちらを目的にしているのでしょうか。

 2)構造改革と景気回復は両立可能か。
 需給のアンバランスとしての不況も、その恒常化による構造問題も、ともに解決すべき重要課題ですが、それでは、両者を同時に解決することは可能なのでしょうか。基本的には難しいというのが、経済政策の理論的な帰結です。複数の目的には複数の手段が必要であることは、ティンバーゲンの定理として知られています。その場合、それぞれの目的と手段が相互に独立であること、相互に影響を及ぼさないことが必要条件です。
 しかし、現実的には、相互に全く影響を及ぼさないで、別々の政策目的を実現することはほとんど不可能です。せいぜい、他の目的に対する負の影響が少なく、相対的に有効な政策手段を探し出して、それぞれに割り当てることしかできないでしょう。このような限界を受け入れて同時解決を狙うか、そうでなければ、優先順位を決めて、政策実施のタイミングをずらすことが必要になります。

 3)不良債権処理は構造改革か。
 バブル崩壊で大量に発生した不良債権が、中小企業への貸し渋りや貸しはがしを引き起こし、銀行が自己資本充実を優先するあまり、金融機関の本来の役割、金融仲介機能を喪失し、そのために企業倒産やリストラなど、不況が深刻化しているという見解が多く見受けられます。たしかに、金融機関が余剰資金を集めて、資金不足の企業に貸し出すという本来の役割を放棄すれば、経済は不健康な状態に陥ります。お金は人体の血液に相当するものです。血流が滞れば、人体も重大な危機に瀕します。
 しかし、このことによって景気は回復するのでしょうか。構造改革といえるのでしょうか。血流が滞る病気、たとえば動脈瘤が手術によって完治すれば、元の健康体に戻りますが、それはあくまでも元の状態に復帰したにすぎません。通常の状態に戻ることをいちいち構造改革という人はいないでしょう。貸した金を返すことは、構造改革ではありません。構造は変わりません。
 もちろん、金融仲介機能の回復は、不況脱出のための前提条件ですが、借り手がいなければ、直ちに景気回復に結びつくわけではありません。したがって、直接的な不況対策というわけでもありません。金融システムに関する構造改革とは、銀行依存型の間接金融から証券市場などを通じた直接金融の割合が増加するような変化や、リスクに対する認識が高まるようなシステムが構築されることです。こうした変化は、私達の生活や経済活動にも大きな影響を及ぼすことになるはずです。だからこそ、構造改革なのです。


3.構造改革の難しさ

 構造改革は、構造の改革ですから、基本的に構造問題を解決すること、取り除くことを意味します。それはまた、前に述べたように資源配分の歪みを是正することを指します。野口旭氏によれば、具体的には、

 @特殊法人などの非効率な公企業を効率化すること、民営化すること。
 A過度な政府規制を撤廃ないし緩和すること。
 B貿易制限を排除すること。
 C不十分な反独占規制を強化すること。
 などが含まれます。

 それらはいずれも、「政府の市場への不適切な関与」によって生じる非効率性の問題です。したがって、構造改革の対象は、政府の市場への関与のあり方、つまり政府自身が問題対象ということです。政府が政府自らを改革するというわけです。泥棒が泥棒の取締りを強化するようなものですから、その実施がきわめて困難なことは火を見るより明らかです。経済システムの改革には、政治システムの改革が必要ということです。


4. 景気回復なき構造改革―政策割り当て問題

 構造改革の目的は、短期的な景気回復には直接結びつきません。それでは、景気回復がない場合の構造改革はどのような問題をもたらすでしょうか。この点を考えるために、経済政策における目的と手段の関係について、教科書を復習しておきましょう。
 下表のように、経済成長や物価、雇用などのマクロ的な諸問題に対する基本的な政策手段は財政政策と金融政策です。他方、資源配分の効率性を改善したり、諸個人の所得に影響を及ぼしたりするミクロ的諸問題への主要な政策手段は、独占禁止政策や公的規制、民営化などを含む競争政策と、税制や社会保障制度を通じた財政政策です。
 ミクロ経済政策としての財政政策には、所得や消費に影響を与える税制、年金生活者や失業者に影響を与える社会保障制度などが含まれますが、一般の金利水準や貨幣供給量、為替レートなど一国経済全体に影響を及ぼすマクロ的な財政政策手段とは区別する必要があります。

  【マクロ経済政策】
   目的:適切な経済成長、物価の安定、雇用の確保
   手段:財政政策(税・政府支出)、金融政策(金利、貨幣供給、為替レート)
  【ミクロ経済政策】
    目的:資源配分の効率性、公正な所得分配
    手段:競争政策(規制改革・民営化)、財政政策(税、社会保障政策)











 他方、下表のように構造改革はミクロ経済政策、不況対策はマクロ経済政策に分類できます。したがって、構造改革の手段としてマクロ経済政策を用いることも、不況対策としてミクロ経済政策を用いることも、ともに目的と手段の関係から、誤った政策ということになります。不況対策として用いるべきマクロ経済政策によって、構造改革を推進しようとすることも、また効率性の改善のための政策によって不況対策を講じようとすることも、政策割り当て問題としてはともに誤りであるということです。ただ誤りであることだけなら良いのですが、この場合には、前者では構造改革がさらに先延ばしになり、後者は不況を一層深刻化する可能性があります。


 構造改革=効率性改善策(供給力の向上) → 資源配分の効率化=ミクロ経済政策
 不況対策=デフレ対策・需要不足の解消  → 有効需要の創出=マクロ経済政策







 したがって、不況対策を講じることなく構造改革の推進すれば、それは景気回復なき構造改革となり、景気をさらに悪化させることになります。
 構造改革とは、非効率部門の淘汰、低生産性部門からカネ・労働力を引き揚げ、それを高生産性部門へ移動させることで生産能力の向上、供給力の向上を図ることです。それではますます需給ギャップを拡大させることになります。そしてますます失業が増加することになります。構造改革はこうした痛みを余儀なくさせることになります。その痛みは一層の消費減退につながり、デフレ・スパイラル、不況の深化へと陥ってしまうことになります。
 それでも、構造改革は避けられないのでしょうか。そもそも、改革すべき構造とは一体、何でしょうか。この点をあらためて考えてみる必要があるでしょう。



 V.構造改革の真の課題 ―成長依存症候群からの脱却―

1.改革すべき構造とは−成長を前提とした社会の仕組み

 結論から先に述べれば、改革すべき構造とは、成長に依存した日本の社会経済システム全体であると考えます。このようなシステムは、当然、成長が実現されなければ、さまざまな問題を引き起こすことになります。そうした成長に依存した社会が、成長期待の喪失によって生み出す問題群を、ここでは「成長依存症候群」と呼ぶことにします。したがって、構造改革の真の課題は、成長依存症候群からの脱却であると考えます。
 アルコール依存症や麻薬中毒の患者は、おそらく最初は軽い気持ちで、お酒、麻薬に手を出してから、やがてそれなしにはどうにもならなくなってしまった人たちです。治療のために、酒、薬を断てば、禁断症状を引き起こします。バブル崩壊後の日本は、成長という麻薬が切れて禁断症状を起こしているようなものです。これを、ここでは成長依存症候群と呼ぶことにします。
 事実、戦後の日本経済は、成長経済そのものでした。1960年代の平均成長率は約10%。10%の成長を10年続けると、当初の2.6倍になります。そして70年代と80年代の20年間も、多少の変動はあっても平均5%前後の成長を実現してきました。やはり5%の成長を20年続けると、2.6倍になります。戦後の日本経済は、確実に経済水準、生活水準のレベルを急速に向上させてきました。そのような長期にわたる高水準の成長を持続的に実現していくと、成長は単なる期待や希望から、現実そのものになってしまい、やがて成長することは当たり前、当然の前提と思い込んでしまうことになります。
 そうなれば、あらゆる制度・慣行・組織・システムもまた、成長を前提として形成されることになり、それが固定化・構造化されることになります。すなわち成長依存型社会の完成です。その成長依存型社会は、企業規模・市場シェアの拡大を志向する企業行動とそれを支える会社組織を含む成長依存型企業システム、その企業システムを支える企業依存型生活システムという2つのシステムを土台として、より強固な成長依存型社会を作ることになりました。



 もちろん、戦後の日本経済が順調に成長を続けてきたわけではありません。幾度かの不況や石油ショック、円高不況などの大きな景気後退局面にも遭遇してきました。しかし、これまでの景気循環から見ると、3年程度の好況期のあと、1年半ほどの不況期を経験するという循環を繰り返してきました。1年半ほどの時期を耐えれば、やがて3年間に及ぶ好況期がやってくる。そういった経験が、やがて成長神話さえ生み出すことになるのです。その間、第1次石油ショック後の1974年にマイナス成長を記録した以外、バブル崩壊までは、必ず経済は成長を遂げてきたのです。
 構造改革が必要であるとすれば、それは「成長は永遠である」という幻想からの覚醒でしょう。その幻想は、日本社会全体が共有した共同幻想でもあったのです。しかし、成長依存症候群からの脱却は、共同幻想がまさに幻想にすぎないことを思い知らせることですから、混乱が生じることは避けられません。それが禁断症状です。成長依存型社会のなかで発症した病、成長期待の喪失によって生じる病には、どのようなものがあるのでしょうか。



2.成長依存型社会の5つの病−日本型先進国病−

 成長依存型社会のもたらす病、つまり成長依存症候群の具体的な症状として、上記のような5つの問題を指摘できるでしょう。それはまた、日本型の先進国病ともいえます。順次、そのポイントを説明しましょう。


@先送りの論理→(そのうち何とかなるさ! 先送りによる問題の深刻化)
A成長の原動力としての企業中心社会→(生活・家族・個人・教育の従属化)

B長期的・安定的(固定的・閉鎖的)関係→(曖昧さ、不透明性、どんぶり勘定)
Cリスク・不確実性に対する感覚の麻痺→(創造性・異質性の排除)
D画一的志向→(多様な価値観を許容・尊重する視点の欠如、Idenntityの欠如)










@ 成長が続くことを当たり前と思えば、多少の問題ならまた良くなるまでやり過ごすのが一番になります。実際に良くなってしまう状況が何度も続けば、やがて改革といった面倒なこと、痛みを伴うややこしい問題などはすべて先送りされることになります。根拠のない楽観主義は、やがて深刻な病にかかったとき、取り返しのつかない事態に直面することになります。

A 一国の経済成長の主要な原動力は、なんと言っても企業です。成長重視は企業重視と同じことになり、企業の成長・発展こそがすべてに優先される結果として、そのほかの生活、家族、個人的時間、町内会の活動、教育問題など、すべてが二の次にされてしまいます。それだけではなく、それらがすべて企業の都合の良いように組み替えられてしまいます。企業に従属した社会、企業中心社会が形成されることになります。

B 長期的な成長が前提となれば、短期的な変動や損失は長期的な利益で清算することが可能になります。いわゆる「どんぶり勘定」で済ますことができます。そして成長の利益を保持するために、現在の取引関係を長期的・安定的に維持することが重要になります。そのような関係が固定的・閉鎖的な関係に転化してしまえば、外部者には曖昧で、不透明な関係に映ることになります。

C 成長期待の持続は、本来的に存在する多様なリスクや不確実性に対する感覚を麻痺させてしまいます。リスクや不確実性に直面したときに重要になるのは、創造性や既存の観念を打ち破る異質なアイデアでしょう。したがって、危険を真剣に考えない態度からは、創造性も異質性も生み出すことが困難になります。

D 成長が持続している間は、その成長に見合ったパターンを踏襲することになります。いわゆる「ワンパターン」になります。それは、企業の行動様式から組織形態、働き方、勉強の仕方、生活の仕方、そして人々や企業に対する評価の方法も画一化することになります。それはまた、多様な価値観を許容・尊重する視点の欠如、Identityの欠如を意味することになります。

 以上のような病にかかっているときに、成長が期待できなくなってしまえば、中毒患者の禁断症状と同様に、日本の経済社会はとんでもない状況に直面してしまうことは避けられません。それがまさに、バブル崩壊以降の日本経済、長引く不況という現実が物語っているのではないでしょうか。


3.成長依存症候群から不安症候群へ

 成長神話の崩壊は、成長依存型社会を機能不全に陥らせます。それはまた、成長によって予定されていた未来を不透明なものに変えてしまいます。将来への不確実性の増大は、不安を醸成することになります。成長依存型システムからの転換が必要であるとしても、どこへ転換するのか、どのような社会に変わるのかが曖昧であれば、ただ闇雲に構造改革を推進することは、これまでのシステムに安住していた人々を、不安の世界に放り出すことになります。成長依存症候群は、新たに不安症候群という別の病を発症させてしまうことになります。
 構造改革が強いるものは、基本的に、自己責任と雇用の流動化です。自己責任の意味するものは、結局は、銀行や企業を自らの責任で選択しろ! 自分の老後は自分で準備しろ! ということにほかなりません。そして雇用の流動化が意味することは、終身雇用はない! 自分の能力を磨け! ということでしょう。
 つまり、成長依存型システムの崩壊は、従来までの安心を担保する仕組み(安心社会)の崩壊です。不安の拡大は避けられません。したがって、必要な構造改革があるとすれば、それは、人々の不安を最小化するための仕組みを再構築することにあるといえるでしょう。
 自己責任の世界は、けっして楽な世界ではありません。自分が持つ限られた知識と情報に基づいて、自ら判断・行動し、その結果に責任を持たなければなりません。このような世界にすべての人々を放り込むことは、おそらく多くの人々に損害や被害をもたらすことになるでしょう。かといって、すべての人が損害も被害も被らない社会を作ることは、成長依存型社会をまた作ることになってしまいます。
 この世からリスクや不確実性を完全になくすことは不可能です。では、どの程度のリスクや不確実性を各自の責任で負わせるべきなのでしょうか。その負担の基本原則を明確にすること、そして、その原則を基礎とした新しい社会を作ることが、実は構造改革の本来の意味ではないでしょうか。

 W.失業率5%の世界 ―安心社会と信頼社会―

1.失業率と失業の経験可能性
 これからの社会の重要な変化のひとつは、雇用の流動化でしょう。現実的に失業率は5%を上回ったままです。この失業率5%の意味は、単なる数字だけの問題ではありません。失業率5%の世界は、2%の世界とはまったく別の世界だということを理解する必要があります。構造改革の意味を考えるためにも、失業率の意味を考えてみましょう。
 次のような仮説例を考えましょう。いま、すべて人が等しい確率で失業すると仮定してみましょう。5%の失業率のもとでは95%の人が仕事に就いているということですが、それは必ずしも現在雇用されている人が生涯にわたって現在の職場に雇用され続けるということではありません。それは、次のような世界を想定することで理解されるでしょう。


 1% → 全員が1回は失業を経験するには100年かかる
 2% → 全員が1回は失業を経験するには 50年かかる
 3% → 全員が1回は失業を経験するには 33年かかる
 4% → 全員が1回は失業を経験するには 25年かかる
 5% → 全員が1回は失業を経験するには 20年かかる










 大学卒業から定年までの職業生活を43年間(22歳〜65歳)とした場合、たとえば「失業率1%」の世界では、働いている人全員が失業を経験する確率も1%であると考えます。つまり100年に1回の確率で失業を経験するということです。このとき、失業は実質的に問題になりません。2%の場合でも失業は職業生活の期間では例外的なことになります。
しかし、「失業率5%」の世界ではどうでしょう。この場合、22歳で就職→42歳で失業=就職→62歳で失業=就職→65歳で引退、と生涯に2度の失業の可能性があるということです。これは18歳で就職した場合でも同じです。失業率5%の世界では、失業は決して例外ではなく、誰もが失業の可能性を考慮して、失業したときに困らないように職業生活を設計しなければならない社会といえるでしょう。
 失業してもあまり困らない社会、転職を恐れなくても良い社会を作る必要があります。それには基本的に以下のような3つの考え方があります。

@失業したらその後の生活費を、社会保険制度を通じて政府が面倒をみるという従来の福祉政策の考え方 [所得再分配政策=福祉主義]
A失業したらできるだけ早く次の仕事に就けるように職業訓練が受けられるようにさまざまな施策を講じることによって労働市場の流動性が高い社会を作るという考え方 [経済構造の改革=第三の道]
Bある人が仕事を失ったら政府がその人を雇うという考え方。政府による直接雇用、あるいは政府支出を増やして労働需要を創出し、失業者を救済する方法です。[公共事業・景気対策=ケインズ主義]

 この3つの可能性のうち、どれを採用するかは、国民の選択にかかっています。構造改革の目的は、ある意味でどのような職業生活を設計するかという問題でもあるのです。

2.高失業率と信頼社会

 いずれにしても、日本は他の先進国と同様に、失業率が2%前後の国から5%を上回る国になっているのです。失業率の低いうちは、失業保険などで対応が十分でした。社会福祉もそれほど重視する必要性はありませんでした。これからは、失業率5%の時代に対応した社会を構築する必要に迫られているということです。
 しかし、失業率5%の時代に必要な対策は、雇用政策だけではありません。下記に示したように、失業が重要な問題ではない社会は、会社を中心とする成長重視の社会です。そのような社会は、会社や自分の利益の追求が優先される社会、成長によってのみ安心が確保される社会でもあります。すなわち、自己利益優先と成長に向けて一致団結した協調性が重視される社会です
 しかし、失業率の高い社会では、ほとんどの人が失業のリスクに直面する社会です。そのような社会は、社会福祉が重要になる社会であり、失業に備えた雇用政策が重要になる社会です。そして、転職の可能性が高くなれば、会社ではなく生活こそが中心になる社会でもあるはずです。そこでは、お互いが助け合う相互扶助の精神が重要になるでしょう。また、それぞれの生活や人生を自ら切り開く自己決定が尊重される社会でもあります。成長によって担保されていた安心の社会から、成長率に関係なく、いや人間としての信頼こそが人々の支えとなる社会にならなければならないでしょう。



 安心が成長によって確保される社会では、基本的に信頼は必要ありません。他人を信頼できるかどうか悩まなくてもすむ社会が、安心社会だからです。したがって、成長の喪失は安心社会の崩壊を意味します。しかし、成長によって担保されていた安心社会の崩壊は、信頼社会の崩壊ではありません。信頼を必要としない安心社会から、信頼を醸成する社会を再構築することこそが、今、求められているといえるでしょう。その意味で、構造改革とは、信頼を担保する仕組みを再構築することと言えるでしょう。

 X.生活と人生を考える ―ライフ・エコノミクスのすすめ―

1.構造は変えるものではなく、変わるもの!

 さて、いよいよこの論考の結論に入ってきました。ここでの基本的な主張は、現在行われている構造改革には問題点が多すぎるということです。経済社会の成長・発展・進歩のプロセスは、経済構造や消費需要、生活スタイルの変化を必然的に伴うものです。経済社会の新陳代謝にこうした変化は避けられません。そうです、構造とは変えるものではなく、変わるものなのです。自ずと変わるものを無理に変えようとすると、さまざまな摩擦や痛みが生じることは明らかです。
 もちろん、だからといって何もするなと言いたいわけではありません。必要なことは、社会構造の変化を促すような制度・環境を整えることです。構造改革のゆくえを考えることは、その先に何が見えてくるかという消極的な態度ではなく、私たちが何を望むかという積極的な態度が必要です。どのような社会にしたいか、どんな生活を実現したいか、どんな働き方・学び方・遊び方を望むのか、こうした人々の率直な欲求を満たすことなく、豊かな社会、幸せな人生などありえないはずです。
 成長依存型社会は、こうした創造性や自ら考え、判断し、行動する能力を奪ってきました。成長の過程で経済的富は増えましたが、豊かな生活と充実した人生を自ら追求するための能力は失われてきた、といえば言い過ぎでしょうか。

2. ライフ・エコノミクスのすすめ ―豊かな生活と充実した人生のために―

 構造改革であろうと、他の経済政策であろうと、常に立ち戻るべき原点は、私たちの生活、一人一人の人生そのもの以外にはありえません。そのことを離れた政策論議は眉唾物と心得る必要があります。私は、生活と人生を基点とする経済学的方法を、ライフ・エコノミクスと呼び、新しい経済社会構築のための理論的枠組みを提供したいと考えています。その基本的な内容を、最後に述べておきましょう。
 現代を生きるうえで、やはり経済学は有力な武器の一つです。医者が聴診器を、兵士が銃を持つように、生活者も経済学的思考を身につける必要があります。経済学の基本は、希少性と選択です。つまり、限られた資源を、何のために配分するかということです。有限性の認識は、人々を謙虚にするはずです。希少なものを大切にする、尊重する態度を生み出すはずです。
 その限られた資源を何に配分するかは、人々の目的によって決まります。その目的を履き違えないことが重要です。専門的な議論は、しばしば当初の目的、何のためにといった根本を忘れがちです。常に原点に立ち返る姿勢を持ち続けることが重要です。その原点は、いうまでもなく生活と人生です。それを考えるためには、多様な個人の長い人生を視野に入れる必要があります。そのために、ライフ・エコノミクスの基本的な方法論は、時間論と多元論になります。
 時間ほど希少なものは存在しません。経済的には、財、自然資源、労働力も希少な存在ですが、限られた寿命を持った生命も、そして生きられる時間も同じように希少な存在です。人生80年として、70万時間、睡眠や食事などの生活必要時間26万時間を差し引けば、44万時間。人生とは、実は44万時間の配分問題です。そしてその配分する対象の間のバランスをどのように保つかという問題でもあります。
 1日を、労働時間、生理的必要時間、文化的・社会的時間に間にどのように配分するか、24時間のうち、どれだけを他人のための時間(他律的時間)に費し、また自分のための時間(自律的時間)にどれだけ費やすことができるのか、配分の問題は生活や人生そのものの問題につながります。
 時間を増やすことはできません。1日を24時間以上にも以下にもできません。こうした絶対的に希少性を有する点で、時間は最も経済的な分析対象といえるでしょう。その重要な分析対象を、これまで経済学は本格的に論じることをしてきませんでした。経済学が役に立たないといわれる基本的な原因は、実は、人々の生活や人生を決定付ける時間の問題を無視してきたからではないでしょうか。時間を真正面から考える必要があります。
 人々はいろいろな顔を持っています。人々が担う役割や立場は、消費者、労働者、地域住民、納税者、生産者、親・子、学生、主婦、等々、多様です。これらの役割・立場を別々に切り離して考えることはできません。このような多面性、多様性をそのようなものとして捉える総合的・多元的な視点に立つ必要があります。
 ライフ・エコノミクスの全体像については、いずれ公表する予定でいますが、ここでは基本的な問題意識、視点について述べておきましょう。

 日常の生活やそれぞれの人生を考える際の問題意識は、以下の3点です。

 @選択肢は限定されていないか。何が選択肢を狭めているのか。
 A貴重な人生の時間を、自由に主体的・自律的に選択することができるか。
 Bある特定の選択肢に比重がかかりすぎていないか。

 さらに豊かな生活と充実した人生のために必要な視点として、以下の3点を挙げておきます。

 @生き方・働き方・遊び方を主体的・自律的に選択できること。
 A選択肢が多様であること。
 B個人の選択が社会的に尊重され、認められていること。

 ようやく、出発点に立つことができたようです。この論考はまだまだスケッチに過ぎません。多くの方々からの忌憚のないご意見を期待したいと思います。


 〔文献案内〕

 *構造改革に多少とも不安・疑問を感じている方へ。
  1.小野善康『誤解だらけの構造改革』日本経済新聞社、2001年12月、1,200円。
  2.野口旭+田中秀臣『構造改革論の誤解』東洋経済新報社、2001年12月、1,500円。
  3.山家悠紀夫『「構造改革」という幻想』岩波書店、2001年9月、1,600円。

 *日本経済が抱える問題のポイントを手っ取り早く知りたい方へ。
  4.森永卓郎『日本経済50の大疑問』講談社現代新書、2002年3月、680円。

 *これからの日本人の生き方を考えるために。
  5.山岸俊男『安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方』中公新書、1999年6月、760円。
  6.山岸俊男『心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想』日本経済新聞社、2002年2月、1,400円。

 *失業率については、以下を参照。
  7.吉田良生・角本伸晃『マクロ経済学入門』成文堂、2001年。


*本稿は、2002年5月10日、2002年度追手門学院大学公開講座で行った講演(原題「構造改革のゆくえ」)の際に配布したレジメに大 幅な加筆修正を加えたものです。