自遊論題
自由気ままに、遊び心も忘れずに、お題も自由に論断・開題。


脳ミソの三段活用−「分からない」編

 
 
「分からない」には、3つのレベルがある。

 1つ目は、何も調べず、何も考えずに、ただ「分からない」という、赤ちゃんレベルの「分からない」である。このレベルの人たちの脳ミソは無用の長物にすぎない。

 2つ目は、辞書や事典、本などで調べてみるが、それだけでは理解できない場合の「分からない」である。考え抜く姿勢には欠けているが、脳ミソは多少とも活用されている。

 そして3つ目の「分からない」は、可能な限り調べ、考え抜いても、なお「分からない」という場合である。本当の「分からない」は、もちろん、この3つ目の「わからない」である。

 さて、あなたはどのレベルの「分からない」を連発しているのだろうか。そして、あなたの貴重な脳ミソは、どの程度活用されているのだろうか。




本能の効用


 人間にも、ほかの動物と同じように本能がある。

 「本能的」と「動物的」は、ほとんど同じ意味なのだろうか。ちなみに、辞書には「動物的」の反対語は「理性的」と書いてある。人間の本能に「理性」はないのか。

 「本能(ほんのう)」と「煩悩(ぼんのう)」が似ているのは、単なる偶然か。

 しかし、人間は行動すること、何事かを行うことに特徴がある。そのような能動性、主体性にこそ、他の動物とは異なる人間の特徴がある。その人間の行動を促す基本的欲求は、生きるということである。生きることは、人間の本能である、としよう。

 人間は食べないと生きられない。食べるために働く。だから、生きるためには働かなくてはならない。生きることは生活することである。食べること、働くことは、生きるため、生活するためである。

 したがって、人間の行動は、生きること、生活することに役立つことに向けられる。生きるため、生活するために役立たないことは、できる限り避けることになる。

 つまり、生きるという本能は、無駄や効果のないことを避けようとする性向を伴う。逆にいえば、役に立つこと、効果のあることに価値を見出そうとする。

 たとえば、あなたが大阪の住人であるとしよう。明日の正午、京都で友人と待ち合わせの約束があれば、当日の午前中にJRか阪急を利用して京都に向かうはずである。大阪を出発して、北海道や沖縄を経由していく人はまずいない。無駄なことをしないだけである。

 自動販売機でジュースを買うとき、お金を入れてから、「出て来い、出て来い」と念じる人はいない。すぐに飲みたい銘柄のボタンを押す。効果のないことはしないだけである。

 効果のないことや無駄なことをしない、つまり、効果的なこと、効率的なことに価値を見出す性向を、人間の本能は持っているのである。





忘却の功罪


 忘れることは、人間にとって大切な役割を果たしているのかもしれない。身内の死や耐え難い苦痛の記憶が一生ついて離れないとなれば、おそらくほとんどの人間は、精神的に破綻をきたしてしまうに違いない。忘れるということは、健全な精神を維持するための不可欠の作業であろう。

しかし、「忘れたことを忘れた」場合は、最も始末の悪いことになる。ほとんどの言葉や概念には、それが用いられる一定の条件や約束事が付随している。にもかかわらず、多くの場合、そうした前提は無視され、忘却の彼方に取り残され、ただ言葉のみが浮遊する。そこに誤解、対立、紛争が生まれる。

私たちは、意図的な忘却にも注意する必要がある。自分たちに都合の悪いことは忘れたことにする、こうしたご都合主義的な忘却には必ず悪意が潜んでいる。意図的な忘却とは、あえて考えないことであるが、それを繰り返せば、やがて考えること、考え抜く姿勢が失われていく。忘却は、忘却癖を生み出す。

ルールを忘れたサッカー選手は、あっという間にレッド・カード、退場処分になってしまうだろう。こんな当たり前のことも、スポーツ以外の世界では意外と多いのかもしれない。言葉や概念を扱う場合には、自分が何を忘れているか、チェックする癖を身につける必要があるのかもしれない。そのこともまた、忘却しないことが肝心ではあるが。